青いスマートフォン
今日も鬱陶しいアラーム音で目を覚ます。大きな欠伸をして、隣のベッドに目を向ける。やはり、昨日の夜と変わらない、綺麗な状態のままだ。眩しい朝日を避けるように顔を洗い、食パンをトースターに放り込んだ。こうして一人で迎える朝は、何度目だろうか。少し焦げた食パンを頬張りながら、スマホを片手にその日のニュースを流し見していた。私の家にはテレビがない。だから、情報源は全てネットか新聞だった。
私はほとんど新聞を読まないのに、新聞を取り続けている理由は、この家に彼が存在していると錯覚できるからだ。彼は活字を読むのが好きで、普段から新聞や本を楽しそうに読んでいた。私も何度か彼の本を読んでみたことがあるが、どれも難しくてすぐに飽きてしまった。そんな私を見て、嫌なら見なければいいのに、と笑う彼の顔が、大好きだった。戻らない幸せな日常に思いを馳せながら、今日も仕事に行く。机の上には、まだ、彼の青いスマートフォンがある。
仕事は憂鬱だ。今日は別段暑い日だった。ドアを開けた瞬間に、少し目眩がしたくらいだ。こんな気温の中、重い荷物を持って歩かなければいけない。夏の仕事は一番嫌いだった。
「恋人がいなくなったくらいで、仕事を疎かにするな」
これが、最近の上司の口癖だった。部署内でトップクラスだった私の成績は、彼がいなくなってからだんだん低下して行った。今では、下から数えた方が早い。それに対して私は、平謝りをするだけだ。嫌なことは、聞いてはいけない。何も耳に入れてはいけない。そう自分に言い聞かせて、上司の小言は適当に受け流す。
「すみません、もっと頑張ります」
今日も、契約は一つも取れなかった。
私の唯一の楽しみ、それは、料理をすることだった。家庭的な料理はもちろん、それに手を加えた創作料理も好きだった。私が料理をしている時、彼はいつも本を読んでいた。でも時折、キラキラとした目で私の方を見ていた、ということを私は知っている。彼のその視線は暖かく、私はより一層幸せを感じることができた。彼は私の料理を食べると、屈託のない笑顔を私に見せてくれた。『いつもありがとう、本当に世界一美味しいよ』と。私の手料理を食べて笑ってくれる彼は、私だけの宝物だ。もし失敗した時でも、これはちょっとしょっぱすぎるとか、焼きすぎかもしれないとか、しっかりアドバイスをくれるような人間だった。美味しくない手料理にお世辞を言われるよりもずっと嬉しかった。お弁当も毎朝二人分作って、最寄りの駅まで一緒に歩いた。私達は幸せな同棲生活を送っていた。なのに、どうして壊れてしまったのだろう。そんなことを考えながら、彼が一番好きだったハンバーグを作った。静かにナイフを入れる。少し、焼きすぎたかもしれないな。机の上では、青いスマートフォンが沈黙している。もし彼がここにいたら、焼きすぎだって言ってくれるかな。
今日も青いスマートフォンを手にする。彼が何を思って私の前から消えたのか、それだけが知りたかった。四桁の暗証番号を入力して、複数回間違えてロックがかけられる。それを今日まで毎日続けて来た。心当たりのある番号を全て試しても、スマホの中身を見ることはできなかった。だから、地道にやっていくしか方法がなかったのだ。でもようやく、その中身を見られる日が来た。表示されていたロック画面が、ホーム画面に変わった。私は高揚感と罪悪感に包まれた。まず何から見るべきか。震える指で、LINEのアイコンをタップした。そこには、会社の同僚や友人とのやり取りしか存在しなかった。次にSNS、メール、電話帳など、誰かと交流できるアプリを全て見た。しかし、浮気の証拠は一切残っていなかった。むしろ怖いくらい、何もなかった。彼が帰って来なかった日の夜、真っ先に思い浮かべたのが浮気だった。彼に限ってそんなことはありえないと思っていたけれど、それでも心のどこかで疑いの気持ちがあった。彼が誰かに取られるなんて、考えただけで胸が焼けるような気がした。しかしそれは、単なる思い込みだったのだ。ごめんね、と、宛先のない言葉を呟いた。
彼はいつも言っていた。『嫌なことは聞こうとしちゃいけない。何も聞いてはいけないし、見てもダメだ』と。私が彼に仕事の愚痴をこぼすと、決まってこの言葉が返ってきた。それに、彼は猜疑心が強かった。彼はどんな人にも疑いの目を向け、警戒しているような素振りを見せていた。安易に人を信用してはならない。彼はこの言葉にいつも縛り付けられていた。私もそれに倣うように、嫌なことはなるべく聞き入れないよう努力をしていた。そんな彼でも、少しだらしないところがあり、脱いだ靴下を床に放り投げることがよくあった。私がそれを指摘しても、いつも彼は何も聞こえないフリをしていた。私はそれに憤りを感じながら、仕方なくその靴下を洗濯機に入れていた。これだけではない。私がテレビでありがちな恋愛ドラマを観ていた時、彼は何も言わずにテレビを消した。観てたのに!って怒っても、彼は何も言わなかった。次の日、仕事から帰ってくると、テレビがなくなっていた。極端すぎるというか、我儘すぎるというか、とにかく彼は変わっていたのだ。でも、その変わっているところが堪らなく好きだった。そんな彼が、どうして姿を消したのか。青いスマートフォンを枕元に置いて、答えのない夜の眠りについた。
昨日、久しぶりに彼の夢を見た。悍ましい夢だった。血のように赤黒く光った青いスマートフォンから、歪んだ彼の声が響く。
『俺はお前のことを信用できない。最初から信用なんてしていなかった。ネットでどれだけ俺の心を苦しめた?俺が姿を消した理由、そんなの、嫌なものは見てはいけない。ただそれだけだ。』
『違う、私は、ユウ君の全てを愛していただけなのに!』
私は夢で叫んだ。でもユウ君は何も聞き入れてくれなかった。青いスマホに手を伸ばそうとしたのに、手が震えて動けなかった。最後に、優しかった彼の声が聞こえた。
『ああ、でも、お前の料理は本当に美味かった。』
目が覚めると、頬に濡れている感覚があった。枕元を見ると、青いスマートフォンが、私を睨むように置かれていた。彼の言葉が、頭から離れない。スマホに触れると、冷たい罪悪感が私の指を刺した。でも、私は本当に、心から彼を愛していただけなのに、どうしてその愛が伝わらなかったのだろう。
私と彼は、インターネットで知り合った。ネットの意見に臆することなく自分の好きを貫く姿に心を奪われた。そんな彼を、誰にも取られたくなかった。だから毎晩、偽アカウントを作って彼を貶した。『本ばっかり読んでる時代遅れオジサンw』『ネットでしかイキれなくて可哀想w』と、何十、何百と書き込んだ。送信ボタンを押すたび、心臓がドクンと高鳴った。画面の向こうの誰かが彼を嫌い、彼から離れていく。だけど私はそれで良かった。彼は私のものだ。私だけのものなのだ。そうしていつの日にか、彼はスマホを見る代わりに、新聞や本を読むようになった。私はそれが嬉しかった。そんな彼の姿を見るのが大好きだった。それだけで勝ち誇ったような気分になれたから。私は彼を独り占めできた。その自信が、私を仕事でも輝かせていた。
ああ、最初からこうしておくべきだったのか。私は、彼の怨念が詰まった青いスマートフォンをビジネスバッグに入れて、今日も電車に揺られる。




