石を投げれば探偵にあたる
<あらすじ>
盆休みを実家で過ごそうと、生まれ故郷の横浜に帰省した小石栄佑は、数日前に幼馴染の富田花が轢き逃げ事故にあい亡くなったことを知る。小さい頃、探偵に憧れていた彼女への手向けのため。小石は事故の調査を知り合いの探偵に頼むことにしたのだが――。
<注意>
この物語はフィクションであり、実在の人物・団体・作品とは一切関係ありません。
<一日目>
青い空に入道雲、照りつける太陽に蝉の声。これでもかというくらい夏の洗礼を受けながら、実家へ続く急勾配の坂を登る。
背後を電車が通過する音がして振り返ると、先程改札を出たばかりの桜木町駅から、横浜駅方面へ向かう電車が目に入った。昔はあの線路の向こう側に海が見えたのに――。なんてことを考えながら、建ち並ぶビルを眺める。
東京に出て八年。横浜の実家に帰るのは盆と正月の年二回。帰省のたび、生まれ育った街に知らない建物が増えていくなとは思っていたが、今ではほとんど昔の面影を感じられない。
坂を越え、ようやく到着した実家もそうだ。自分が家を出てから実家は建て替えられ、その馴染みのない外観は、正直実家に帰ってきたという感じがしない。
「ただいま」
数ヶ月ぶりに実家の敷居を跨ぐと、家の奥からパタパタと足音が近付いてくる。その音だけで、母がいまだに健康サンダルを履いているのが分かった。
「ああ栄佑、おかえり。暑かったでしょ!」と母に出迎えられ、母の後ろから顔を覗かせる飼い犬のミニチュアシュナウザーには、「う~」と唸って威嚇される。
この犬もまた自分が家を出てから登場したニューフェイスであり、自分のことはたまに家にやってくる謎の成人男性として完全に不審者扱いされている。嫌われている原因にはもうひとつ心当たりがあるが、それはどうしようもないことなのでいい加減慣れてほしい。
「麦茶出してあげるから、リビングで涼んでな」
母に言われた通りリビングへ向かうと、鴨居に見慣れない服がぶら下がっているのを見てぎょっとする。喪服なんて、最近ではショッピングモールのマネキンが着ているところしか目にしていなかった。
「葬式でもあったの?」
「あれ、知らなかった⁉」
「何が?」
「あんた、私からのLINEちゃんと見てないから~」
「いや、だから何が?」
「富田さんちの花ちゃんが亡くなったのよ。覚えてる? 昔あんたとよく遊んでくれた」
一瞬、母が誰のことを言っているのか分からなかった。
「富田花って……、えっ? うちの裏に住んでたあの富田?」
「そうそう」
富田とは家が近く、物心ついた頃から一緒に遊んでいたいわゆる幼馴染だ。しかし、向こうが中学受験をして学校が変わってからは疎遠になっていた。たまに道端で会ったら挨拶をするくらいのことはあったが、連絡先の交換などもせず。こちらが東京に就職して家を出てしまってからは一度も顔を見ていない。
――その富田花が亡くなったという。
「なんで? 病気?」
「事故だよ。野毛で轢き逃げにあって」
野毛とは、実家からほど近い場所にある横浜の有名な繁華街だ。
「轢き逃げって――。犯人は?」
「それがまだ捕まってないのよ。娘さんを亡くして犯人は逃亡中だなんて、私は富田の奥さんが不憫で不憫で……。この前スーパーで会ったとき少し話をしたんだけど、なかなか心の整理もつかないみたいでね。花ちゃんの部屋もしばらく片付けられそうにないって」
母の言う富田の奥さんとは、つまり富田の母親のことであり、娘に先立たれた母親の気持ちを考えると胸が傷んだが。実家にまだ娘の部屋があるというのが引っ掛かった。
「富田っていまだに実家暮らしだったの? 結婚は?」
「してないわよ。仕事も恋人も長続きしなくて、どっちも取っ替え引っ替え根無し草のような生活をしてるって、よく奥さんがボヤいてたわ」
その流れで、「あんたは恋人できたの?」と、飛び火してきたので話を元に戻す。
「俺のことはいいから。その事故って目撃者はいないの? 富田の連れは?」
「ひとりで飲みに行って、ひとりで帰ろうとしたみたいよ。行きつけのお店に行けば約束なんかしてなくても顔見知りに会えるし、お父さんだって飲みたい気分のときはひとりでふらっと行くじゃない」
「そういうものか?」
「そういうものよ」
自分は成人する前に横浜を出てしまったので、野毛の飲酒文化にはあまり馴染みがなかった。
「最近の野毛は凄いわよ~。新しいお店がたくさん出来て、テレビに取り上げられたりしてね。せっかくだからこっちにいる間に野毛で飲んできたら?」
幼馴染が亡くなった話をしたばかりなのに、事故現場の近くで飲んでこいというのはどうなんだ。と、一瞬母の倫理観を疑ったが、母からしたらなかなか東京から帰って来ない息子に、地元も東京に負けていないところを見せたいのだろう。
「行けたら行くよ。今日は家にある自分の荷物を整理して、明日は出掛けるつもり」
「あれ、特に用事もないからゆっくりするって言ってなかったっけ?」
「ちょっと思い出したことがあって」
八年前、「何か困ったことがあったら連絡をくれ」と言って名刺をくれた人物がいるのだが、その人に用事ができた。まあ、その名刺が今どこにあるのか記憶が定かではないのだが――。
「俺の荷物って納戸だよね」
「そう、玄関横の納戸に全部入ってる」
前述した通り、家の建て替えにともなって青春時代を過ごした自室は消滅している。家を出る際に持ち出すほどでもなく、かといって捨てるには忍びない。いわゆる思い出の品がまとめて納戸に押し込まれているのだ。まるでタイムカプセルだな。と思うと、変わってしまった地元の景色が頭をよぎった。
母が持ってきてくれた麦茶を飲み干し、充分に身体が冷えたことを確認すると、意を決して冷房のきかない玄関へと戻っていく。
自分が横浜で生まれ育った軌跡が残る小さな納戸の前に立つと、真の故郷はこの中にしかないような、そんな気がした。
<二日目>
危惧していたほど、名刺探しに時間はかからなかった。分かりやすく、『大事なもの入れ』と書かれたファイルを見つけると、高校の合格証書やバイトの給与明細なんかと一緒に名刺が入っていた。これは小学生の頃、学校のプリントを紛失しまくっていた時期に母から教わった生活の知恵で、「とにかく大事そうなものは箱なりファイルなりに入れておきなさい」と言われたのを律儀に守っていた。
今日はその名刺を片手に、炎天下の横浜大通りを歩いている。通りの突き当りには横浜ベイスターズの本拠地である横浜スタジアムがあり、青いユニフォームを着たファンが周辺をうろついていた。
そんな人通りの多いメインストリートから脇道に入ると、三棟のマンションに囲まれた小汚い雑居ビルが目に入る。「この土地の所有者だけ頑なに土地を明け渡さなかったんだな」というのが見てとれる、味わい深い景観だ。
その雑居ビルに足を踏み入れ、名刺に書かれた五階の部屋を目指す。あの人は自分の事を覚えてくれているだろうか? 軽い気持ちで渡された名刺を本気にして、馬鹿正直に訪ねて行っては迷惑なんじゃないか?
