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未書籍化作品

いせものがたり~桜隠し朝の永久~

作者: 狭山ひびき

お読みいただきありがとうございます。

この作品は大学の時に構想を練って、数年前にかき上げた平安時代(伊勢物語の恬子内親王の話)を舞台にした作品です。

なろうにアップしようかどうしようか悩んだのですが、気に入っているので上げることにしました。

この作品に出てくる「中将」はあえて名前を明かしていません。業平として読んでいただいても、伊勢物語の通り「男」として読んでいただいても大丈夫です(「男」として読まれた方が史実的には安心していただけるかもしれないですね)。


  かち人の渡れど濡れぬえにしあれば 

            またあふ坂の関はこえなむ


              『伊勢物語』六十九段



     ☆   ☆   ☆


 ――あの人が来る。


 兄からの一報は、信じられないほど恬子やすこの心を躍らせた。

 心の踊りようと言ったら、その一報を受けてから、落ち着いて座ってもいられないほどだった。

 心を落ち着けるべく、火桶のそばで巻物を紐解いてみたものの、すぐのそれから視線をあげ、そわそわと外を見る始末。

 寒いのに半蔀はじとみをあげているのも、そうしていた方が、なんとなくではあるが、彼が来たときにすぐに感知できそうだからだった。

 外では、昼間に上がった雪が、また降り出していた。

 はらり、はらりと桜の花びらが舞うように、静かに、儚げに、少し大きい雪の白い粒が空から降ってくる。


 ――あの人が来る。


 その報せだけで、鼓動が早くなる。

 おかしなものだ。年が明けて三十五を数えた女が、まるで恋を覚えたばかりの少女のよう。けれども彼の存在は、いつも、恬子の時間を、彼とはじめて出会ったころまで巻き戻す。


「雪……、これ以上積もらないといいけれど」


 ただでさえ雪の多い小野おの―――比叡ひえいの山のふもとなのだ。二月きさらぎももう半ば。とっくに春なのに、この地へそれが訪れるのは、まだ先のことのように思える。

 恬子は、心を平穏に導いてくれなかった巻物を、しゅるしゅると巻き戻した。


「恬子、入るぞ」


 そう一声かけて、許可を出す前に部屋に入ってきたのは、同腹の兄、惟喬これたかだった。出家し、小野の庵室あんしつで暮らしはじめてからは、小野の君と呼ばれている。

 恬子は、伊勢を退去してからしばらくして、兄の住まうこの地へ逃げるようにして移り住んだのだ。

都から離れているせいか、ここは都とは勝手が少し違う。

 都に住んでいたころは、こうして、兄が許可もなく勝手に部屋に入ってくることなどありえなかったし、兄妹とはいえ、御簾みすを隔てず対面することはそうそうなかった。

 だが今は、兄は堂々と恬子の部屋に入ってくるし、恬子も御簾の奥にちんまりと座っていることなどない。顔を隠すことなど考えもせず、すたすたとあちこちを歩き回っていた。


 亡き父帝が見たら、どう思うだろうか。想像すると、恬子はおかしくなる。都で暮らしていたころや、伊勢の斎宮寮にいたころは、まさか自分がこういう生活を送ることになるとは露ほどにも思わなかった。

 惟喬は恬子と火桶ひおけをはさんで向かい合うように腰を下ろした。

 出家してから、兄は変わった。

 快活で華やかで、栄華の中に身をおいていたころの兄はどこか遠くに消えてしまったようだ。

 かつて華美を好んでいた彼は、今や落ち行いた墨染すみぞめの僧衣に身を包み、静寂と瞑想の日々を送っている。

 恬子と話すときに穏やかに崩してくれる相好にも、どこか憂いがあるように感じていた。


「雪はやみそうにないな」

「はい」

「この分だと、中将ちゅうじょうが来るのも少し遅れそうだ」

「……はい」


 わかりやすく声を沈ませる妹に、小野の君は目を細めた。


「そなたはなぜ、中将のもとに身を寄せなかったのだ?」


 唐突に言われ、恬子は目を丸くした。「え?」と驚いて顔をあげると、真剣な兄の顔があって戸惑ってしまう。


「そなたと中将は、まあ年は離れているが、今更そのようなことを気にする必要もあるまい? そなたは中将を好いているようだし、中将もそなたのことを憎からず思っているようだ。あれは色事を好む性質たちだが、誠実だ。だいたいそなたも、あれの好色を理解した上で好いているのだろう? あれも年を取って落ち着いたようだし、そなたが気にせぬというのなら何の問題もあるまい」


 俗世を捨てたはずの兄の口から、とんでもない言葉が出てきた。というか、好色な男が誠実? 世の中のすべての女性を敵に回しそうな発言だ。だが―――、普通ならば理解できないかもしれないが、あの人を誠実と言う兄の言葉も恬子には理解できた。


「え、ええっと……」


 さて、どう答えたものか。頭の回転は悪くない恬子だが、思考回路が凍りついたように固まってしまった。

 兄の言葉は続く。


「まあ、あれには妻も子もいるし、つつけばいくらでも女が出てきそうではあるが、それさえ気にせぬのであれば何の障害もあるまい?」


 普通は、そこが一番の障害だ。


「お前が望めば、中将はいつでもお前を引き取るだろう。大切にしてくれるだろうし、お前がほかの女の存在で嫌な思いをせぬよう、きちんと配慮もするはずだ。あれはそういう男だ。それに、ここにいるよりもずっと豊かな暮らしができる」


 いつになく弁の立つ兄に、恬子はとうとう吹き出した。


「何がおかしい?」


 妹に笑われて、惟喬はむすっとした。


「ふ、ふふふふ、だってお兄様……、出家されたはずですのに、そんなことを言うのですもの。ふふ、還俗げんぞくなさるおつもりですか?」

「茶化すんじゃない、私は、真剣にだな」

「ええ、ええ、もちろんわかっておりますわ」


 くすくす笑いながら、恬子は火桶の墨をつついた。空気を入れると墨が赤く燃える。


「わたくしもね、考えなかったわけではありませんの。いいえ、今でも時々思うことがありますわ。あの方にそばにいられたら……、今よりももっとあの方に会うことができれば、どんなにか……ってね。でもね、わたくしとあの方は、その―――、そういうのではありませんのよ。男と女の関係では、ありませんの……」


 言いながら、恬子は少し寂しくなった。

 出会ってもうずいぶんと経つが、二人の関係はあの日―――、伊勢の地でであったころのまま。そこに進展も後退もなく、まるで変化のないままなのだ。そして、それを望んだのは、ほかならぬ彼女自身だった。


「それに、わたくしは、あの方の優しさにつけ入るようなことは、したくないのですわ」


 変化を求めようと思えば、簡単なことだった。一言でいい。恬子が一言「そばにいたい」と言いさえすればいいのだ。優しい彼は、きっと恬子を拒まない。兄の言う通りそばにおいてくれるはずだ。けれども、恬子にはそれが言えなかった。


「だからわたくしは、今のままでいいのです。お兄様に会いに、あの人が訪れる、そのときに言葉を交わせたら。それだけで、充分すぎるほど幸せですの」


 恬子はもちろん淋しいとも思っているが、兄に伝えた言葉は本心だった。

 けれども兄は、その秀麗な眉をひそめてぼそりとつぶやく。


「時がすぎさってからでは、遅いんだぞ」


 恬子には兄の言いたいことがわからなかった。だが、詳しく訊ねる前に惟喬は立ち上がり、部屋から出て行ってしまう。


(お兄様……、いったいなにをしに来たのかしら?)


 恬子は細い首をひねり、それからおもむろに立ち上がった。

 部屋の隅にある厨子ずしの両開きの扉を開いて、その中から真っ白い蝙蝠扇かわほりを取り出した。季節外れの、夏の扇。

 ぱらりと開くと、白一色の扇のおもてに、流麗な字で、歌の下の句だけが書いてある。


「またあふ坂の関はこえなむ……」


 そっと読み上げると、恬子は扇を口元に寄せた。

 その和歌の左には、同じ字で一言だけ、こう書いてある。


 ―――逢いたい。


 雅なあの人が、扇に書いてよこした短いふみ

 これを見るたびに恬子の心は温かくなる。幸せが体中に駆け巡る。


(これ以上を望むことは、贅沢ですわ……。お兄様)


 しかし、そっと瞑目した恬子の胸裏に、先ほど兄がつぶやいた言葉が蘇る。

 ―――時がすぎさってからでは、遅いんだぞ。

 脳内に響いた兄の声に怯えるように瞼をあげると、恬子はぎゅっと扇を抱きしめる。

 なぜだかその言葉は、恬子の中に呪いのような黒い染みを落とした。


     ☆   ☆   ☆


 あの人と出会ったのは、恬子やすこが十八の時だった。

 恬子は異母弟いぼていが帝位についてときから伊勢に下っており、そこへ彼が訪れた。勅使ちょくしとして鷹狩りに出向いてきたのだ。

 そのときあの人はまだ中将の役職になく、兵衛佐ひょうえのすけであったため「佐殿すけどの」、もしくは父君が親王しんのうだったその出自から「朝臣殿あそんどの」と呼ばれていた。

 兄の惟喬これたかのとても親しい従者であった彼のことは、当然耳には入っていたが、恬子は伊勢に来るまではずっと宮中の奥深くで暮らしていたために、彼と対面したことはなかった。


(どんな方なのかしら……?)


