第10話 夜の森と朝焼け
「豆太くーん! 豆太くん!」
豪雨と呼んでも差し支えないほどの雨の中、森の中で柚子の声が響いた。木々が風に揺れて轟々と音を鳴らす。木の葉に溜まった雨粒がまるで滝のように柚子の傘に降り注ぎ、彼女の手から傘の柄が滑ってあれよあれよという間に傘は飛ばされていく。
「あっ……」
柚子の体に滝のような雨が降り注ぎ一瞬にして着物が恐ろしい重みを持った。その上、手に持っていた提灯の灯りが消えた。これではほとんど前が見えない。かと言って戻ることもできなくなってしまった。
けれど、柚子は歩みを止めない。どこかで、あの小さな豆太が苦しんでいるのではないか、怖がっているのではないかと彼を助けたい一心で声を上げ、歩き続ける。時には膝をついて木の根の穴を覗き込んだり、草木をかき分けて進んだりもする。幸い、嵐のような雨の中で歩く動物はいないのか、生き物の気配はなかった。
「豆太くん! 豆太君!」
森の深くに入ると勾配が少し出てくる。深い森の奥は山になっておりこの先は無奈の縄張りではない。クマや狼が多くいる可能性もある。ただ、柚子がもう道をわからなくなっているのと同じように豆太も迷っているかもしれない。
「どんぐり……」
地面におちたたくさんの濡れたどんぐりが、落ちていた。足に感じるごろごろした感触に手を伸ばす。形の良い、どんぐり。体の芯から冷たくなり、足もだんだんと動かなくなる。ただ、柚子よりも体の小さい豆太はもっと深刻だ。
「豆太君……」
柚子がもう一度大声をあげると、呼応するように「ギャーギャー」と獣が苦しむような声が聞こえた。無奈の妖力の加護がない豆太の悲鳴かもしれない。罠に引っ掛かっているか、それとも誰かを探して泣き続けていたか。
柚子は声をかけながら、獣の泣き声の方へ近づいていく。ごろごろ、どん。雷鳴まで鳴り始めた。運にも見放された柚子はなんとか鳴き声の方へ足をすすめる。
草木が蓄えた雨粒が彼女に降り注ぎ、ぐっしょりと濡れた冬物の着物が体にのしかかる。冷たく、氷のような指先がゆっくり、木の幹をつかみながら歩みをすすめる。
雷鳴と激しい雨音の中、耳を澄ませ柚子がたどり着いた先に小さな影が見えた。まるで地面に片足が埋まってしまっているみたいにうごかない。苦しそうで、痛そうで「ぎゃおぎゃお」と声を上げるそれは小さな体だった。
「豆太君!」
柚子は小さな体に近づいて、そっと手探りで体に触れる。びっしょりと濡れているが、柔らかい子供の毛皮。ほっそりした手足。大きな耳。
「豆太君……じゃない?」
大きな耳はピンと三角にたち、ほっそりした鼻先はすっと長い。雷の灯りで見えたのは小さな子供の狐だった。
「すぐに助けてあげるからね」
柚子は子きつねの足に食いついた罠をぐっと開いて外してやった。滲んだ血、きつねは痛そうに後ろ足をひきづりながら柚子の方へと歩いてくる。ぎゃうぎゃうと悲しそうに鳴き、それからぴったりと柚子に寄り添った。
「大丈夫よ、怖くないわ。私、友達を探してるの。小さなたぬきさん。見なかった?」
きつねは不思議そうに柚子を見つめ、暖を取るように寄り添ったまま。どうやら妖ではなくただのきつねだったらしい。
「歩きましょう。お父さんとお母さんを探そうね」
柚子はきつねを抱き上げて、再び歩き始めた。豆太の隠れていそうな場所、罠が張ってありそうな場所。できるだけ同じ場所を回らないように木々の特徴を覚えながら豆太を探す。懐のきつねの暖かさで少しだけ回復した柚子は、足を早めた。
何時間、森の中を彷徨い続けただろうか。柚子は足が前に出るのもやっとになり息を切らしていた。体が芯からぽかぽかと熱くなり、汗をかきそうなほど。寒くて冷たいはずなのにおかしな感覚だった。
うっすら、空が白み始めていた。けれど、柚子は豆太を見つけ出せずにいた。腕の中のきつねは不安そうに彼女にしがみついている。
「きゃん、きゃん」
遠くに聞こえたのは、犬のような鳴き声。それに反応したのは柚子の腕の中のきつねだった。きつねは、バタバタと足を動かし柚子の腕の中から飛び出した。
「待って」
罠があってはいけないと、柚子はきつねを追いかけた。しかし、すぐにそれを止める。遠くにきつねの母親らしき大きなきつねが見えたからだ。