そんなことを考えながら、昔の記憶を辿るように一歩一歩階段を上っていく――。
あれは自分が十八歳のとき。自動車免許を取得するため、教習所に通っていた頃のことだ。
最寄駅から送迎バスに乗って教習所まで送ってもらっていたのだが、自分が使っていたルートと時間帯はあまり人気がなく、初老の男性運転手と一対一になることが多かった。
教習所までは片道約二十分。お互い沈黙に耐えられるタイプではなかったので、自然とふたりの間には会話が増えていった。
佐藤と書かれた身分証を首から下げたその運転手は、「野毛の飲み屋を全制覇した」「長者町のホームレスはみんな顔見知りだ」「関内で一番の美人と付き合ったことがある」など、嘘か真か分からない逸話から、年頃の愛娘との接し方に悩んでいることまで、様々なことを話してくれた。
そんなある日。談笑の中で佐藤は、「送迎バスの運転手は本業の傍らやっている副業だ」と言い出した。それなら本業は何なのかと聞くと、「当ててみな」と返され突然クイズがはじまる。
真面目に答えるのも面白くないなと思い、「私立探偵ですか?」などとフィクションでしか見たことのない職業を口にしてみたが、意外にも否定の言葉は飛んでこない。一瞬の沈黙の後、「なんでそう思った?」と聞き返して来た声のトーンに、いつもの佐藤とは少し違う雰囲気を感じた。
「探偵ものの小説とかドラマって、横浜が舞台の作品が多いじゃないですか。小さい頃、幼馴染とそういう作品をたくさん観ていた時期があるんですけどね。これじゃあ横浜は、『石を投げれば探偵にあたる』状態だ。ってその子が言うんですよ。冗談なのは分かってますけど、それからしばらくは目に映る人間が誰も彼も探偵なんじゃないかと思って、ちょっとワクワクしてました」
「それで俺が探偵だって?」
「佐藤さんからいままで聞いた逸話も、ちょっと探偵っぽいじゃないですか」
「あー、そのことだけど、俺の名前は佐藤じゃないんだ」
「――え?」
ちょうどそのとき、前方の信号が赤になり送迎バスが停車する。いまこの瞬間に名前不詳となった運転手を警戒していると、彼はダッシュボードから小さな紙を取り出しこちらに渡してきた。
そこには、『私立探偵 兼古正史』と記載してあり、自分が受け取ったのは本業が記された名刺であることに気が付いた。
「えっ、これ、本当に探偵だったんですか‼」
「一発で言い当てられちまうとは、俺も焼きが回ったな」
佐藤改め兼古は、もう取り繕う必要がないとでも言うように、煙草を口に咥える。
「吸ってもいいか?」
「どうぞ」
許可を得た兼古は運転席の窓を開け、煙草に火をつける。窓枠に肘を乗せ、ハンドルを片手で操作するその姿は、たしかに教習所の送迎バスの運転手には見えない。
「結論から言うと、ある事故の証拠を探すためにこの教習所に来たんだ」
「それって潜入捜査ってことですか?」
「捜査なんて言ったら本職の刑事に怒られちまうな。探偵なら調査だよ、潜入調査」
三ヵ月前、教習所の近くで轢き逃げ事件が起きた――。と、兼古は事の顛末を語り始めた。
被害者は頭を強く打って事故前後の記憶を失っていたが、命に別状はなく。警察は事故現場に、『目撃情報求む』と看板を立てただけで捜査を切り上げた。死亡事故でもない限り、交通事故の捜査なんてそんなものらしい。
しかし、被害者の家族は納得しておらず、兼古に犯人を突き止めてほしいと依頼をしてきたのだという。
「まずは事故現場周辺の聞き込みからはじめたんだが、誰も彼もこの教習所が怪しいって言うんだよ。路上教習のためにわざと細い道に入って来たり、変なところに駐車してたり、普段から迷惑を被ってる住人達の、苦情にも似た証言がたくさんとれてな」
兼古の話を聞いて、犯罪の片棒を担いだような居心地の悪さを感じた。自分も路上教習の際、商店街を通過するよう指示されたのだが、何もわざわざ人通りの多い場所に突っ込んで行かなくても……と思ったものだ。
「それで事故の証拠を探すため、送迎バスの運転手として教習所に潜り込んだんですか」
「そうだ。教習車を一台ずつ見て回る必要があったからな」
「一台ずつ、目で見て事故車を探したんですか」
「事故車と言うなら教習所の車なんてみんな事故車だけどな。どの車もどこかしら凹んだり擦れてる。まさに木を隠すなら森の中ってやつだ」
そんな中、目的の一台を探し出すのは至難の業じゃないかと思ったが、兼古がこの話を自分に打ち明けている時点で、この仕事は完了したんじゃないかと察しが付いていた。
「見つかったんですよね? 事故の証拠」
「ああ。よく見ると一台だけ、バンパーに服の繊維が絡んでた。昔馴染みの鑑識にその解析を依頼したら、事故当時被害者が着ていたものと一致したってわけだ」
「鑑識に伝手が?」
「俺は元刑事だからな」
元刑事の私立探偵というものが本当に存在するんだなと。兼古が証拠を掴んで事件を解決したことよりも、そちらの方に感心がいった。思わず、「ドラマの主人公みたいな設定ですね」と言うと、兼古が苦笑いをする。
「事実は小説より奇なりってことなら、君だってそうだろう」
「俺が?」
「『石を投げれば探偵にあたる』だよ。君が投げた石は本当に探偵にあたったぞ」
冗談で言ったことを蒸し返されるほど恥ずかしいことはない。「石なんて投げてませんよ」と、突き放すような台詞を吐くが、兼古はこの言い回しが気に入ったようでしつこく深堀りしてくる。
「石というのは君自身のことだ」
そう言いながら胸をとんとんと叩いている。そこを見てみろとジェスチャーをしているようだが、見なくても何があるのかは分かっている。マイクロバスに乗車するため首から下げている教習所の生徒証には、『小石栄佑』と名前が印字されている。
「君が横浜を歩けば、探偵に遭遇するってことさ」
「そんな縁起でもない」
「その名刺はやるから、もし他所の探偵とトラブルになったり、何か困ったことがあったら連絡してくれ」
「他所の探偵って……」
そんなほいほい探偵にエンカウントすることはないだろうと思ったが、受け取った名刺はなんだか特別なチケットのような気がして無下にはできず。大切なものを抱えるようにして懐にしまった。
その後、教習所が事故を隠蔽したことは全国ニュースで報じられ、営業を続けられなくなった教習所は閉鎖。転校する生徒を受け入れてくれた系列校のおかげで、免許は無事に取得することができた。