 噂ならば、都からはるか離れたこの地にも届いてきている。

 歌才あふれる雅な人であり――、それと同時に、あちらこちらで華やかな噂の絶えない、好色な人。

 それだけ聞くと、非常に近寄りがたい印象を受けるのだが、恬子は兄からの「真面目で、情に厚いよい男だ」という評価も聞いている。華やかな噂と兄の評価が矛盾しているように言思えて、恬子には朝臣殿の人物像が全くつかめないのだった。


「宮様、勅使殿がお見えです」

「え……、ええ」


 御簾みすのうしろでぼんやりしていた恬子の耳に、近しい女房である右近うこんが告げる。

 朝臣殿は昨夜のうちに到着したらしいが、そのとき恬子は休んでいて、挨拶ができていなかった。今朝になって、彼の方から「ご挨拶に伺います」と連絡をよこしてきたので、御簾の奥で待っていたのだ。

 身分だけで言えば、恬子の方が圧倒的に上。

 しかし、今回彼は勅使――それも、正使として訪れているし、兄の大切な従者だ。十八の恬子よりも、倍以上も年上でもある。失礼があってはいけないと、知らず知らずに緊張が走る。奇妙な静寂が広がった。

 やがて、裾をさばく音が静かに聞こえてきた。

 恬子が固唾かたずを呑む中、入室してきた彼は、山吹やまぶきの衣冠に身を包んでいた。


(……あら)


 恬子は彼の姿を見た途端、目を丸くした。

 部屋に入ってきた彼は、いろいろと驚かされる格好をしていたのだ。

 衣冠はきっちり一つの乱れもなく着込んでいるのに対して、冠をかぶった頭の方は乱れている。

彼のぬばたまの黒い髪は、くしけずっただけで束ねもしていなかったのだ。

 起き抜けに梳くだけ梳いて、申し訳程度にちょこんと冠を頭に載せてきました、という風体である。

 だがそれが絶妙に似合っていて、恬子はあきれていいやら褒めていいやらわからなくなってしまった。

 そして、何よりも彼の風貌。彼は恬子よりも二十一年上であるから、三十九を数えている――はずだった。それなのに、恬子の目には、彼は実年齢よりもずっと若そうに映る。顔立ちも、華やかな噂の絶えぬ人なのだから、さぞ傲慢そうなのだろうと思っていたが、とても品があった。醸し出す雰囲気は、凪いだ水面のように穏やかで静かである。

 ますます、恬子は「朝臣殿」と呼ばれるこの男のことがわからなくなった。


「宮様、ご挨拶! ご挨拶ですよ! 何とお伝えいたしましょうか?」


 こそこそと右近が耳打ちする。

 朝臣殿は御簾の前に座り、浅く頭を下げていた。

 恬子はハッと我に返ると、右近に耳打ちを返した。


「お遠いところ、ご苦労様でございますとお伝えして」


 身分の高い女は、基本的には声を聞かせない。代弁を立てるのが普通で、恬子も昔からそうしてきたから、当然のように右近を代弁者に立てた。


(それにしても、不思議な方……)


 雅で、品があって、静か。そして目を奪われるほど、華やか。

 恬子は思わず、御簾越しにとっくりと見つめてしまう。

 涼やかな目元、雪を欺くような白い肌。顔に一房かかっている艶やかな髪をかき上げる仕草が艶麗で、見てはいけないものを見ている気にさせる。

 彼を形作る一つ一つの個はとても女性的だった。けれどもそれを集合させた彼は、美しいけれど、けっして女性的には映らない。

 彼が浮名を流し続ける理由が、恋を知らない恬子にも垣間見えた気がした。


(なにかしら……、なんだか、こう……、似ている雰囲気のものを、知っている気がするわ)


 またぼーっとしてしまっていた恬子は、右近に肘でつんつんとつつかれて現実に戻った。


「宮様、黙っていないでお話しなさいませんと。佐殿が困っておいでですよ」

「え、ああ、そうね―――、お兄様はご健勝でございますか……、あ」


 右近にせっつかれてうっかり自ら言葉を発してしまい、恬子ははっと口元を覆った。ちらりと右近を見やれば「やっちゃった!」というような顔で額をおさえている。


「ええ、惟喬様はお元気そうですよ」


 朝臣殿はくすりと小さく笑った。


「どうぞ、ここには私しかおりませんし、宮様のお話やすいようになさいませ。――もし、私のわがままをお聞きくださるのでしたら、そうして、春の日差しのように柔らかなお声で直接お言葉を頂戴する方が、嬉しく思います」


 恬子はあんぐりと口を開けた。

 少しかすれた絶妙な低音で、とんでもないことを言われた気がした。

 恋の駆け引きなど全くできない恬子は、反応できないまま固まってしまう。その横で、パタッと音がしたので見やれば、右近が頬を染めて打ち伏していた。――右近が、声だけで悩殺された!


(う、ううう、嘘でしょ!? どうしたらいいの!)


 恬子は心の中で、悲鳴を上げた。



     ☆   ☆   ☆



 朝臣殿あそんどのの相手をするには、恬子やすこはあまりに免疫がなさすぎる。

 世の貴族の姫ならば、十八という年齢であればとっくに結婚していておかしくない年だが、恬子は内親王ないしんのう。蝶よ花よと育てられ、俗世と引き離されるようにして宮中で暮らした。斎宮宣下の下った十四歳からは、斎宮寮へ下ることとなり、ますます外界から遮断されて今日までをすごしてきたのだ。

 恋を知る知らない以前の問題かもしれない。当然、彼との駆け引きや言葉遊びができるはずもないのだ。


(右近! 起きて! しっかりしてっ。わたくしを一人にしないでぇ!)


 その結果、恬子は大混乱に陥った。

 そんな彼女の様子を知っているのか知らないのか、朝臣殿が静かに言い添える。


「少し調子に乗りました、申し訳ございません。どうぞお気を楽に。最近の兄君の様子でもお話いたしましょう」


 恬子はほっとした。このまま妙に色っぽい雰囲気に持ち込まれればなす術もなかった。兄の話ならば問題ない。


「はい、兄の話でしたらお聞きしたいです。よろしくお願いいたします」


 右近が倒れてしまったので自ら声を発するよりほかはなく、恬子は居住まいを正すと静かに答える。

 朝臣殿がにっこりと微笑んだのが御簾みす越しでもはっきりと見えた。


「お声をお聞かせいただけて、とても嬉しいですよ」

「―――っ」


 やっぱりだめかもしれない。

 恬子は恥ずかしくなって顔を覆って俯いた。このままだと心臓がつぶされてしまいそうだ。


「どうかなさいましたか?」


 恬子が押し黙ってしまったがために、室内には奇妙な沈黙が落ちていた。

 朝臣殿が不思議そうに首をひねって訊ねたが、ふと、恬子はその声の中にある揶揄やゆを敏感に感じ取り、きゅっと拳を握りしめる。

 からかわれている。間違いない。


「お兄様から素晴らしい方だとお伺いしておりましたが、実は佐殿すけどのは意地の悪い方でございますか」


 少しだけ腹が立ったから、意趣返しに、つんと突き放したように言ってやった。

 朝臣殿の切れ長の涼やかな目元が「おや?」とでも言いたそうに丸く見開かれる。

 恬子はその反応にもからかわれているように思えて、なおもツンツンした声で攻めるように続けた。


「聞けば、ずいぶんと女性におもてになるとか。世の中の女性はすべてご自身のものと勘違いなされているのかしら。才のある方とお聞きしておりますが、せっかくの才も傲慢の前には半減してよ」


 開いた口からは、どんどん可愛くない言葉は溢れてくる。

 人に対してこんなに意地悪なことを言ったのははじめてだった。

 いったいわたくしはどうしてしまったのかしら――、心の底で自分のことを避難するが、一度飛び出した言葉は止まらない。


「あなたはお兄様の従者でしょう? お兄様は確かに華美を求める方ですけれど、従者の派手な私生活は求めておりませんわ。お兄様の名前に傷がついたらどうしてくださいますの。それに、お兄様からは佐殿は素敵な方だとお聞きしておりましたのに、わたくし、なんだかがっかり―――」


 ぺらぺらとまくし立てていた恬子は、くっと喉を震わすような低い声が聞こえて言葉を切った。

 見ると、朝臣殿が肩を震わせて笑っていた。その声の、艶のある低音は変わらないが、先ほどまでのどこか扇情的な雰囲気は消えている。


「どうして笑っていらっしゃるの!」


 恬子はカッとなった。

 朝臣殿はパラリと緋色の扇で口元を隠し、笑いをかみ殺しながら「すみません」と謝罪する。が、全然申し訳なさそうではない。


「思わず笑ってしまいました。すみません。いえ、その……、惟喬様からお聞きしていた印象とは違うのだなと思うとおかしくて」

「お兄様から聞いた印象?」

「物静かでおしとやか、年の割には達観した性格の方だと」


 恬子はうぐっと言葉に詰まった。

 物静かでおしとやかで達観しているという兄の評価は――達観しているのかどうかはわからないが――、あながち間違っていないと思う。なぜなら、普段人と関わるときにはそうあるように努めているからだ。それがたとえ血をわけた兄を相手にしたときであっても。内親王はかくべきと教えられて育ったから、肩に力を入れてでもそうなるように努力した。


(大変……、怒りに任せて、すごいことを言ってしまったわ)


 冷静になると、背筋に冷や汗が流れてくる。相手は失礼がないように気をつけないといけない人だったのに、なんてことを。

 しかし、どうしてこんなにも腹が立ったのだろうか?

 恬子はもともと、それほど怒る性格ではない。おっとりしているからだ。どうして怒ってしまったのだろうかと、その理由がわからずに、内心首をひねった。


「本当にすみません。達観した品のいい真相の姫君というのがどうも胡散臭くて、少しばかりからかってみようと思っただけなのですが」

「胡散臭い?」

「ええ。猫かぶりな女性はたくさん知っていますから。世の中にそんな絵にかいたような女性はいないと思っていますので。惟喬様のべた褒めする妹御が、果たして本物なのか、否か――ってね」


 ふふっと朝臣殿は楽しそうに笑う。

 恬子は彼の言わんとすることがなんとなくわかって、半眼になった。


「すると朝臣殿は、わたくしのことを猫かぶりの面の皮の厚い女だと思って、その化けの皮をはがしてやろうと企んだのね?」

「ご明察」


 朝臣殿は笑っているのをもう隠そうとはしなかった。その表情は「してやったり」。

 雅麗な雰囲気はそのままだが、さっきまでどこかつかみどころがなかった朝臣殿の印象は一転し、ものすごく人の悪そうな彼の姿が浮き彫りになる。

 恬子はむかっとした。


「あなたこそ、化けの皮がはがれていらしてよ!」

「そのようですね、ふふふふ」


 何がそんなの楽しいのだろうか。笑い続ける朝臣殿に、恬子は口を尖らせる。


(お兄様、これは誠実なのではなくて性格が悪いのですわ!)