「よかった。お母さんなのね……?」
きつねの母子は振り返り柚子をじっと見つめた。真っ赤な顔で安堵したように笑みを浮かべた柚子にきつねは頭を下げるように首を動かし、子きつねの首根っこを加えると草むらの中に消えていった。
柚子は冷たい明け方の雨に打たれながら呆然と立ち尽くす。結局、豆太は見つからなかった。一晩、あの小さな彼はどこかで無事でいるだろうか。そんなことを思って踏み出した一歩は、ぬかるんだ場所だった。
ずるっ。柚子の足は泥に取られ、バランスを崩す。なんとか草を掴もうとしたが、つるんと草が滑って手のひらが痛んだ。紙で手を切るような嫌な感覚がしたと同時、いっきに後に体制が崩れる。そうなってしまうと、濡れて滑りやすくなったゆるい勾配を柚子は転がっていく。
小石に、木の根にぶつかりながらごろごろ、つるつる。そして、飛び出したのは崖のようになっている急斜面だった。
「いやっ!」
豪雨で崖が崩れたらしく、下の方はポッカリとなにも見えない。柚子は命からがら、飛び出た木の根を掴んだ。両手でしっかり滑らないように掴んで、ぶらんぶらんと体が揺れる。
先ほど草でキレた手のひらがジクジクと痛み、体重がのった指先は取れてしまいそうなほど痛んだ。
下をみた柚子はゾッとする。下にはごろごろした大きな石がたくさんあり、落ちては絶対に助からないだろう。石や岩に体を打ちつけられて……けれど、木の根一本を必死に掴んでいるだけでその次の一手はなかった。なぜなら、木の根の下の部分の土は雨のせいで抉られたようになっていて踏ん張ることはできないし、他に手をかけれそうな場所もない。
ぎりぎりと指、手首、肘、肩が痛む。水を吸って重くなった着物と体重を支えるのはもう限界だった。
(幸せになるために、ここへきて……何もせぬまま死んでしまうなんて)
柚子はぐっと目を閉じた。思い出されるのは両親との貧しくも楽しい記憶、たぬきたちと過ごした素敵な時間。そして無奈と一緒にご飯を食べた記憶。始めて彼が「美味しい」と言ってくれた時、おかわりを欲しがった時。彼はいつだって不器用ながらに柚子に寄り添おうとしてくれていた。そして、無奈のために作った栗きんとん。
「あぁ、食べて欲しかったな」
柚子は目を閉じた。もう手は限界だった。手のひらから溢れ出た血がぬるぬると力を奪う。腕全体が軋んで痛み、脇の下が刺すように痛んだ。じんわりと暖かい感触。皮膚がちぎれたのかもしれない。
(ごめんなさい、みんな)
柚子の脳裏には嫁が死に再び妖ではと疑われる彼だった。どうせなら、ちゃんと仲良くしたかったと後悔もした。
その時
「柚子さん! 手を!」
柚子が目を開くと、木の幹に捕まって必死に手を伸ばしている無奈だった。半月の夜明け、やっとのことで人の姿になったのか、いつもは生えていないたぬきの耳は生えているし、彼の指の爪が少し長い。必死に開いている口も大きな犬歯が見えた。傘も刺さずに探してきた彼はぐっしょりと濡れていて、唇は真っ青。
「ダメです。無奈さんが死んでしまう!」
「そんなことどうでもいいです!」
無奈が木の幹を掴みながらさらに身を乗り出した。柚子は手を取ることを躊躇った。ぐしょ濡れで、まだ妖力が戻りきっていない無奈に「異能」が発動してしまったら。彼を殺してしまうかもしれない。妖力が戻りきっていないということは人間に近い状態のはずだから。
痺れをきらした無奈がぐっとさらに身を乗り出して柚子の手首を掴んだ。
(だめっ! 彼を傷つけないで!)
柚子はぎゅっと目を閉じる。柚子の力は妖に襲われてから発覚したものだ。彼女の父は「妖から身を守るため、神様が与えてくださったもの」だといった。柚子もそう思っていた。だから、無奈は関係ないと。大事な人を傷つけないでと祈った。無慈悲な雷が彼を傷つけしまうと思ったが……。
しかし、何も起こらなかった。無奈の大きくて冷たい手はしっかりと柚子の手首を掴み引き上げる。
「もう、大丈夫ですからね」
そのまま、柚子の体がやっと地面まで辿り着くと彼は柚子を横抱きにして走り始めた。柚子は、真剣な表情で前だけを見る無奈を一瞬だけ視界に入れたが、すぐに意識を失った。