その免許を元に宅配のバイトで一人暮らしの資金を貯めると、就職が決まってすぐ実家を出た。東京では電車移動で事足りるうえ、そもそも車を持つ金銭的余裕もないため、紆余曲折あって取得した運転免許証だったが、最近ではただの身分証明書になっていた。
そしてその身分証明書はいま、文字通り身分を証明するためインターホンにかざされている。
名刺に書かれていた電話番号には繋がらず。もしかして事務所を畳んでしまったのではないかと不安を抱えながらの訪問だったが、たどり着いた住所の場所には、『兼古私立探偵事務所』と書かれた看板が掲げられていた。
ほっと胸を撫でおろしインターホンを鳴らすと、「はい、どちら様ですか」と女性の声が返ってくる。
「あの、兼古正史さんから紹介を受けて来たのですが……」インターホンのカメラに映るよう、名刺をかざしたが、「私は君が何者か聞いているので、見せるなら君の名刺を見せてもらえるかな」と言い返されてしまった。何やら不穏な空気を感じる。
休暇中に名刺を持ち歩いているわけもなく、かわりに見せることになったのが免許証というわけなのだが。個人情報を大切にしろと言われている昨今、初対面……というか対面もまだしていない相手に名前も住所も晒すことになるとは思ってもいなかった。
「ふーん、東京からわざわざ?」
「お盆の帰省でこっちに帰ってきてるんです」
「そっか、帰省ね……」
インターホン越しに聞こえてきたこちらを訝しむような台詞も、相手の表情が見えない状態ではどういう意図で言っているのか汲み取れない。
この警戒心の強い女性は兼古の部下なのか? と思案していると、ガチャリと鍵のあく音が周囲に響いた。内側から開かれた扉の先には、全身黒のパンツスーツに身を包んだスレンダーな女性が立っていて、黒いロングヘアーに黒のパンプスという、黒くできるところは黒にしようという意思を感じさせるコーディネートが、実家の鴨居にぶら下がっていた喪服を連想させる。
その彼女に、「どうぞ」と言われると反射的に、「失礼します」と答えて室内に足を踏み入れた。はじめて探偵事務所という場所を訪れたが、なんてことないありふれた小規模オフィスで、部屋の真ん中に置かれたソファとテーブルはいかにも、「さあここで話し合いをしなさい」と言っているようだった。
「かけて」
言われるがままソファに腰をおろすと、ほのかに兼古の煙草のニオイがする。一瞬顔をしかめたのを悟られたのか、「ごめんなさい、煙草臭いわよね」と謝られる。
「室内でも平気で吸う人だったから臭いが染みついちゃってるの。まったく、優秀な探偵は『鼻が利く』なんていうけど、スパスパ煙草吸っておいてなにが鼻が利くよね」
女性はテーブルの上にお茶を置くと、事務所の窓を全開にしてから自身もソファに腰かけた。
「それで、兼古の紹介ってことは何か依頼したいことが?」
「ええ、まあ。あのー……」
「なに?」
先程彼女が口走った、「室内でも平気で吸う人だった」という言い回しが気になる。まずはそこを確認しないと話が先に進まない。
「兼古さんは?」
「君、知らないで来たの?」
その反応に、先日の母親との会話をなぞっているような感覚を覚える。
「数年前に亡くなったのよ、肺癌で。今は私が社長なの」
それなら表の看板に書いてある事務所の名前も変えるべきだろうと思ったが、差し出された名刺を見てその必要はないのだと理解した。
「娘の兼古薫よ」そう言われると、父親と似ているところが目につく。一見柔らかい印象を持つ目元だが、よく見ると眼光は鋭く。挑戦的な笑みを浮かべる口元のかたちや、相手のことを「君」と呼ぶところもそっくりだ。
「父じゃなくて残念だった?」
「いえ、他に探偵事務所のあてもありませんし、娘さんが対応してくれるならお願いしたいです」
「あてがないって、本当に?」
「なんでそんなこと聞くんですか?」
「『石を投げれば探偵にあたる』が座右の銘の小石君っていうのは君でしょ? あれから他の探偵とは知り合ってないの?」どうやら薫は父親から自分のことを聞いていたようだ。
「座右の銘ではないですね」と、まずは前者を訂正すると、「もしかして君自身が探偵になっていたりして?」などと追撃してきたので、急いでこれも否定する。
「そんなわけないじゃないですか。俺は東京砂漠であくせく働いているしがないサラリーマンですよ」
「そう、東京では何の仕事を?」
「広告業です。広告の制作会社」
「副業みたいなことはしてないのよね?」
「してませんよ、会社は副業禁止なので」
何だか分からないが、薫はインターホン越しに会話をしたときから、やたらとこちらの素性を疑っている。
「一体何なんですか」と質問すると、薫はテーブルの上に伏せていたスマートフォンを手に取り、印籠をかざすように画面を見せつけてきた。
そこには、『キセイ探偵事務所』というユーザー名のSNS※1のアカウントが表示されており、プロフィール欄には、主に横浜を中心に活動している探偵であること。仕事の依頼はDM※2に送ってほしいということが書かれていた。
「このキセイ探偵事務所、事務所と言いつつ実態はなく、SNS上でしか活動していないんだけど。そんな、いまどきのスタイルがウケて、うちみたいな古いタイプの探偵事務所の仕事が奪われているのよ」
仕事柄SNSには詳しいので、そういう営業スタイルがあることは知っていたが、専門性の高い探偵業でもそれが通用するのかと驚いた。
「それで、そのキセイ探偵事務所がどうかしたんですか?」
「これ、あなたが運営してるアカウントなんじゃないかと思って」
「なんで⁉」
これには心底驚いた。思わず、家の中にでかい虫がいるのを発見したとき以来の大声が出る。
「キセイって珍しい名前だなと思っていたんだけど。これ、里帰りの『帰省』のことなんじゃないかと思って」
つまり薫は、探偵と縁のありそうな小石が、横浜に帰省してきていると聞いて。キセイ探偵事務所の正体が自分か、もしくはその関係者であると疑っているようだ。
「違いますよ‼ 大体もしそうだったとして、キセイ探偵事務所の人間に直接会えたらどうするつもりなんですか?」
「探偵っていうのは然るべき場所に届出をして開業するものなんだけど、そういうの、ちゃんとやってるのかなって問い詰めたくて」
「問い詰めてどうするんですか」
「廃業に追い込む」
怖い話だなと思ったが、気持ちは分からなくもない。広告業界も実態のない怪しげなデザイナーやプランナーがネット上にはびこっているのだが、彼らが行った質の低い仕事と、きちんと会社勤めをしている自分達の仕事を同じ括りにされるのは非常に遺憾だった。
