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黄色い薔薇

 あの日は毎年やってくる。私は目の前に飾られた黄色い薔薇を見て、ため息を吐いた。十五年前のあの日は、私の家族が壊れた日だった。私は自分のお小遣いを使って、一本の黄色い薔薇を買った。学校で、父の日には黄色い薔薇を贈ることが多い、という話を聞き、私も、父に黄色い薔薇を贈ろうと思ったのだ。それが大きな間違いだった。

 平生、父は殆ど家にいなかった。たまに家に帰って来ては、母に対して声を荒らげた。物凄い物音がしたこともある。それでも、父は私に対して優しかった。芝生のある公園に連れて行ってくれたり、誕生日にはケーキを買ってきてくれたり。私は父が好きだった。でも、母は父が嫌いだった。自分の娘を愛すのに、嫁のことは罵声や暴力で虐げる。母は、そんな生活に耐え続けていた。だから、母は、父に黄色い薔薇を贈った私を見て、物凄い癇癪を起こした。父の手から薔薇を奪い、私に投げつけた。私の手に、鋭い棘が刺さった。そして、いつもの夫婦喧嘩が始まった。そこから結局離婚まで進んだ。それでも、私は父が好きだった。黄色い薔薇は、あれから毎年、この時期に必ず飾っている。


 母と二人暮らしになった時から、母は私を縛りつけるようになった。

『ママはユカのためを思って離婚したの。ユカはママの唯一の希望だからね』

 母はいつもこう言っていた。私はそれに応えるように、母の言う通りに行動していた。母が右を向けば右を向いたし、烏は白いと言ったら私も白いと答えた。高校も大学も就職も、母が勝手に決めた進路に進んだ。部活だって、本当はバレーボールがやりたかったけれど、母が吹奏楽部にしなさいと言ったので、吹奏楽部に入部した。自分の意見に順従する私の姿を見た母は、いつも得意満面だった。でも、私はその顔が嫌いじゃなかった。寧ろ、その顔を見られることが嬉しかった。母が私の存在を認めてくれた、と思えたから。本来私は、望まれていなかった子供だったらしい。それが原因で母と父の関係は悪化して行った、と母が言っていた。でも、両親は私のことを責めたりしなかった。私はそんな両親が好きだったし、優しくしてくれると嬉しかった。だから、私は自らの意思で母の傀儡になったのだ。今思うと、もっと自分の意思を持って、少しは反抗すればよかったのかもしれない。


 私の人生は、ただ、決められたレールの上を歩くだけの人生だった。今でもそうだ。空虚な心を埋められないまま、母の傀儡のまま、大人になってしまった。例えばレストランに行くだけでも、メニューを決めるのに人一倍の時間をかけてしまう。職場で面倒な仕事を押し付けられても、一切抵抗することなく承諾してしまう。殺す心もないほど、私には私の心が残っていなかった。

 そんな私にも、一つだけ、好きな物がある。それは、黄色い薔薇だ。それだけは、誰に何と言われようと、どうしても心に残しておきたかった。でも、母は黄色い薔薇を忌み嫌っていた。母にとっても私にとっても、それは父の象徴だったから。一度だけ、私が黄色い薔薇を持っているところを母に見られてしまったことがある。母はあの日のように私に対して目くじらを立てた。でも、私の手に棘は刺さらなかった。代わりに、母の怒りが心に刺さった。それから私は、母の目に黄色い薔薇を入れないよう努力をした。母を様子を窺いながら薔薇を隠そうとする時、いつも私の胸はざわついていた。


 *

 私の妊娠が発覚してから、私の自由は奪われた。責任なんて取れないと、()()()は言った。ユカは本来生まれてくる未来のない子供だったのだ。でも、私は自分の身体に宿った命を見捨てることができず、産むことを決意した。生まれてくる子供に罪はないのだから絶対にユカを責めない、ということだけを約束して、アイツとの子育て生活が始まった。ユカが生まれてすぐの頃は一切育児に参加しなかったくせに、ユカが言葉を分かるようになると急に世話をし始めたアイツに、心底腹が立った。ユカは私だけの宝物なのに。だから、あまりユカに関わらないでほしいと言った。でも、アイツは、ユカは俺の子供だからと言って聞かずに、私のことを責め立てた。それでも、私はユカを産んだのを後悔したことはない。あの苛酷な日々の中で、ユカは私の愛しい唯一の希望だったのだから。ユカには、幸せな人生を歩んでほしかった。そのために私は、白く煌めく終着駅まで続く、まっすぐ引かれたレールを用意した。それを脱線することなく、素直にまっすぐ歩き続けてくれるユカが、私の何よりの誇りだった。そんなユカにも、一つだけ、許せないところがある。ユカは、アイツが好きなのだ。


 ある日、ユカが突然黄色い薔薇を手に持って帰ってきた。学校の授業か何かで使うのか、若しくは私へのプレゼントかとも思った。そんな期待はしなければよかった。ユカはその薔薇をアイツに渡した。父の日には黄色い薔薇を贈るんだよ、と、屈託のない笑顔をアイツ向けながら。アイツも嬉しそうに薔薇を受け取って、ユカの頭を優しく撫でた。私はこの時、初めてユカに対して憎悪の念を抱いた。ユカは、私だけが大切に育ててきたのに。アイツは、私に対して簡単に暴力を振るうような人間なのに。何故、アイツのことを想う必要があるのだろう。あの時私は、考えるより先に身体が動いてしまった。大事なユカの手を、私の手で傷つけてしまった。家族を傷つけるなんて、絶対にしてはいけない。アイツみたいには、ならない。私は、二度とユカのことを傷つけたりしないと誓った。そして、あの黄色い薔薇も、忌み物として扱うようにした。でも、ユカが、黄色い薔薇を毎年飾っていたのを私は知っている。


 ドアが開く音がした。ユカが帰ってきた合図だ。

「おかえりなさい」

「ただいま」

 簡素な挨拶を交わすだけの毎日だが、私はそれで満足していた。ユカと私だけの平和な毎日。まさに、私が望んでいた未来だった。私は、この毎日が一生続くことを心から願っていた。それなのに。

「私、結婚したい人がいるの」

 二人で夕食を食べながら、ユカは告白した。結婚という名の駅は、私が敷いたレール上にはなかった。ユカを幸せにできるのは、ユカに人生を捧げてきたこの私だけなのだから。顔も知らない、ぽっと出の男なんかが、ユカを幸せにできるわけがない。

「結婚は認めません」

 まっすぐユカの目を見て、私の素直な気持ちを伝えた。素直なユカは、きっとこの気持ちを受け止めてくれるだろうと思った。でも、ユカは一切表情を変えず、

「もうやめてよ」

 とだけ言った。私はユカのためを思ってここまで手を尽くしてきたのに、どうして私の気持ちを踏み躙ろうとするのだろう。ユカが今幸せなのは、全て私のおかげなのに。

「私がどれだけ自分を犠牲にしてきたと思ってるの?なのに、なんで私だけが報われないの?」

 思わず声を荒らげてしまった。でも、ユカは至って冷静だった。

「その言葉、そっくりそのまま返すよ」

 私は何も答えられなかった。そんなこと、とうの昔から気付いていたから。でも、臆病な私には、黄色い薔薇を見逃してやるくらいしかできなかった。涙を浮かべたユカの目が、私を刺し、心が軋んだ。

 *


 家に向かう途中、木々が眩しいくらいの鮮やかな緑色を身に纏っているのを見た。両手に抱えた八本の黄色い薔薇は、目を突き刺すように鋭く、そして温かく輝いて見えた。もうすぐ、夏がやってくる。

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