 そのせいで、怒りの矛先は遠くに暮らす兄に向いた。そして、そういえば兄も人をからかって遊ぶ人だったということを思い出す。あの兄ありきのこの従者、ということだろうか。

 恬子はため息をついて、彼の笑いの発作が収まるのを待つことにした。



     ☆   ☆   ☆



「あなた、桜のような方だわ」


 彼の笑いがようやく落ち着いたころ、恬子はポツンとそう言った。

 彼が笑うと、室内が華やかになる。それがたとえ人を小馬鹿にするような響きを含んだものであっても、空気を震わせる心地よい声と、彼の笑顔が、部屋の中にぱっと花を咲かせてしまう。

 彼がこの部屋に入ったとき、彼のことを何かに似ていると感じた。それは、桜だったのだ。

 絢爛だが儚く、物悲しいような妙な情趣のある桜。人の目を惹きつけて、その下に人を集めて感動させ、しかし見上げる人の心に、奇妙な感傷をも呼び起こす不思議な花。――桜みたいな、人。

 朝臣殿はその例えを聞いて、笑い飛ばすのではなく、目を細めて優しい表情を作った。


「惟喬様と同じようなことを言われますね」

「お兄様と?」

「ええ。桜の咲く時期になると、お前は桜のような男だと言って、毎日のように花見につき合わされて、さんざん飲まされるのですよ」

「まあ……、それは、お兄様がごめんなさいね」


 それだけ聞けば、兄が大変迷惑をかけているようだった。


「いいえ? それなりに楽しませていただいています」

「……」

(やっぱり意地悪……)


 恬子はふーっと息を吐いた。なぜかどっと疲れた気がする。だが、それは嫌ではなかった。もっと話していたい――、朝臣殿はそういう気持ちにさせる男だった。

 恬子はそっと前に手を伸ばした。

 目の前の御簾が、邪魔なもののように思えたのだ。

 もちろんそれを取り払おうとは思わないし、手を伸ばしたところで御簾までは届かないのだが――、この距離が、御簾の存在が、もどかしい。


「どうなさいました?」


 御簾の向こうで恬子が動いたのがわかったのであろう。扇を懐にしまった朝臣殿が不思議そうに首をひねった。

 恬子は我に返ったように、慌てて手を膝の上において、小さく首を振る。


「いいえ……」


 心の中が、変だ。霧が立ち込めたよう。


「お兄様の……、お話をしてくださるお約束ですわ」


 もっと声が聞いていたくて、催促した。


「おっと、そうでした」


 嫌にならない程度に笑みの滲んだ声音に、トクンと心臓が脈打つ。


 ―――変、だ。


(お兄様……、この方は、いけませんわ)


 心が変になる。彼は相手の心を変にさせる術を心得ているに違いない。

 恬子はそっと目を閉じた。恬子にねだられるままに惟喬のことを語る朝臣殿の声が、耳に心地よい。最初は毒くらいに思えていたのに。

 朝臣殿の静かに語る声と、恬子のトクントクンという心臓の音が混ざり合う。


(いけないの……、ですわ)


 心の奥底に芽生えた感情は、いまだかつて恬子が感じたことのないものだった。

 あたたかくて、でも切なくて、心がざわざわと震えるけれど、それが嬉しくて――すごく幸せなものなのに、同時にそれがいけない感情だとわかっていた。

 これからしばらく――、異母弟である帝が譲位するまで神に仕え続ける恬子が、抱いてはいけない感情。

 はじめての、恋だった。



     ☆   ☆   ☆



 中将ちゅうじょうが小野へ到着したのは夕暮れ時だった。

 結局、降っていた雪は途切れることなく、中将が庵室に訪れたときには、庭一面深い白に覆われていた。

 恬子はすぐに火桶という火桶すべてにすみを入れ、冷えた体を温めてもらうために湯殿を用意し、できるだけ暖かそうな着替えを準備してとせわしない。


「宮様のお手を煩わせてしまい、申し訳ございません」


 小野に移り住んでから、恬子は慣れないながらも庵室のことを細々とこなしてきた。中将はもちろんそれを知っているし、彼が訪れたときには恬子が世話を焼いていたが、彼は毎回そう言って申し訳なさそうな顔をする。

 年を経ても、中将は雅な人だった。

 五十も半ばをすぎ、そのくしには白いものが混じっているが、年齢を感じさせない雰囲気は相変わらずだ。

 昔と変わらず、典雅に咲き誇る桜のようで、はらりはらりと宙を舞う、儚い桜吹雪のようでもある。その、ともすれば矛盾する魅力が、なぜか彼にかかると調和されて、絶妙な均衡を保ちながら存在するのだから不思議だった。


「お気になさることはございませんわ」


 中将の前に堂々と顔をさらして、恬子は着替えを手に「さあ」と彼を湯殿へ追いやった。


「ゆっくり温まってください。着替えはおいておきます」


 微笑んで告げると、彼は何か言いたそうに眉を下げる。

 おおかた、内親王が女房のするようなことを自ら行っているのが痛々しい――、と言いたいのだろう。何度か言われたこともあるので、恬子は肩をすくめて見せた。


「好きでやっているのだから、いいのです」


 それは本心だった。

 恬子が小野に移り住むと決めたとき、右近をはじめ、恬子に長く仕えていた者たちは、こぞってついて行くと申し出た。それをやんわりと、しかし頑として断ったのは恬子自身だ。静かに瞑想の日々を送る兄の邪魔をしたくないという理由もあるが、何より、恬子は誰にも邪魔をされず一人になりたかった。

 あのころ、恬子はすべてのことに疲れていたのだ。そっとしておいてほしかった。煩雑な都から離れて、心静かに自分を見つめなおしたかったのだ。

 中将は「仕方ありませんね」というように苦笑を浮かべると、おとなしく湯殿へと消える。

 恬子はそれを見届けて、中将が湯を使っている間、彼のために食事の用意をしはじめたのだった。



     ☆   ☆   ☆



「恬子」


 食事の準備も終わり、兄のいるところに膳を運んだ恬子は、中将が湯から上がるのを待ちながら月見酒を楽しんでいた兄に呼び止められた。

 出家してから普段酒を口にしなくなった兄だが、中将が来るときだけは「解禁」と称して酒を口にする。

 兄のそばに寄れば、雲の切れ間からぼんやりと十六夜の月が顔をのぞかせていた。


「中将が菓子を持って来た。食事と一緒に用意してくれ」


 酒の肴にするのだという惟喬から菓子の包みを受け取る。


「お兄様、あまり飲みすぎないでくださいね」


 ついつい小言を言えば、兄は口元に薄い笑みを貼りつけた。


「いいではないか。あれは今あまり酒が飲めないだろうからな。先に酔っておくくらいがちょうどいい」

「あまり飲めない?」


 恬子は首をひねった。


「中将殿が?」


 それはおかしい。恬子の知る限り、中将は酒に強い方だったはずだ。飲み比べても、めっぽう酒に強い兄が先に酔いつぶれてしまうほどだった。

 惟喬はくいっと杯をあおると、微妙な間を開けてから答える。


「あれも年だからな」


 わかるような、わからないような、妙な答え。

 だが恬子は深く考えずに「そうですか」とだけ答えた。そういうこともあるのだろう。


「でも、お兄様も、お酒に飲まれる前におやめくださいね」


 重ねて釘をさすと、惟喬は「はいはい」と軽い調子で首を振った。これは絶対わかっていない。


「まったくもう……」


 恬子はやれやれと嘆息すると、中将の食事を兄のそばにしつらえる。

 惟喬と恬子は、中将の訪れがいつになるのかわからなかったため、先に食事をすませていたのだ。

 食事の支度がすべて整ったところで、湯から上がった中将が顔をのぞかせた。


「おやおや、もうはじめていらっしゃるのですか。薄情な方ですねぇ」


 惟喬の赤みの差した顔を見て、中将が軽口を言う。


「止めたのにやめないのですよ。もっと言ってやってください」


 恬子も、ここぞとばかりに中将と一緒に兄を責めてやった。

 しかし、惟喬は反省するそぶりは全く見せず、にやにやと笑う。


「お前が早く来ぬからだろう。待ちくたびれた」

「野暮用があったのですよ。それに、雪で足元が悪かったのでね」


 中将が膳の前に腰を下ろすと、恬子は彼の隣に座る。酌のために瓶子へいじを取ると、中将がとろけるような笑みを浮かべて杯を手にした。


「お前は私には酌をせんくせに、中将にはぐのか」


 兄の拗ねたような顔に思わず吹き出してしまう。

 中将が訪れると、惟喬はいつも雰囲気を変える。出家前の、都にいたころの顔になる。


「まあ、何を言われるのかと思えば。お注ぎする前に手酌でさんざん飲まれていたではありませんか」

「そうだとしても、お注ぎしましょうかくらいは言えんのか」

「それは失礼いたしました。お注ぎいたしましょうか、お兄様」

「もうよいわ。気の利かぬ妹だ」


 兄の顔がさらに拗ねたようになる。

 中将は杯をあおると、恬子の手から瓶子を取った。口元が笑いをこらえるように歪んでいる。


「では、惟喬様には私がお注ぎいたしましょう」

「ふん」


 兄は当然だと言わんばかりに杯を差し出した。

 恬子は兄のそんな様子にこっそりと嘆息する。


「お兄様ったら、もう酔っていらっしゃるのね。ほどほどにしてくださいねと申しましたのに」

「だからほどほどにしているではないか」

「どこがですか」

「いやいや、惟喬様のこれは充分ほどほどですよ。もっと酔いがひどくなると絡んできますからねぇ」

「まあ、ろくでもないこと」

「ええ、まったく」


 恬子と中将は顔を見合わせてにっこりと微笑みあう。


「お前ら、結託して私を貶める気か」

「いえいえまさか」

「お兄様の気のせいですわ」

「……ふん」


 惟喬はくいっと杯をあおって鼻を鳴らした。

 恬子は中将から瓶子を受け取ると、彼の杯に注ぐ。

 中将と兄と恬子の三人で、軽口を言い合うこの他愛ない時間が恬子は好きだった。

ゆるゆると時間が巻き戻されていく気がするのだ。そして、つい考えてしまう。

 もしも――、恬子に斎宮宣下が下されなければ、若いころを、こうして都ですごしていただろうか、と。

 中将と兄と三人で――、もちろん今のように顔をさらすころはなかっただろうが、他愛ない話をして、笑ってすごすことができていただろうか――、と。

 もしそうならば。そういう時をすごすことができていたならば。恬子がもっと若いころならば、きっと。


(あの時、この人の手を取っていたのかしら……)