「とにかく自分は探偵じゃありませんし、ましてやキセイ探偵事務所なんてアカウントは初耳です」
無実だ、隠し事はありません。と言わんばかりに両手を挙げて見せると、薫はため息をついて表情を綻ばせた。
「分かったわ、疑ってごめんなさい。ここのところ立て続けにキセイ探偵事務所に仕事を奪われていてね。そんなとき、父から聞いていた噂の小石君が現れてちょっと動揺したわ」
そこで薫はひと呼吸置いてから、「君もキセイ探偵事務所に鞍替えしてもいいのよ」と自虐的な発言をする。
「SNS上の探偵事務所なんて嫌ですよ、薫さんにお願いしたいです」
「初対面で下の名前?」
そっちなんてタメ口じゃないか。と思ったが、機嫌を損ねて依頼を断られては困ると思い、そこには突っ込まないでおいた。
「お父さんのことを兼古さんと言ってしまったので、いまさら娘さんの方を兼古さんと呼ぶのはややこしくて」
「なるほど、たしかに混同しちゃうわね。父のことを知っている人には基本、『娘さん』って呼ばれているから盲点だったわ。『薫さん』でいいわよ」
どうやら下の名前で呼ばれ慣れていないための過剰反応だったようだ。照れくさいのを隠すように、「お茶入れてくるわ」と席を立った薫を待っている間、そういえば自分も女性を下の名前で呼ぶのは久し振りだということに気が付いた。富田と一緒に遊んでいた頃、彼女のことを、「花ちゃん」と呼んでいたことを思い出す。
「それで、依頼内容は?」
薫が淹れてくれたお茶を挟んで再び向かい合うと、その湯呑の横に実家から持ってきた新聞の切り抜きを差し出した。
「先週野毛で起きた轢き逃げ事件。この犯人を探してもらいたいんです」
「ああ、私もこの記事読んだわ。それで、どうしてこの事件なの?」
「被害者は俺の幼馴染なんです」
目の前に座る薫の、整った顔が少し歪んだ。
「それは、御愁傷様」
社交辞令ではなく、心からの慈悲の言葉だろう。自分のことを見る彼女の目つきが、突然訪ねてきた不躾な訪問者から依頼人を見る目に変わったのが分かった。
「まずはどこまで捜査が進んでいるのか警察に確認をとらないとね。父の伝手で警察には知り合いが多いから、捜査情報は共有してもらえると思うけど」
「それで行き詰るようなら調査はそこまででいいですよ。自分もあまり頻繁には顔を出せませんから、長期に渡って任せっぱなしというわけには……」
「住んでるの東京だもんね」
「元々こちらに調査を依頼しようと思ったのも、亡くなった幼馴染が探偵に憧れていたから彼女への冥途の土産になるかなと考えた程度のことで」
「そんな記念受験みたいな理由で?」
「幼馴染とは長らく疎遠でしたから、あんまり深入りするのも重いじゃないですか。三日後には東京に帰るので、調査はそこまでで大丈夫です」
「三日後って金曜じゃない。土日も繋げたらもう少しこっちに居られるのに」
「向こうで待ってるひともいるので」
「彼女?」
「みたいなものです」そう言うと薫は妙に納得したような表情になり、「なるほどね」と呟いた。
「彼女からしたら、自分の彼氏が女友達のために奔走しているなんて、いい気はしないわね」
仕事柄、男女関係のもつれなどの依頼もこなしているのだろう。勝手に深読みをして気を遣ってくれた。まあ、まったく的外れなのだが……。
「分かったわ。じゃあ金曜日、東京に帰る前に事務所に寄ってくれるかな。そこで調査結果を報告するけど、その間に進捗があったら都度連絡するわ」
「ありがとうございます」
話がまとまり、依頼料などの見積りを受け取ると、「また金曜日に」「宜しくお願いします」と挨拶を交わして事務所を後にした。
横浜大通りの人通りは活発になっていて、どうやら試合開始の時刻が近付いているようだった。
すれ違うベイスターズファンの会話から、メジャー帰りの選手が思ったより活躍していないという話が耳に入ってくる。「横浜に帰ってきたからには役に立て」という台詞に、なぜだか気まずさを覚えて足早にその場を離れた。
※1 ソーシャルネットワーキングサービスの略。インターネット上のコミュニティサイト。X(旧Twitter)やInstagramなど。
※2 ダイレクトメッセージの略。特定の相手やグループ内のみでメッセージを送受信できるSNSの機能。
<三日目>
夏は日が落ちるのが遅い。夕方六時になっても真っ昼間のように明るい空のせいか、父が外出からなかなか帰って来ず、母は不機嫌になっていた。
「夕飯が冷めちゃうじゃないの、まったくもぉー」とボヤく母の台詞は、まるで小さい子供を叱りつけるような言い方だ。というか実際、自分も言われたことがある。
父は長く勤めていた会社を定年退職し、今はシルバー人材センターから紹介された公園清掃の仕事に就いている。朝五時から清掃道具を積んだ車で公園に出勤し、昼前には帰ってくる。家で昼飯を食べた後図書館へ出掛けて行き、帰りに野毛で一杯引っ掛けてから夕飯前には帰宅する。というのがいつもの行動パターンらしい。
しかし今日は夕飯の時間になっても帰ってこない。
「携帯には電話した?」と母に聞くと、「それ」と指差された先にガラパゴス携帯が落ちている。
「携帯を携帯してないのか……」
仕方なく野毛まで父を迎えに行くことにする。昔もこうして、飲み屋からなかなか帰ってこない父を迎えに行ったことがあるので、これは自分の仕事だという意識があり、特に面倒は感じなかった。
懐かしいな。と思いながら野毛の繁華街へ続く坂道を下って行くが、だんだん懐かしさとは程遠い景色が広がってくる。母の言う通り野毛の街はずいぶんと様変わりしていて、小綺麗な店が増え、東京で見かけたチェーン店も進出している。特に、歴史のあるデパートや馬券場、寄席の劇場など、大きな建物が改装され外観を一新したことが、街の景観がガラリと変わった要因だろう。
父の行きつけの店を探して、メインストリートから裏路地に入ると、電柱の根元に花束が積まれている異様な光景が目に入る。キャバクラ嬢への贈り物でも捨てられているのかと思ったが、よく見るとワンカップの瓶や缶ビールなんかも置かれている。それが意味するところに気が付くと、「あ」と声が漏れ全身に悪寒が走った。――ここは、富田花が亡くなった事故現場だ。
「栄佑?」
しばらくの間その場で立ち尽くしていると、突然背後から声をかけられた。振り向くとそこには父が立っていて、缶ビールやチューハイが無数に入ったコンビニのビニール袋と、シウマイで有名な崎陽軒の袋を右手にぶら下げていた。
「なかなか帰ってこないから迎えに来たよ」
「悪い悪い、土産にシウマイ買ったから許してくれ」
自分のもとに歩み寄ってきた父は、息子の背後に花や酒類が供えられているのを見て、「あー」と気まずそうに唸った。
「そこな、花ちゃんの……」
「分かってるよ、事故現場だろ」
花という富田の名前に相応しく、仏花以外にも様々な種類の花が供えられている。手ぶらで来てしまったことに気まずさを感じていると、「これお前も」と言って、父が缶ビールを手渡してくれた。
自分の記憶の中の富田はもちろん未成年で、そんな彼女に缶ビールを差し入れるというのは何とも妙な気分だったが、それを事故現場にお供えした。
「富田は野毛の人達にずいぶん親しまれてたみたいだな」
「俺もお店で一緒になったことがあるけど、この辺の飲み屋は全部行ったことがあるって言ってたぞ。初対面でも常連でも、ひとの話を聞くのが好きなんだとさ」
「野毛の店を全制覇したってこと?」
「ああ。それに、移民のコミュニティに顔出したり、ホームレスの炊き出しを手伝ったり、しつこい客引きを殴ったとか、話題に事欠かない子だったよ」
どこかで聞いたような話だなと思っていると、無意識のうちに路上にポイ捨てされた吸い殻が目に入り、兼古正史の顔が浮かんだ。
「お前、こんなところでお供えもんするより花ちゃんちでお線香あげてこいよ。母さんとお通夜に行って富田の奥さんに挨拶したとき、お前にも会いたいって言ってたぞ」
「富田のおばさんが?」
「なんか、花ちゃんの部屋にお前の私物があって、勝手に処分するわけにもいかず困ってるらしい」
富田の部屋の片付けが進まないという話は母から聞いていたが、そこに自分の物があるとは初耳だ。
「母さん、俺の私物のことなんて言ってなかったけど」
「『そんなの勝手に捨てちゃっていいですよ』って返事してたから、お前の私物については片付いたと思ってるんだろ」
あのババア――と声を漏らしそうになったが、反抗期でもないのにババアは言いすぎだと思い、大人の矜持でぐっとこらえた。
「でも、富田の奥さんはまだ捨ててないと思うぞ。『大事なもの入れ』って油性ペン書かれたお菓子の缶らしいけど、ゴミの日にそんなものが出てるのは見てないからな」
「大事なもの入れ……」
そのとき、ポケットに入れていたスマートフォンから、着信を知らせる振動が伝わってきた。母から催促の電話がかかってきたのかと思ったが、画面を見るとそこには兼古薫と表示されている。父には仕事の電話がかかってきたと言い先に帰っていてもらうと、事故現場を一瞥してからその場を離れて着信をとった。
「確信はないんだけど、ちょっと報告しておきたいことがあって――」
挨拶もそこそこに本題に入った薫は、どこか自信なさげで、先日の高圧的な態度は鳴りを潜めていた。
「どうしたんですか?」
「君は本当に探偵に縁があるというか、なんというか。こんなのまるでフィクションだわ」
薫がなにを言いたいのか、その台詞で察しがついた。おそらく彼女も自分が考えている仮説と同じところにたどり着いたのだろう。
「富田花はキセイ探偵事務所のアカウントの主。つまりは探偵よ」
<四日目>
富田の家はうちの裏の私道を進んだ先にある。道の突き当りは行き止まりになっているため、抜け道にもなっておらず、私道沿いに住んでいる人でなければ通らないような場所だ。
自分も私道に入るのは久し振りで、建ち並ぶ家の数軒は新しい建物に生まれ変わっていた。肝心の富田の家はというと、幼少期の記憶のまま変わらずに残っており、昔は玄関からではなく、勝手口の扉を叩いて中に入れてもらっていたことをぼんやりと思い出す。
富田とふたりで探偵ごっこにハマっていた時期などは、勝手口の前で合図の通りにノックをしないと扉をあけてもらえないシステムだった。
しかし思い出は思い出のまま、さすがにいい歳をした大人がひと様の家の勝手口から入っていくわけもなく、玄関のチャイムを鳴らすと、「小石栄佑です」と名乗った。
直後に、「はーい」と返事をする懐かしい声が家の中から聞こえてくる。なんだか無性に緊張してきて、咄嗟に服の皺や髪の毛を整えはじめたが、整いきる前に扉が開いた。
「栄佑君、久し振り! やだ、すっかり大人じゃないの‼」
富田のおばさんが言う通り、本当に久し振りだ。家を出てから顔を合わせることはなかったし、中学に入って富田と遊ばなくなった時点であまり会う機会はなかった。
「お母さんから聞いてるわ、わざわざお線香をあげに来てくれてありがとうね」
「いえ、むしろお通夜にもお葬式にも顔を出せず、すみませんでした」
「フフッ、聞いたわよ。お母さんのLINE、既読無視してるんだって?」
また余計なことを……。無駄話をする母には呆れたが、こうして富田の家に来れたのも母のおかげなので文句は言えない。
昨晩、「富田んちにお線香あげに行こうと思うんだけど、富田のおばさんに行ってもいいか聞いてくれる?」と母にお願いしたところ。数分後には、「明日の午前中ならいつ来てもいいってさ」と、おばさんからの返答を伝えてくれた。
電話をかけている様子もなかったので、どうやって連絡をとったのか疑問に思っていると、「富田さんはあんたと違って既読も返信も早くて助かるわ~」と小言をいわれた。
そんな母とLINEで友だちになっているらしい富田のおばさんは、昔よりだいぶやつれて見える。歳のせいなのか娘を亡くしたせいなのか、長年おばさんと会っていなかった自分には判断がつかない。とりあえず、誰も家に入れたくないというほど、精神的に参っているということがなくて良かった。
「まだお仏壇は来てなくてね。タンスの上に写真を飾って、そこにお線香と花を置いているだけなのよ」そう言われて通されたリビングは線香の香りが充満していて、たえず線香を焚いているおばさんの姿を想像してしまう。
タンスの近くまで来ると、最近撮ったであろう富田の顔写真が飾られていたが、やはり長い間会っていないと、写真の女性が幼い頃一緒に遊んだあの富田だという実感が沸かなかった。
慣れない手つきで線香をあげ、母からお供え用にと持たされた梨をおばさんに手渡すと、「今すぐ切るから少し食べていったら?」と誘われたが、明日には東京に帰るため予定が詰まっていると伝えて丁重にお断りした。