 恬子は小さな感傷を振り払うように、三回目をしばたたく。

 恬子の目の前で、中将と兄は、会えなかった時間を埋めるかのように会話に花を咲かせていた。


「お酒、なくなってしまいましたわね。用意してまいります」


 恬子はそっと立ち上がる。「もう大丈夫ですよ」と優しく気遣ってくれる中将に、


「お兄様はまだたりないようですから」


 そう告げて、恬子は部屋をあとにした。

 部屋を出て、少し歩いた先で、恬子はそっと胸をおさえる。

 もしも――、なんて、考えても仕方がないことなのに、どうしていつも考えてしまうのだろう。

 心の中に、小さな氷の欠片を放り込まれたかのような、そんな感傷。新しい酒を用意している間にそんな感傷も溶けるだろうか。――溶けてくれないと、困る。

 簀子すのこを進みながら、恬子は庭先に視線を投げた。

 真っ白な、時が止まったかのような庭がそこにある。

 紅葉に積もった雪がとすんと落ちて、恬子はふと足を止めた。


 ――雪のような人ですね。


 柔らかい声が耳の奥に蘇ってきて、全身に溶けていく。

 昔、中将が、恬子をそう形容した。


(あれは……、まだであったばかりのころだったわ……)


 そう、歌をくれたあの夜。

 あの頃の恬子は――、まさか今のような未来なんて、想像すらしていなかった。



     ☆   ☆   ☆



 狩の遣いで伊勢にやってきた朝臣殿あそんどのは、数日滞在すると言った。

 彼は狩りに出かけているとき以外は、暇を見つけては恬子やすこを訪れた。

 恬子は暇ではないのだが、耳に心地の良い彼の声を拒むことができなくて、気がつけば彼と話をしてすごす時間が増えていく。

 心の底で朝臣殿に深入りしてはいけないと自分自身に釘を刺しつつも、日に日に彼のことを考えて過ごす時間も増えて行った。

 恬子は、朝臣殿と話すときは代弁者を立てなかった。右近は不満そうな顔をしていたが、朝臣殿とは堅苦しいことを抜きにして、直接言葉を交わしたかったのだ。


「葉が綺麗に色づきましたね」


 朝臣殿は御簾みすのすぐ近くに腰を下ろしていた。


「ええ、今年は、いつもより早く冬が訪れるのかもしれませんね」


 恬子がまじめな顔で答えると、突然、朝臣殿がくすくすと笑いだす。


「色気のない答えですねぇ」

「――っ、いけませんか?」

「いいえ? ―――そうそう、紅葉はお好きですか?」

「紅葉? ええ、好きですけれど」


 答えれば、すっと御簾の中に扇が差し込まれた。扇の上に赤く色づいた紅葉の葉が一枚ちょこんとのっている。どうやら、くれるらしい。


「ありがとうございます」

「どういたしまして」


 扇が御簾の内から朝臣殿の手元に戻る。それを目で追いながら、恬子は紅葉の葉をそっと両手で包み込んだ。

 朝臣殿は、こうして恬子の元を訪れるときは決まって、なにか「土産」をもってきた。それはときに竜胆りんどうだったり、栗だったり、今日のように一枚の葉だったりした。その時彼が心惹かれたものを贈ってくれるのだ。


「綺麗な赤でしょう? ふもとの紅葉なのですが、形といい艶といい、絶妙に美しいと思いまして」


 正直、恬子に紅葉の良し悪しなどわからない。どれも同じに見える、だが、それを言えば、情趣への理解がないと思われそうな気がして、恬子はただ頷いた。


「そうですね……」

「磨かれたような艶、大きすぎず小さすぎない大きさ、形、葉の厚みにいたるまで、計算しつくされたようです」

「そ、そうですわね……」

「この紅葉を見たときに、ふとあなたのことを思い出しました。あなたの手は、きっとこの紅葉のように愛らしく可憐なのだろうと」

「はい?」

「そして、この色はあなたの唇のようなのだろうと」

「えっと、あ、あ……あの?」


 最初はただ頷いていた恬子だったが、ここへきてさすがに訝しんだ。ふと目を凝らすと、朝臣殿の肩口が小刻みに震えている。


(またからかったのね!)


 恬子はぷくっと頬を膨らませた。


佐殿すけどの……」


 恨みがましい声を出せば、彼はいたずらをした子供のように瞳を輝かせて、口の端を持ち上げる。


「あなたが、よくわかってもいないくせに、適当に相槌だけ打つのが悪いんですよ」


 しれっと言われて、恬子はさらに不貞腐れた。


「佐殿は性格が悪いです」

「よく言われます」


 非難も、意に介した様子はない。

 はじめて対面した四日前から、朝臣殿は何かにつけて恬子をからかった。

 恬子が避難しても飄々としたもので、態度を改めるつもりはないらしい。

 何度も引っかかる恬子も恬子だが、さすがに倍以上生きているだけあって、気づけば彼の手の内で転がされていた。

 彼はいつまでここにいてくれるのだろう。

 長期間の滞在でないのは確かだ。おそらく、残ってもあと三日ほどではないだろうか。

 一日がすぎるたびに、恬子の心臓は嫌な音を立てて軋んでいくようだった。


「宮様、今日は望月ですよ」


 朝臣殿が、鬱陶うっとうしそうに冠を脱ぎ捨てながら言った。

 朝臣殿は「宮様」と呼びながらも、恬子にそれほど敬意を払っていない様子だった。

 彼は頻繁に恬子の目の前で冠を脱ぎ、束ねている髪をほどいた。最初は驚いた恬子だったが、くつろいでいる彼の様子を見ると、まるで家族のように打ち解けてくれているような気がして、一度も嫌な気分にはならなかった。


「ええ、ささやかながら酒宴の準備をさせておりますが」

「宮様も参加されるのですか?」

「いいえ、わたくしはお酒が飲めませんし……、わたくしがいては、皆様もおくつろぎになれないでしょ

う? 一人で静かに月を楽しみますわ」


 朝臣殿が髪を束ねていた紐を解いて頭を振ると、漆を塗ったように艶やかな髪が柔らかく揺れる。思わず見とれていると、彼は足を崩しながら、暗くなりつつある外へ視線を投げた。


「では私がご一緒しても?」

「―――え?」


 彼に見とれていたためか、恬子の反応は数泊遅れてしまった。


「一人では味気ないでしょう? 私もここで月を見させていただきます」


 恬子の許可を取る前に、それは決定事項になっているようだった。


「さっきも申しましたけれど、わたくしにはお酒の相手はできませんよ」

「話し相手をしてくださればそれで。私もたまには静かに月見酒を楽しみたいのです。宴席では騒がしくて月を眺めるどころではなくなりそうですからね」


 そう言われてしまえば、恬子に断る理由はない。

「では、こちらにお酒を運ばせましょう」


 恬子は朝臣殿と二人きりで月を眺めることができるということに、少しばかり胸がざわつくのを感じながら、膝行しっこうして、部屋の外に控えている右近に酒の用意を頼んだのだった。



     ☆   ☆   ☆



 しばらくして、右近が酒と肴を持ってくると、恬子は彼女に宴席で楽しんでくるように伝えた。

 朝臣殿は簀子近くまで移動して、柱にもたれかかるようにして座り、空を仰いでいた。


「御簾越しでは、月が見えにくくありませんか?」


 朝臣殿が提子ひさげから手酌で酒を注ぎながら問いかけてきた。

 恬子は口端を柔らかく持ち上げると、その問いには答えずに逆に問いかける。


「月は出ておりますか?」

「うっすらと見えますよ。宵闇がもう少し深くなれば、綺麗に輝くことでしょう」


 朝臣殿は杯を持ち上げて、優雅に口に運ぶ。


「灯りを消してもよろしいでしょうか?」

「え? ああ、気がつかなくてごめんなさい」


 月を眺めるのに、灯台に火が灯ったままでは邪魔で仕方がない。

 朝臣殿は数歩先にある灯台の火を消して、もう一度腰を落ち着けると、杯の中の酒を飲み干して黙り込んだ。

 静かに月見酒を楽しみたいと言っていたから、てっきりそうなのだろうと思って口を閉ざしていたら、彼はささやくように訊ねてくる。


「こちらへいらっしゃいませんか?」

「こちら……?」


 言葉の意味をすぐに理解できずにいると、朝臣殿がぽんぽんと自分の横を叩く。

 恬子は驚いた。御簾から出て来いと言われているのだ。


「そこからでは月はよく見えないでしょう?」

「そ、それは……、そうですけど」

「月が見えないのでは、何のための月見なのかわからないではありませんか」

「そ、そうです、けど……」

「こちらへ」


 恬子の逡巡を切り捨ててしまうかのように、有無を言わさない口調だった。


「で、でも……」

「早く。ここには私しかおりませんから」


 恬子はまだ躊躇いながら、伺うように御簾を少しだけ開けた。その瞬間、朝臣殿に左腕を掴まれてぐっと引っ張られる。


「あっ」


 声をあげたときにはもう、朝臣殿によって御簾の外に引きずり出されていた。

 恬子が口をぱくぱくさせていると、朝臣殿が勝ち誇ったように笑う。


「ほら、よく見えるでしょう?」


 まだほのかな月明かりが、朝臣殿の意地悪な笑顔を照らし出す。


「し、信じられない……」


 左腕を掴まれたままなので、御簾の中へ逃げることはできないし、顔を隠すこともできない。恬子は真っ赤になってうつむいた。


「あなたが早く出てこないから悪いのですよ」

「だ、誰かに見られたら……」

「みな、酒宴で騒いでいるのです。誰も来やしませんよ」


 恬子はそっと息を吐いた。裳着もぎを終えてからは、異性――実の兄にすら顔を見せたことはなかったのに。


「怒りましたか?」

「いいえ、驚いているだけです」


 恬子はあきらめて顔をあげた。

 まだ少し明るさの残る夜空に丸い月が浮かんでいる。空に薄く雲がかかっているのか、月の輪郭はややぼやけて見えた。


「惟喬様に似ていらっしゃる」

「兄妹ですもの」


 緊張からか、頬が熱い。

 恬子は精いっぱいの見栄で平常心を装うと、提子ひさげを取って、朝臣殿の杯に透明な液体を注いだ。

 酒宴の喧騒が微かに聞こえてくる中、素顔をさらして朝臣殿と言葉を交わしていることが不思議で仕方がない。掴まれたままに左腕は甘くしびれていた。

 恬子が本気で嫌がれば、朝臣殿は彼女を御簾の中に返してくれるだろう。わかっていても、腕がつかまれたままだからと自分に言い訳して逃げないのは、恬子自身、朝臣殿から離れがたく思っているからにほかならない。


(あと数日しか、いないのに……)


 朝臣殿が帰ってしまえば、もう会うことはないだろう。少なくとも、恬子が伊勢を退去するまでは。

 掴まれたままの左腕が熱くて、否が応でも気づかされてしまう。

 彼と話がしたくて、離れたくなくて、そばにいたくてどうしようもないのは恬子の方なのだと。朝臣殿は、惟喬の妹である恬子をからかって楽しんでいるだけにすぎないのかもしれないが、それでも十分だと思えるほどに惹かれている。

 彼が都に帰ったあと、長い年月を彼のいないこの地ですごすのかと思うと、心が凍えてしまいそうだった。

 からっぽになった杯に酒をつぎ足す。彼は心奪われたように月を眺めていて、先ほどから黙り込んでしまっていた。

 恬子の存在は、月よりもちっぽけなのだ。そう思って恬子が唇をかみしめたときだった。


「宮様、ひとつ詠んでくれませんか?」

「え?」


 何を求められたのかは、わかる。歌だ。

 彼の悪戯心がまた首をもたげたのだろうか?

 歌は苦手ではないが得意でもない。だが、歌を詠ませたらその人ありと言われる彼を前にして詠めというのは、意地悪以外の何ものでもなかった。

 恬子は彼に捕まれている左腕を見た、彼の気まぐれで捕らえられてしまったが、彼の興が冷めれば、簡単になかったことのように振り払われる、不確かなつながり。

 この人はきっと、今日、今このときのこともすぐに忘れて、また都の生活にもどるのだろう。彼の心には入れない。

 恬子は泣きたくなってきた。


「……かち人の……、渡れど濡れぬ、えにしあれば」


 あなたとは、歩いて渡ったとしても、裾も濡れないほどの浅い川のような、本当に浅い浅いご縁ですので――、震える声でそれだけ詠んで、恬子は口を閉ざす。

 下の句は思いつかなかった。いや、考えたくなかった。これ以上、この縁がどれほどちっぽけなものなのかなんて、口に出したくはなかった。

 朝臣殿が小さく息を呑む音が聞こえて、恬子は睫毛を伏せる。

 情緒もない、月見の席にはあまりに不似合いで、失礼な歌を詠んだ。謝ろうかとも思ったが、そうするとさらに場の空気を凍らせる気がして、恬子はただ口を引き結ぶ。

 長いのか短いのかわからない沈黙が落ちた。

 恬子の腕をつかむ朝臣殿の手が離れた。ぬくもりが離れて、恬子の目から涙が落ちそうになる。

 だが、本当に涙がこぼれてしまう前に、朝臣殿が恬子の細い手を両手で握りしめた。


「あなたは雪のような人だ」


 その声があまりに優しくて、恬子は顔をあげた。

 いつの間にか闇が濃くなっていて、銀色の月明かりが彼の横顔を照らしていた。


「触れるとあっという間に溶けて消えて……、まるで、はじめからそこにはなかったかのように。捕えてみたいのに、そうすると消えてしまいそうで、私はそれがひどく怖い」


 恬子はゆっくりと瞼を下ろして、上げた。そんな瞬きを何度か繰り返す。その拍子に目の淵に溜まっていた涙が零れ落ちて頬を伝った。

 朝臣殿は恬子の頬を流れる涙をぬぐって、彼女の読みかけの歌を拾った。


「かち人の渡れど濡れぬえにしあれば――、またあふ坂の、関はこえなむ。……逢いに行きます。たとえそれが、何年後であっても。だから今は、こうしてそばにいてくれませんか?」


 恬子の目が、ゆっくりと見開かれる。


「佐殿……?」

「必ず、逢いに行きますから」


 再び目の淵に盛り上がった涙を、朝臣殿の指がさらっていく。


「―――っ」


 恬子は朝臣殿の手をぎゅっと握り返した。


「わ、たくし……」


 好きだと、言ってしまいそうだった。その口に朝臣殿の人差し指がそっとあてられて塞がれる。この場でこれ以上は駄目だ、と。

 だから恬子は小さく頷いて、朝臣殿の肩口に額をつけて、そっと寄りかかった。

 月が、綺麗だった。



     ☆   ☆   ☆



 恬子はぱらりと蝙蝠扇を広げた。

 扇のおもてには、歌の下句が書いてある。

 兄と中将はまだ、酒を飲みながら話を弾ませているが、夜も更けてきたので、恬子は先に部屋に下がらせてもらったのだ。

 寒いけれど、半蔀を少しだけ開いて、月明かりに浮かぶ雪を見やる。

 すぐそばにおいた火桶の炭をつつきながら、恬子はふうと息を吐いた。

 今から四年前の貞観じょうがん十八年――、異母兄が帝の位を譲位し、その子である東宮が即位したため、恬子は斎宮を解かれて伊勢を退去した。

 そして、恬子が都に戻ってすぐの夜、中将は扇に歌を書いてよこしたのだ。その次の日には昔交わした約束の通り、逢いに来てくれた。

 恬子はとても嬉しくて――、嬉しかった、けれど――


「宮様」


 呼ばれて、恬子はハッと顔をあげた。

 少しだけ開けた半蔀から中将がこちらを覗き込んでいた。


「この寒い中、半蔀をあげているなんて……。風邪を引いたらどうするのですか」


 そう言いながら、当たり前のように部屋の中に入ってくる。

 酒の入った中将の顔は赤かったが、彼は惟喬とは違い、酒を飲んでも平静なままだ。

 恬子に許可もなく、中将が半蔀を閉じてしまうと、室内が密閉されてしまったかのように感じられる。


「その扇、まだ持っていてくださったんですね」

「あ―――」


 隠す前に扇が奪われて、中将が懐かしそうに手の内でもてあそぶ。

 恬子は気恥ずかしくなって視線を彷徨わせた。


「嬉しいですよ」


 微笑まれると、少女の時のように心臓が高鳴る。


「お兄様は……?」

「酔って寝てしまわれました」

「まあ、仕方のないお兄様……」


 酔いつぶれるほど飲んだのかと恬子はあきれる。


「中将殿は大丈夫なのですか?」

「ええ、大丈夫ですよ。最近はあまり飲まないようにしているので」


 そういえば、兄もそのようなことを言っていた。


「やっぱり、お年を召されると、あまり飲めなくなるのですか?」

「宮様……」


 恬子が何気なしに問えば、中将はうめくような声を出した。


「ひどいな。そんなに年寄り扱いしなくてもいいでしょうに」

「え? そ、そんなつもりでは……」


 恬子はハッとして袖口で口を覆った。


「た、ただその……、若い時のように無茶はできなくなるのかと……、ええっと、お年寄りだなんて言っているわけではなくて、むしろ中将殿はびっくりするくらい若々しくていらっしゃるし、だから……」

「ふ、ふふふ」


 恬子が慌てふためいて言い繕うと、中将は一転しておかしそうに肩を揺らした。

 からかったのかと恬子はムッとするが、怒る前に中将の額にじんわりと汗が浮かんでいるのに気がつき、手を伸ばす。袖口で彼の額をそっとぬぐった。


「体調が悪いのですの?」


 中将に久しぶりに会えて舞い上がっていたから気がつかなかったが、よく見れば、彼の顔色はあまりよくない。

 中将は左右に首を振った。


「いいえ、大丈夫ですよ」

「でも……」

「本当に大丈夫なのです。でも、そうだな……、少しくつろいでもいいですか?」


 食い下がろうとすると、中将は冠の紐を解いた。

 惟喬の前にいたからか、沐浴もくよくを終えたあとだというのに、髪を整えて冠までかぶっていたのだ。

 中将は紙の間に指を入れて軽く梳かすと、襟元をくつろげて息をついた。


「ああ、楽になりました」


 楽になったと言うが、顔色の悪さは変わらない。けれども彼が大丈夫だと言い切るので、恬子はそれ以上追及しないことにした。


(雪道で体を冷やしてしまわれたのかもしれないわね)


 火桶を中将のそばに押しやると、恬子に気づかいを知った中将が優しく目を細める。

 扇を開いたり閉じたりしながら、中将は「懐かしいな」とつぶやいた。


「これを届けたあと、あなたからの返事がもらえないから、てっきり嫌われてしまわれたのかと落ち込みましたよ」

「そ、そんなことはありません!」


 約束を覚えていてくれたことが嬉しくて――、きちんとした返事を返さなくてはと考えすぎてしまっただけだ。そして、返事を出す前に中将が訪れた。


「そうでしょうか? 結局いまだに、これの返事はもらえていないのですがね」

「うう……、もういいではないですか」

「ふむ。……では、返事がもらえないのなら、この扇は返してもらおうかな」

「だめ!」


 恬子が慌てて扇を取り戻すと、中将が楽しそうに喉を鳴らして笑う。


(もう! この人はいくつになっても、わたくしをからかって遊んでばっかり!)