「あの、それで父に聞いたのですが、自分の私物があるというのは」
「ああ、そのことね! どうしようか困ってたから、取りに来てくれて助かったわ!」
おばさんは再びタンスの方へ向き直って、一番上の引き出しを開ける。そこから古ぼけたお菓子の缶を取り出すと、まるでお歳暮を渡すかのように、うやうやしく自分の前に差し出した。
缶のフタには父から聞いた通り、油性ペンで『だいじなものいれ』と書かれていたが、すべてひらがなで書かれていたのは予想外だった。そんなに難しい漢字ではないが、当時の自分は国語が苦手だったらしい。
「うちの子の字じゃないし、これ栄佑君のよね?」
「そうですね。こんな処分に困るものを置きっぱなしにしてすみません。中には何が入ってました?」
「個人的なものだろうから、勝手に見ちゃ悪いと思って開けてないのよ」
富野のおばさんの言葉に、先日の薫とのやりとりが頭をよぎる。玄関先で免許証を提示しろと言ってきた、モラルを無視した彼女の言動とのギャップに涙が出そうだ。
「少し、中身を確認してもいいですか」
「ええどうぞ」おばさんはそう言うと、「梨のお返しにお菓子を持っていって」と言って台所の方へ姿を消した。もしかしたら、富田の遺影とふたりきりになるよう気を遣ってくれたのかもしれない。
タンスの前に座り、缶のフタに爪を引っ掛けると、ぐっと力を込める。長い年月を経て錆びついてしまったのか、それとも変形してしまったのか。なかなか本体から離れようとしない缶のフタは、親元を離れたくないとしがみついている子供のようだった。
それがようやく親離れを果たしたとき、つまりはフタが開いて、まず最初に目に入ってきたのは当時流行っていたカードゲームの束だった。それらをどけた下の層には懐かしい映画のチラシが数枚、更に下の層には、水泳教室とそろばん教室の進級試験の賞状が入っていた。
そして一番下、缶の底面に横たわっている紙切れを手に取る。手触りとサイズ感から、感熱紙、レシートだと分かった。商品名や値段などの印字は消えてしまっていたが、ペンで書かれた文字がくっきりと残っている。その、『たんていじむしょのあいず』の文字を見て、大事なもの入れの名前は伊達じゃなかったと確信した。
<あの日>
「私、大人になったら探偵になる」と、花ちゃんは言った。どうせドラマか何かの影響だろうと思って話の続きを聞いていると、案の定テレビで再放送していた『私立探偵濱マイク』を観たのだと言う。
「先週は『あぶない刑事』に憧れて警察官になるって言ってたのに?」
「私、気付いちゃったんだけど……」
「なにが?」
「警察官を辞めて探偵になるってパターン多いじゃん」
「名探偵ポワロとか?」
「そうそう。だからあぶない刑事のタカとユージもいずれは探偵になると思うの」
それはもはや、あぶない刑事ではないだろうと思ったが、花ちゃんの言いたいことは理解できた。行きつく先が探偵ならば、最初から探偵を目指そうというわけだ。
まずは何から手を付けるのかと見守っていると、「事務所の名前を決めよう」と言い出した。
「ふつうは自分の苗字が探偵事務所の名前になるんじゃないの? 花ちゃんの場合、富田探偵事務所とか」
「私、自分の苗字嫌いなんだよね。パパの苗字だから」
花ちゃんの家はちょっと複雑で、お父さんとお母さんの仲が悪くなってしまい、ふたりはお別れをしたらしい。そのとき、お父さんの苗字からお母さんの苗字に変えることもできたのだが、職場でも幼稚園でも「富田」で定着してしまっていたので変えなかったのだと、花ちゃんから聞いたことがある。
「地名を探偵事務所の名前にする場合もあるでしょ? ここ、戸部町だから戸部探偵事務所なんていいじゃないかな」
「えっ、この辺で探偵事務所をやるの? もっとさぁ、山下公園とか横浜駅の近くの方がカッコよくない?」
「私は自分んちを探偵事務所にしたいんだよ。ホームズのハドソン夫人みたいに、お母さんが依頼人に紅茶を出してくれたりしてさ」
世話好きな女性ではあるけど、ハドソン夫人はホームズの母親ではない。
「でも、大人になっても家から出ていかない人は、『家に寄生してる』って言われるんだよ。うちの母さんはそういうの許さないから早く出て行けって言ってる」
「自分の家なのに出て行かなきゃいけないなんておかしいよ」
花ちゃんがいくらそう考えていても、まわりがどう思うかは別だ。
「お母さんと住んでる家を探偵事務所なんかにしたら、寄生探偵って言われるよ」
「あ、それいいじゃん」
「なにが?」
「寄生探偵だよ。事務所の名前は寄生探偵事務所にしよう」
忠告するつもりで言ったものがまさか気に入られるとは……。花ちゃんは地盤が固まったと言わんばかりに、名前の決まった探偵事務所にどんどん設定を追加していく。
「ホームレスを情報屋として雇ったり、中華街の外人さんと友達になったりしたいな。仲の良い刑事さんは……やっぱり元刑事じゃないと難しいかな? そういう仲間達だけが知ってる合図があって、うちの勝手口から入るのに使えたりしたらカッコいいと思うんだけど」
こういう妄想モードになったら花ちゃんは止まらない。適当に相槌を打って話を合わせつつ、この後はカードゲームで遊びたいな。なんてことを考えていたところ、突然、花ちゃんの妄想の中に自分の名前が出てきたので驚いた。
「栄ちゃんも助手なんだから勝手口から入るんだよ。決めた合図、覚えておいてね」
「え? 僕も探偵事務所で働くの⁉」
「当たり前でしょ」
花ちゃんはおもむろに右手を軽く握ると、床を三回叩いたあと、一拍置いてもう二回叩いた。
「三回ノック、ちょっと間をあけてから、二回ノック。これが勝手口から入るときの合図ね。今日からこれ使っていくから宜しくね」
今日からという言葉に、抜き打ちテストを配布されたときのような衝撃が走る。この合図を覚えなくては、花ちゃんちに入ることができなくなる。花ちゃんの家にしかないゲーム機や、おばさんの手作りお菓子にありつくことができなくなってしまう。
ポケットを漁るとレシート用紙が出てきたので、花ちゃんからペンを借りてそこに合図をメモした。「それ、落としたりして他の人に合図がバレないようにしてよ」と言う花ちゃんに、「大丈夫だよ」と返事をする。
「大事なもの入れにしまっておくから」
<五日目>