 やられっぱなしでは悔しいので、何か意趣返ししてやろうと考えながら、じっとりと中将を睨みつける。

 すると、中将はこらえきれなくなったのか、声をあげて笑い出した。


「はは、まったくあなたは! 昔から全然変わらない!」

「そんなことはありません! わたくし、もう三十五ですのよ。いつもでも子ども扱いなさらないでください!」

「いや、子ども扱いをしているつもりはないのですが……、そうか、あなたももう三十五か。私が年を取るはずだな」


 中将は感慨深そうに頷く。


「でも、やはりあなたは変わりませんよ。昔のまま……、かわいらしいままだ」


 恬子はかあっと頬を染めて中将から視線をそらした。


「ねえ、宮様」


 中将は手を伸ばすと恬子の手を優しく握りしめる。


「私と一緒に、都に帰りませんか?」

「……中将殿?」


 恬子は驚いて、中将の瞳を覗き込んだ。吸い込まれそうなほど深い黒の瞳が、真剣な光を宿している。

 冗談で口にしているのではなさそうだった。


「そばにいてもらえませんか? こんなに遠く離れたところではなく、私のすぐそばに」


 恬子の両手を握りしめる中将の手が、熱い。

 恬子が小野に居を移してしばらくたつが、中将はこれまで一度も都に戻って来いとは言わなかった。それなのに、今日に限ってどうしてそんなことを言うのだろう。


「お願いです、そばにいてくれるだけでいい。私と一緒に、都へ帰りましょう?」


 真剣で、そして熱っぽい声に恬子は頷きたくなる。

 だが、泣きそうになりながらも、恬子はゆっくりと首を横に振った。


「わたくしは……、行けません」

「お願いです」

「だめなのです……」

「あなたは昔もそう言った。私のことを好きだと言いながら、私ではだめだと言う。いっそ嫌いだと言われた方がどれほど楽か……、わかりますか?」

「違う……、中将殿がだめなのではなくて、わたくしが―――」

「あなたの言い分は、今も昔もわかるようでわからない。もういいではないですか。些末なことなど考えず、私を好きだというその気持ちだけではだめなのですか?」


 いつも恬子の心をおもんぱかってくれる中将が、今日はやけに食い下がる。

 恬子はふるふると力なく首を振った。


「私のことが嫌いですか?」


 その訊き方は、ずるい。


「嫌いでは……」

「では、好きですか?」

「―――はい」

「それなのに一緒に都に帰ってはくれないのですか?」


 恬子はきゅっと唇をかみしめた。

 いっそすべてを投げうって、くだらない考えなどすべて捨てて、感情のままに頷いてしまいたかった。

 何も言えずに押し黙っていると、中将が細く息を吐きだす。握りしめていた恬子の手も解放された。


「すみません、あなたを困らせたいわけではないのです」


 中将の手が伸びで、まるで幼子にするように、恬子の頭を何度も撫でる。


「宮様、私はあなたが好きです。愛しています。あの時――、あなたを妻にと望んだあの時から、私の気持ちは変わりません。あの時のまま、私はあなたのことをずっと恋しく思っている。けれどもあなたは好きだけれどだめだと言う。残酷な方だ」


 恬子を避難しているはずの中将の声は、内容に反してとても穏やかだった。


「ごめんなさい……」


 声を震わせながら謝罪すると、恬子の頭を撫でていた中将の手が頬に滑り落ちて、手の甲で数回撫でて行く。


「私はもう休ませてもらいます。このままここにいては、あなたを傷つけるようなことをしそうで怖い。……おやすみなさい、宮様」


 中将の手が恬子から離れる。

 ぬくもりが離れていくことが、ひどく淋しかった。

 引き留めることもできずに中将が部屋を出て行くと、恬子は中将が触れて行った頬を指先でなぞる。


(本当はわたくしだって……、そばに、いたいのに……)


 どうして自分は内親王なのだろう。

 うつむいた恬子の目から、はらはらと涙が零れ落ちた。



     ☆   ☆   ☆



 翌朝は、昨日の雪が嘘のように晴れ渡っていた。

 もちろん気温は低いので積もった雪が解けだす気配はないが、夜が明けたばかりの柔らかい日差しが庭の雪に反射して、光の粒をまき散らしたかのように輝いている。

 結局、昨夜は一睡もできないまま、恬子は朝を迎えた。

 中将に会うのが少しだけ怖い。昨日のことで、目があった途端に顔を背けられてしまうのではないかと心配になる。

 恬子は眠れなかったせいでぼーっとする意識を覚醒させるため、両手で軽く頬を叩いた。

 中将に会ったら、何もなかったかのように微笑もう。それが恬子にできる精いっぱいのことだった。だがその前に、朝餉あさげの支度をしなくては。


 恬子は寒さに身を縮こませながらくりやへ急ぐ。朝餉を準備して、中将と兄が起き出す前に火桶に火を入れて、室内を温めておかなくてはいけない。

 はあっと吐く息が白い氷の粒になって霧散する。

 晴れていてもすごく寒い。

 昨夜、体調の悪そうだった中将の顔が思い出された。小野は都よりも寒いから、体調が悪そうだったことだし、できるだけ暖かくしてあげたかった。


(汁物はいつもより熱いくらいで用意しましょう。それから……)


 てきぱきと朝餉の準備を進めていく。温かいものを飲んで体を温めてほしいから汁物はあとから出すとして、そのほかを部屋に準備し終えると、恬子は兄を起こしに行くことにした。

 いつもは恬子よりも朝が早いくらいなのに、酒を飲んだ翌日だけはなかなか起きてこないのだ。


(中将殿も起きていないみたいだし……、あとで声をかけに行きましょう)


 そう思い、先に惟喬の部屋に向かった恬子は、話し声が聞こえて足を止める。

 兄と中将の声だった。どうやら二人は起きていたらしく、兄の部屋で話をしているらしかった。


(邪魔をしてはいけないわね)


 恬子はまたあとで来ようと踵を返しかけたが、漏れ聞こえてきた兄の言葉に足を止める。


「恬子と……」


 どうやら、兄と中将は恬子のことを話しているらしかった。

 いけないと思いつつもどうしても気になって、恬子は聞き耳を立ててしまう。


「恬子は、都に帰ると言ったか?」


 恬子はぎくりと肩を強張らせた。その一言で、中将がなぜ恬子に都に帰ろうと言ったのかわかってしまう。


(お兄様が言わせたのね……)


 おかげで昨夜は中将と気まずくなってしまったではないか。恨めしく思っていると、嘆息交じりの中将の声が聞こえる。


「いいえ、断られてしまいました」

「そうか。あれも強情だからな……、すまんな」

「いえ、なんとなく断られるだろうとは思っていましたから。頷いてほしかったですが、無理やりお連れするわけにも参りませんから、仕方がありません……」

「あきらめるな。私が口添えするから連れて帰れ」

「口添えって……、嫌な予感がするのですが、惟喬様、何を言うつもりですか……?」

「もうここへはおいてやらんから出て行けと言えば、出て行くよりほかはあるまい?」

「洒落になっていませんからね……」


 中将の苦笑交じりの声が聞こえる。

 容赦ないことを言う兄に、恬子はひやりとした。追い出されては、本当に都に帰るしかなくなってしまう。


「惟喬様、お願いですから無茶なことは言わないであげてください。宮様を傷つけてまで連れて帰ろうとは思ってはいないのです」

「だが―――」


 何か言いかけた兄は不意に言葉を切った。

 その直後、ごほごほと激しく咳き込む声が聞こえた。中将のものだった。


(やはり、昨日体を冷やしてしまったのだわ)


 心配する恬子の耳に、次の瞬間、耳を疑うような言葉が突き刺さる。


「お前、あとどのくらい生きられるんだ?」


 咳の合間に、兄の緊張したような声がした。


(……え?)


 恬子は息を吸い込んだ。ごくりと唾を飲み下した喉が引きつる。そのまま呼吸の仕方を忘れたみたいに、何度も口を開閉した。


(生きられる……? 生きられるって、どういうこと? どうしてそんなことを訊くの? まるで……)


 中将が、もうすぐ―――。

 恬子はこれ以上聞いていられなくなって、耳を塞ぎそうだった。

 咳の発作が収まつた中将が、信じられないくらい穏やかな声で兄に答える。


「もう長くはないでしょうね……。惟喬様の元を訪れることができるのも、これが最後かもしれません」


 目の前が、真っ暗になった。


「―――ッ」


 恬子は思わず兄の部屋に飛び込んでいた。


「どういうことですか!?」


 突然現れた恬子に真っ青な表情で詰め寄られ、二人の表情が強張る。

 恬子は中将の袖をつかんだ。


「どういうこと? 長くないって、何? 何を言っているのかわからないわ!」


 恬子の目に、今にも零れ落ちそうなほど涙が盛り上がる。

 袖を掴んだまま引っ張ると、中将はとても悲しそうな顔をした。


「聞いてしまったのですか……」


 中将の顔が、白い。

 体を冷やしたからと一人納得していた恬子は、なんと愚かだったのだろうか。

 もっと恬子が冷静だったら――、彼に会えたことに舞い上がっていなければ、彼の機微にまでしっかりと注意して気にすることができていれば、気づいていたはずなのに。

 どうして、どうしてと意味を持たない言葉をくり返す。


「宮様、私は……」

「いや! 聞きたくない!」


 自分から問い詰めたくせに、中将が核心に触れることを言おうとすると、恐ろしすぎて聞いていられなかった。

 恬子は幼子のように首を振って、身を翻した。


「恬子!」

「宮様!」


 兄と中将の焦る声を聞きながら、恬子は部屋を飛び出して廂を駆けて行く。


 ―――もう長くはないでしょうね。


 中将の諦めきったような声が、恬子の背中を追いかけてくるようだった。


(どうして、どうしてどうして……!)


 中将がいなくなってしまう。

 恬子は一度も考えたことはなかった。普通に考えれば、二十一も年が離れているのだ。彼が恬子よりも先に逝ってしまうのは、わかりきっていたことなのに。

 逝ってしまう。中将が逝ってしまう――。

 ほかの誰でもない、中将自身の声で突きつけられた現実が、恬子を深淵に引きずり込んで、窒息しそうなほどの恐怖で縛りつける。


 こんなことなら―――

 こんなことならば、あの日、中将に縋りついていればよかった。

 あの日、中将は些末なことだと言った。今日まで恬子はその言葉を否定していた。でも、今ならば頷ける。

 大切な人に二度と会えなくなるかもしれない現実を前に、恬子が自分を押し殺してまで大切に抱えていた考えは、どれほどくだらないものだったのだろうか――。

 恬子は庵室を飛び出して、少し行った先の木の幹に手をついて足を止めた。


「こんなことなら……、あの時、あの人の手を取ればよかった」


 恬子は縋りつくように木肌に爪を立てて、その場にくずおれた。



     ☆   ☆   ☆



 貞観じょうがん十八年。

 恬子が伊勢を退去したのは、彼女が三十一の時の暮れだった。

 都に戻って来てから、恬子は宮中には帰らず、母方の親戚の家の東のたいの一室を借りた。

 十七年も前に離れた。久しぶりの都は、どこか物悲しかった。

 兄の惟喬は数年前に出家し都を離れてしまっている。

恬子を迎え入れてくれた縁者も、内裏で暮らしていたころに少し話をしたことがあるくらいで、ほとんど他人と変わらない。

場違いなところに迷い込んでしまったかのような疎外感が、冬の針のような寒さとともに恬子に突き刺さった。


(これから、どうしたらいいのかしら……)


 恬子は、彼女のために調度を一新してくれた室内に視線を這わす。かわるがわるに挨拶に来る人たちに疲れて、恬子は断りを述べて早々に部屋に下がったのだ。


(いっそ、お兄様のように出家しようかしら……)


 そして、静かに瞑想の日々を送るのだ。うん、悪くないかもしれない。


「宮様、舎人とねりが文を持ってまいりましたよ」


 恬子が密かに出家願望を募らせていると、右近が文箱を抱えて持って来た。


「文? まあ、どなたから?」


 文箱の紐を解いて蓋を開けると、冬だというのに夏の蝙蝠扇かわほりが入っていた。中身はそれだけで、恬子は首をひねりながら扇を広げる。ふわりと白檀びゃくだんの香りが漂った。


「これは……」


 真っ白な扇に流麗な字で書かれていたのは、歌の下の句と、「逢いたい」の一言。

 恬子は瞠目して、しばらく呼吸を忘れた。

 この歌を恬子は覚えていた。

 十三年も前のことだったが、片時も忘れたことはなかった。

 逢いに行くと約束してくれたあの人を、恬子は馬鹿みたいにただひたすら思い続けていたのだから。


「……忘れないでいてくれたのね」


 瞳が潤んで、視界がぼやけてくる。ここで泣いたら右近が怪訝に思うので、恬子はつんと痛い鼻をおさえて、上を向いた。


「右近……、これを持って来た舎人に、手厚くお礼をして差し上げて」

「文のお返しはどうなさいます?」


 恬子は扇の面をそっと撫でる。


「すぐには書けないから……、またあとでするわ」


 心がいっぱいで、しばらく何も手につきそうにない。

 右近が退出すると、恬子は扇を胸に抱えた。

 ついさっきまで出家しようかしらと考えていたのに、その気持ちはきれいさっぱり消え失せてしまった。今は一日も早く、一刻も早く、あの人に会いたかった。


「……またあふ坂の、関はこえなむ……。わたくしも、逢いたい……」


 恬子が恋した、唯一の人だから―――



     ☆   ☆   ☆



 彼が恬子を訪れたのは、文が届いた次の日の夕暮れだった。

 彼は数年前に右近衛の中将になっていた。

 恬子は中将への文に返事をすることができなかった。気をきかせた歌をとぐるぐると考えて――、考えすぎて、「こんなつたない歌ではあきれられてしまうわ」などと唸っているうちにあっという間に時間がたち、中将が来てしまったからだ。


「返事をいただけていないのに勝手に押しかけてきてしまって、すみません」


 中将の声は恬子が知っているときのものよりも少しだけ掠れていて、それがまた素敵だった。

 年月を経ただけあって中将の外見にも変化があったが、相変わらず実年齢よりもずっと若々しく見える。

 もちろん、髪にはちらほらと白いものが混じっていたし、目尻にも深い皺が刻まれているが、それで彼の魅力が損なわれることはまったくなかった。むしろ、年を重ねたものだけが持つ特有の包容力のような雰囲気のおかげで、魅力がいや増さったかのように見える。

 恬子と中将の間には、十三年という空白が存在するはずなのに、恬子の心は彼とはじめてであったときのようにときめいた。


「ごめんなさい、お返事はしようと思っていたのですけど……」


 右近を下がらせて、恬子は昔と同じように自分の声で話した。

 目の前で、中将が冠を取り去り、髪をほどいている。庭から入り込む夕日が中将の顔に陰影を落として、恬子の心をひどく落ち着かなくさせた。

 彼は昔と変わらない。変わらず、恬子の前でくつろいでくれる。それがとても嬉しかった。


「かまいませんよ。おおかた、いろいろと考えすぎてしまったのでしょう?」


 声の端に揶揄がある。恬子はぷくっと頬に空気を詰め込んだ。


「そんなことはありません!」


 拗ねているのがわかったのだろう、中将が喉を鳴らして笑い出す。


「あなたは変わらないな」


 子供のようだと言われている気がして、恬子は少しあせった。


「そ、そんなことはありません! わたくしも、もういい年なのです。大人です」


 むきになって言い返したのがおかしかったのか、中将はさらに笑壺にはまってしまったようだった。

 むむっと眉を寄せていると、破顔したままの中将が膝行しっこうして御簾のすぐ前までの距離を詰めてくる。


「これ、少し上げませんか?」


 御簾を指して、そんなことを言う。


「ど、どうしてですか?」


 顔を見せろと言われているのだ。恬子はあせって、どきどきする心臓の上をおさえたが、彼はしれっと返した。


「だって邪魔でしょう?」

「邪魔って……」

「邪魔、でしょう?」


 中将の指が容赦なく御簾にかかる。

 うーっと唸りながら、恬子は御簾をあげることまではしなかったが、中将が作った小さな隙間から、そっと顔をのぞかせた。

 視界から御簾をはずしただけで、距離がぐっと縮まったように感じる。


「やっとお顔が見られた。ああ、やはりあなたは、何も変わらないな」


 中将がとても嬉しそうな顔をしたので、恬子は文句の一つも言えなかった。


「そんなことは……、わたくしだって、年を取りましたもの」


 顔を見つめられるのが恥ずかしくてうつむいていると、中将の手が御簾の内側に伸びてきて腕を取られる。

 恬子がハッとするよりも早く、ぐっと腕を引かれて、恬子は転がるように御簾の外に放り出された。


「中将殿っ」


 咎めるように睨みつけたが、中将はどこ吹く風だった。それも、あのとき――月見をした十三年前と変わらない。


「どこも変わっていないですよ。宮様は相変わらず可愛らしいままです」


 手を掴まれたままの中将を見上げたまま、恬子は頬を染めた。


「あ、あなたも、まったく変わっていませんわ!」


 意趣返しのつもりで言ったのに、中将が楽しそうに微笑む。

 こうしていると、恬子の中でゆるゆると時間が巻き戻されていくようだった。

 十三年という空白がすべて消えていくような錯覚を覚える。とにかく逢いたくて、どうしようもなくて、忘れられているのではないかと思うと切なくて――そうしてすごしてきた十三年間が、嘘のように。

 もし再会できたら言いたいことがたくさんあったのに、それすら喉の奥に消えていく。

 ただ、こうして彼が目の前にいるという事実だけで、恬子の心はこの上なく打ち震えた。


(どうしたらいいの……、泣きそう……)


 彼に捕まれている腕が熱い。伝わる熱がたまらなく幸せで、目が潤みそうになる。


「中将殿……」


 喋ると涙がこぼれそうになるのに、声を出さずにはいられない。


「はい?」


 中将が続きを促すように小さく首を傾げる。


「中将殿……、中将、どの……」

「はい」

「あいたかった……のです」


 どうにかそれだけ口にすると、たまらなくなってうつむいた。

 泣きたいのを必死に我慢していると、それに気がついたのか、中将が恬子の手を掴んでいないもう一方の手で、彼女の頭をふわりと撫でる。

 どうして、この人は変わらないのだろうか。

 どうして、この気持ちは変わらないのだろうか。

 どうして―――


(十三年前に、ほんの立った数日、すごしただけなのに……)


 恬子の心をこんなにも強く縛りつけて、離さない。

 幼子のように頭を撫でられているのに、それがあまりに心地よくて恬子はされるままにじっとしていた。

 結局そのあとは会話らしい会話もなく、ただ手をつないで、日が完全に暮れるまで、二人でぼんやりと空をながめた。

 そうすることで、二人の間に存在しなかった十三年という歳月を埋めたかったのか、それとも時間を十三年前に巻き戻したかったのか、はたまたその両方なのか、恬子にはわからない。

 ただ、彼の手のひらから伝わるぬくもりとともに、彼がすぐそばにいるのだという現実が、恬子には信じられないほどに幸せだった。

 本気で、このまま時間が止まってしまえばいいのにと思うほどに―――



     ☆   ☆   ☆



 さすがに毎日とまではいかないが、中将は暇を見つけては恬子に会いに来た。

 だいたいいつも夕暮れに来て、数刻話して帰っていく。

 ただ、それだけの関係だった。恋人未満。

 お互いがお互いに、どこまで近づいていいのかわからなかったのかもしれないし、このゆるゆるとした関係に変化を持たせることを怖がっていたのかもしれないし、――そして何より、恬子の内親王と言う立場が、これ以上踏み込むことを躊躇ためらわせていた。

 けれど、恬子は、この進展も後退もない関係に、どこかホッとしていた。

 もちろん切なくもあるし、もどかしくもあったけれど、ただ彼のそばにいられればそれで幸せだった。それ以上を望むべきではないと思っていた。


 そんな、二人の関係にちょっとした関係が訪れたのは、彼と再会して数か月が過ぎたころだった。

 季節は移ろい、庭の片隅にある小さな桜の木に、ぽつりぽつりと花が咲きはじめていた。

 庭の桜が満開になったら、恬子は酒が苦手だが、一杯だけつきあうと中将と約束していた。その日は早めに逢いに行くからと言ってくれた。

 中将と花見をする機会が持てるなんて、伊勢にいたころには想像だにしなかったことで、恬子の心はあたりに漂いはじめた春の気配のように浮かれてしまう。


(早く満開にならないかしら?)