帰省最終日の朝。荷物をまとめて実家に別れを告げると、桜木町駅から東京とは逆方向の電車に乗り、関内駅で降りる。前回は地図アプリの検索結果の通り、横浜大通り駅で電車を降りて歩いたが、実は関内駅の方が近いことに気が付いて、今日は関内駅から向かうことにした。
文明の利器に頼りすぎるのも考えものだな。と思いながら、三棟のマンションに囲まれた小汚い雑居ビルを目指す。
三日ぶりに訪れた兼古探偵事務所は、相変わらず昭和の雰囲気を漂わせており、変化の激しい横浜においてこれほどほっとする場所はないと、心の中で称賛した。
「二回目にしてもうくつろぎモード?」
つい促される前にソファに座ってしまったことを薫に咎められる。
「すいません、なんか落ち着くんですよね、兼田さんの事務所。三日前と何も変わってなくて」
「三日くらいで変わるわけないでしょ」
「そうなんですけどね、久し振りに横浜に帰ってくると、街の様子が目まぐるしく変化していて。三日でどうこうなってしまう場所があってもおかしくないなって思っちゃうんですよ」
手土産に持ってきた横浜の銘菓を、薫がお茶とともに出してくれたが、その味も昔とは違ったものに感じる。「このお菓子ってこんな味でしたっけ?」と言うと、こちらがノスタルジーに浸っているのを感じ取ったのか、薫が鬱陶しそうな表情になる。
「すみません、僕からもご報告があるのですがそれはまた後程。まずは薫さんの調査報告からお願いします」
やっと本題に入れると言わんばかりに、抱えた書類をどさりとテーブルの上に置いた薫は、その中から監視カメラの映像の一部だと思われる、数枚の写真を手に取った。
「事故現場の近くで路上を撮影していた監視カメラが、該当の車だと思われるものを捉えていたわ」
「それで車の持ち主の特定は?」薫は静かに首を横に振った。
「ナンバーもバッチリ映っていたんだけど、照合した結果、偽装ナンバーだったのよ。車種も特別珍しいものではなくて、持ち主の特定はできなかったわ」
ならば運転手自身を捉えた映像はないのかと写真に視線を落とすと、車の窓には特殊なフィルムが貼られていて、運転席を確認することはできなかった。
「こんな犯罪におあつらえ向きの車がたまたま事故を起こしたっていうんですか」
「そう。だから、これは突発的な事故ではなくて――」
富田の正体が探偵だと知ったときからこのことは覚悟していた。腹に力を込め、その続きは自分の口から言うことにする。
「計画殺人の可能性があるってことですよね」
「そうね」薫は心底残念だと言うように息を吐いた。
「整備工場や廃車工場にも、事故車が持ち込まれたら報せるよう通達されているけど、いまのところ音沙汰は無し。ここで該当の車を探す線は行き詰まったんだけど。これが事故ではなく殺人事件だとしたら、犯人には動機があるはずよね」
それで警察は、怨恨による犯行の線で富田の交友関係を洗い直すことにしたらしい。
「君も知っているかもしれないけど、彼女の人付き合いは浅く広くって感じでね。職場も交際相手も頻繁にかわるうえに、プライベートでは色んなところに顔を出していたようで、とにかく知人が多い……。その中で誰の恨みを買ったのか? なんて、さっぱり分からないっていうのが警察の見解」
「警察の見解ってことは、薫さんの見解は違うってことですよね」
「一昨日、電話でさわりの部分だけ話したでしょ。富田花にはもうひとつの顔があった。私がそれに気付けたのは、いつか正体を暴いてやろうと思って、キセイ探偵事務所の投稿を追っていたおかげよ」
それは一般的にアンチ活動と言われ、あまり褒められたものではないが、とにかく薫のおかげで富田とキセイ探偵事務所の繋がりが明らかになった。
富田の勤め先のリストに目を通した薫は、過去に不祥事を起こした企業の名前がそこにあることに疑念を抱いた。その不祥事を暴いたのはキセイ探偵事務所なのだと、SNS上で宣伝していたのを覚えており、もしかして富田花が職を転々としていたのは、探偵の仕事で潜入調査を行っていたからではないか、と推測したようだ。
交際相手に関しては、全員が全員、ニュースで報じられるような犯罪者というわけではなかったが、退職や転居をしている者が多く、何かがあったのは明白だった。
「殺意を向けられるほどの恨みを買ったのは、おそらく探偵の仕事が原因だと思うけど。彼女がどんな依頼を受けていたのか、キセイ探偵事務所のSNSアカウントに入ってDMを確認してみない限り分からないでしょ? SNSの運営に情報開示をお願いできないか、警察に聞いてみたんだけど。スマートフォンは事故のとき壊れちゃってるし、キセイ探偵事務所と富田花が同一人物だという証拠を、もう少し揃えないと情報開示は難しいって……」
そう語る薫の前に、おずおずと自分のスマートフォンを差し出す。
「なに?」
「入れましたよ、キセイ探偵事務所のアカウント」
一瞬、部屋の中が静寂に包まれた。港の方から船の汽笛の音が響いてきて、それに感化されたように薫が立ち上がると、スマートフォンを受け取り、穴があくんじゃないかと思うくらい画面を凝視する。
「本当にログインできてるし、DMも見れる!」
どうして? と質問されるのを待っていたが、薫は既にDMの内容を読みふけっているようなので、一方的に種明かしをすることにした。
昨日、富田の家に行ったこと。そこで寄生探偵事務所に入るための合図を入手したこと。そして家に帰ってすぐ、レシートのメモを参考にキセイ探偵事務所のアカウントへのログインを試みたことを語る。
SNSのログイン画面を開くと、まずはユーザー名の欄にアカウントのユーザー名を入れる。これは一般に公開されている情報なので間違いはない。問題はパスワードだ。
レシートには富田から聞いた通りのまま、「3かいノック、ちょっとまって、2かいノック」と書いてあったが、これをパスワードらしい文字列に直さなくてはいけない。幸い、複数回間違えたからと言って凍結するような仕様ではなかったため、トライ&エラーを繰り返し、最終的に【3knock_2knock】というパスワードでログインに成功した。
いま薫がしているように、ログイン後、まず最初に行ったのはDMの確認だ。封筒のかたちをしたアイコンをタップすると、メッセージのやりとりをしている相手が一覧表示される。キセイ探偵事務所がやりとりをする相手とは、つまりは依頼人の一覧ということになる。
画面の一番上、個人名の横に、『自動車整備工業会』と書かれたアカウントが目に入ると、コレだと思った。
「どう思います? その『自動車整備工業会』の人からの依頼メッセージ」
「どうもこうも、これが事件の元凶でしょ。富田花、もといキセイ探偵事務所は、自動車整備工業会から闇車検をしている整備工場の調査を依頼されていたのね」
自動車整備工業会というのは違法改造車などを取り締まっている団体であり、この団体からの依頼で、闇車検……つまり違法な改造車の車検を通したり、整備・検査をせずに車検証を発行している、悪質な整備工場の調査をしていたようだ。
メッセージのやりとりでは特定の会社名も記されている。探偵が嗅ぎまわっていることを悟られてしまい、調査対象である会社の関係者に轢き殺されてしまった。というのが今回の事件の顛末だろう。
依頼主からの一番新しいメッセージでは、約束の期日になっても報告をあげてこない不誠実な探偵に対して、契約の破棄や返金を求める内容のものが届いていた。まさか、依頼が原因で探偵が殺されてしまったとは夢にも思っていないだろう。
「個人の犯行か会社ぐるみの犯行かは分からないけど、犯人が整備工場の人間なら、犯行に使われた車は自社工場で修理、もしくは解体してしまっているかもね」
「それで犯人を逮捕することってできますか?」
「富田花の事件は証拠不十分だろうけど。偽装ナンバーに違法車検、余罪の方で工場の関係者を逮捕してから取り調べを進めれば、殺人容疑に繋がる証言がとれるかもしれない」
「じゃあ、これも犯人逮捕に役立ててください」
そう言って、【3knock_2knock】と書き足した古いレシートを薫に渡す。パスワードさえ分かれば、薫自身のスマートフォンからも警察の方でも、キセイ探偵事務所のアカウントに入れるはずだ。
レシートと引き換えに自分のスマートフォンを返してもらうと、もう二度と見ることはないであろう、キセイ探偵事務所のSNSの画面を閉じた。
「ひとつ疑問なんですけど、なんで富田の素性が犯人側にばれたんですかね」
「うーん、あまり同業者をくさすようなことは言いたくないけど、整備工場側も探偵を雇ったんじゃないかな」
「そんなに世の中探偵だらけなことがあります?」
「あるでしょ。石を投げれば探偵にあたる、小石君」
その台詞の発案者である富田が、今の自分の状況を見たらどう思うだろうか。最初は彼女への手向けに、憧れていた探偵に依頼をしてみようということだったのだが、憧れもなにも富田自身が探偵になっていたのだ。他所の探偵と一緒に事件を解決したことが、逆に彼女への裏切り行為のように思えてきて居心地が悪い。
「キセイ探偵事務所の名前もパスワードも、俺達が昔、探偵ごっこをしていたときのままだったわけですが――。富田は俺と一緒に探偵業をやりたかったんですかね?」
「なに? 君って別れた彼女がいつまでも自分ことを好きだと思ってるタイプ?」
「そういうのじゃなくて、ふたりでやろうって決めた探偵事務所を本当に立ち上げたなら、俺にひと言あってもいいじゃないですか。探偵なんて危ない仕事、男手が必要だって思うこともあっただろうに」
「なにを思っていたかなんて、そんなの本人が死んだいま分かるわけないでしょ」
薫は立ち上がり、窓際まで行くとスーツの内ポケットから小さな箱を取り出した。そこから白い棒状のものをつまみ出すと、おもむろに口に咥える。その光景が意外すぎて、思わず、「えっ!」と声が出た。
「薫さん、煙草吸うんですか⁉」
「吸うけど、なんで?」
「お父さんが煙草を吸っていたこと、嫌そうに話していたので。てっきり煙草は嫌いなのかと」
「私が嫌いなのは煙草そのものじゃなくて、煙草を吸っていた父だから。あの人、肺がんを宣告されたあとも隠れて吸ってたのよ」
それは嫌味を言われても仕方ない。
「寿命を縮めるような危ないことをしてたのは、うちの父も、君の幼馴染の富田花も同じじゃない。そんな死に急ぎ野郎どもが勝手に早死にしたところで、なんで残された私達が気に病まなきゃいけないのよ。当て付けに、生きてるこっちが人生楽しんでるところ見せつけるくらいの気持ちでいればいいのよ」そう言うと薫は煙草に火をつけ、窓の外の虚空へ向かって煙を吐く。
仕事を終えた探偵の表情とはこういうものなのか、それともふたりが親子だからだろうか。いまの薫の表情は、送迎バスで煙草を吸っていた兼古正史とよく似ていた。
<帰宅>
横浜駅から特急電車に乗って約六十分。東横線と副都心線が繋がったことで随分と早くなった。
板橋区の地下鉄成増駅で降りると、駅前で弁当を買ってから家路につく。母が持たせてくれた総菜もあるが、東京に帰ってきたことを実感したくてあえて買い弁をする。母の総菜を食べるのは、少し故郷が恋しくなってきた二日後くらいでいいだろう。
駅前の繁華街を抜け、住宅街に入ると周囲が一気に暗くなる。防犯のことを考えると夜道が暗いのは心配ではあるが、実家の周辺は大きな道路が走っていて、街灯が眩しい上に車の音も絶えない場所だったため、この成増の住宅街のほどよい暗闇が落ち着く。
故郷は派手でうるさい場所、東京は静かで暗い場所だと思っているのは認知が逆転している気がするが、とにかく自分はこの街を気に入っている。
横浜の伊勢佐木町ほど大きくはないが、地元の人達に愛されている商店街。珍しいものは売っていないが、日々の生活を送るのには充分な物が揃うスーパーマーケット。臨海公園のように海は見えないけれど、家族連れが多く訪れる都立公園。横浜家系ラーメンではなくても、美味しいラーメン屋だってある。そして何より気に入っているのは、信頼のおけるペットホテルがあることだ。
犬と猫の看板を掲げたペットホテルの店内に入り、店員に名前を告げる。カウンターの奥から現れた三毛柄の雌猫と再会すると、「ただいま」と声を掛けてケージを受け取った。
飼い猫を抱えて夜道を歩きながら、「今回の帰省は色々あってさぁ……」と話しかけると、「ニャー」と返事をかえし、ゴロゴロと喉を鳴らした。
ああ、猫とはなんと愛らしい生き物なのだろう。正直、実家の犬には悪いが自分は猫派だ。両親ともに猫アレルギーで猫が飼えなかったため、実家を出たと言っても過言ではない。
食うに困らない程度に働き、住みよい街で生活し、いつでも猫を愛でられる環境にある。これ以上の幸せはない。
「探偵なんて非日常の権化のような存在とは、なるべく関わりあいたくないね」
そう呟くと、道端に転がる石を蹴った。
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