 小さな桜の木だが、それが逆に情趣を誘う。恬子の好きな桜の花を、桜のような彼と一緒に楽しむことができるなんて、この上なく幸せだった。


「宮様、中将殿が、今日は少し早めにいらっしゃると」


 何をするでもなく庭を眺めていると、右近が告げに来る。


「わかったわ、ありがとう」


 中将が来るのは三日ぶりだった。

 いつも決まった時間に来るのに、早く来るなんて珍しいこともあるものだ。まだ約束の花見の日でもない。

 少し不思議だったが、中将に早く会えるのは嬉しかったし、恬子は気にも留めていなかった。――中将の顔を見るまでは。

 まだ明るいうちから邸に訪れた中将の表情は珍しく強張っていた。御簾の中からでもわかるその顔色の悪さに、恬子は首をひねる。


(どうかしたのかしら?)


 中将はいつも穏やかな表情をしているのに、今日の彼は眉間に深く皺を刻み、口を硬く引き結んで、怒っているようにも見えた。

 何がそれほどまでに彼の機嫌を損ねてしまったのだろう。


「中将殿、見てください。桜が、少しだけ咲いたのですのよ」


 恬子は彼の機嫌をなだめるように、柔らかい声でそっと話しかけた。

 中将はちらりと庭に視線を投げて「ああ」とだけ頷く。ただ、それだけだった。眉間の皺は消えない。

 彼は恬子と会うとすぐに冠を取り払ってくつろぐのに、今日はそれさえもなかった。

 硬い表情で、思案しているようにも見える。

 恬子は少し逡巡したが、思い切って訊ねてみることにした。


「中将殿、今日は元気がないように見えますわ。どうなさいましたの?」


 恬子の指摘に中将は弾かれたように顔をあげ、それから視線を彷徨わせる。


「そうですか? ……そうかも、しれませんね」

「体調が悪いのですか?」

「そういうことではないのです」


 中将は、はあと息を吐きだした。


「すみません、……いろいろ、焦っているのかもしれません」

「焦る? 中将殿が?」


 それはまた妙なこともあるものだ。

 中将はいつも泰然としていて、焦燥という言葉は彼の辞書には存在していないように思えるのに。


「わたくしには、中将殿が何に焦っていらっしゃるのかはわかりませんし、どうすることもできませんが、どうぞ、気を楽にしてください」


 そういう言ことしかできない恬子が困っていると、中将がゆっくりとかぶりを振った。


「いいえ、宮様がどうすることもできないと言うことはありません。あなたに関係のあることですから」


 恬子はびっくりした。


「わたくしに、関係のあること?」


 中将の不機嫌が恬子に関係のあることだと言われて、恬子は怖くなる。


(どうしましょう……、わたくし、知らないうちに中将殿を怒らせてしまったのかしら?)


 おろおろと助けを求めるよう、誰も控えていない御簾の中に視線を彷徨わせて、恬子は消え入りそうな声で「すみません……」とつぶやく。

 これには中将がびっくりしたようだった。


「どうして謝るのですか?」

「だって、わたくしが何かしてしまったのでしょう?」


 きゅっと両手を握りしめて、恬子はうなだれる。

 何が理由なのかはわからないが、恬子が原因なのだから、誤らなくてはと、そう思ったのだ。

 しかし中将は何度か目をしばたたいて、ふっと息を吐きだすように笑った。強張っていた彼の表情がほぐれて、いつものように穏やかになる。


「そうじゃない。そうでは……ないのです。すみません、勘違いさせるようなことを言いました。宮様に関係のあることですが、あなたが悪いということではないのですよ」


 声の色も、ずいぶんと落ち着いたものになっていた。恬子は胸を撫でおろす。


「それでしたら、いったいどうしたと言うのですか?」


 恬子が訊ねると、中将は悩むように口を引き結んだ。


「中将殿?」


 やはり様子がおかしい。

 恬子は御簾に手を伸ばした。顔をのぞかせようかどうしようかと迷っていると、中将がおもむろに手を伸ばしてくる。彼は恬子が迷っている前で御簾を持ち上げたのだ。

 彼は御簾のうちに滑り込むと、息を呑む恬子の手を握りしめた。


「宮様、私の妻になってはくれませんか?」


 恬子はこれ以上ないほど目を見開いた。


「お願いします、どうか、私の妻に」


 腕を引かれて前のめりになった恬子の体を、中将が優しく抱きしめる。驚愕して何も言えないでいる恬子の耳に「お願いします」というささやきが落ちた。


(何、どういうこと……? 何が起こっているの?)


 この展開は、恬子の許容範囲をはるかに超えた。体が硬直し、鼓動が早鐘のように鳴り響く。脳の思考回路は凍結し、卒倒しないことが奇跡のように思えた。

 抱きしめられているから中将の鼓動の音も聞こえてくる。彼の鼓動も恬子と同じくらいに早かった。

 何が起こっているのか、本当にわからなかった。

 中将には妻も子もいる。ほかにも女性がいると思う。そういう噂を聞いている。

 それなのにどうしてこんなことを言うのだろうか。

 どうして「妻」という言葉を使うのだろうか。わからない。全然、わからない。

 唯一わかっているのは、このままこの懇願には頷いてはいけないということだけだった。


「中将殿……、どうか、わたくしにも、わかるように説明してくださいませんか?」


 震える声でどうにか告げると、中将が大きく息を吐きだしたのがわかった。


「何も聞かずに、このまま頷いてはくださいませんか」

「それは……、できません」


 当然だった。

 恬子は内親王だ。中将に降嫁ということになれば、いろいろと弊害がある。

 第一に、彼の妻に申し訳が立たない。内親王という立場の自分を、その他大勢の女の一人にはできないからだ。恬子を望むのなら当然北の方――正妻、という立場になる。今の彼の妻の立場を追いやることになる。

 それだけは何としても避けたかった。

 彼の妻は恬子の従姉でもあるし、そうでなかったとしても良心が咎める。だから恬子は、彼とそうなってはいけないのだ。恋心を抱く相手――、これ以上を、求めてはいけない。


「もしあなたが私の妻のことを気にされているのでしたら、その必要はありません。話はしてあります」


 中将の言葉に、恬子は殴られたような衝撃を受けた。


(話をした……? どうして、そんなことをするの?)


 その話を聞いた時に、中将の妻はどう思ったのか。想像しなくてもわかる。どうして、そんなことをするのだろうか。


「わたくしは、誰かを傷つけてまで、そんなことを望んではおりません!」


 悲しかった。彼がそんなことを言った事実と、従姉の心情を思えば、絶望したいほど苦しかった。

 だが、何よりも絶望したいのは、恬子が彼のその言葉に、悲しい以外の感情を覚えてしまったことだった。悲しいのに、切ないのに、苦しいのに――、嬉しいと、思ってしまったことだった。

 恬子を望んでくれた彼の心が、嬉しい、と。

 だから、恬子はその感情をすべて振り払うように、声を荒げるしかできなかった。

 中将はそれでも抱擁を解いてはくれず、恬子を腕の中に閉じ込めたまま、諦めたような声で告げた。


「あなたの降嫁の話がでています」


 予想外の答えだった。


上皇おかみが、あなたを誰かに降嫁させると。今、内密に人選がなされています」


 まさに寝耳に水だった。くらくらと眩暈すら覚える。

 上皇とはすなわち恬子の異母弟である。上皇と惟喬の間には、過去にいろいろとややこしい事情があったのだが、上皇と恬子の兄弟仲はさほど悪くはない。それなのに、突然、どうしてそんなことを言いだしたのだろうか。あんまりだ。


「上皇は、あなたがいつまでも一人でいるのは可哀そうだ、と」


 恬子の心情を察してか、中将が付け加える。

 恬子の体から力が抜けた。それを支えるように中将の腕に力がこもる。


(ああ、どうして……)


 望んでもいない方へ話が転がっていくのだろう。

 昔からそうだった。

 恬子の人生は、すべて彼女の意思とは関係なく、小石が斜面を転がり落ちて行くように、逆らえない力によって動かされる。

 内親王という身分は、かくも恬子を苦しめるのだ。


「今のところ、まだ人選段階ではありますから、話がまとまるのは少し先になるはずです。隠しても仕方がありませんから申しますが、私も、その候補に。もっともこれは、惟喬様のお名前を利用して、私が上皇に頼み込んでのことですが――、まあ、身分と年から考えて、普通に考えれば私は選ばれないでしょうね」


 茫然とする恬子の耳に、中将が優しく語りかける。


「ですが宮様がご自身で私に嫁ぐと言ってくだされば……、惟喬様も口添えくださるとのことですし。――私はあなたを、私以外のほかの誰かに降嫁などさせたくない」

「……こんなのって……」


 恬子の目から涙があふれて、中将の衣に吸い取られる。

 中将がなだめるように背中を撫でてくれるが、涙は止まらなかった。


「宮様、お願いですから頷いてください。どうか、私の妻に」


 彼がくれる甘い言葉に頷くことができればどれほど幸せだろうか。

 余計なことを考えず、彼のそばで微笑んで過ごせるのならば、これ以上ないほど幸せなはずだ。けれども恬子は、それができるほど図々しくも愚かでもなかった。

 いや、余計なことばかりを考えて、目の前にある幸せに手を伸ばせない恬子は、ある意味愚か者なのかもしれないが。

 恬子は大きく息を吸い込み、吐き出すと、ぐっと顔をあげた。

 恬子の瞳に宿る意志の輝きに、中将がどうにか恬子を屈服させようとささやき続けていた甘い言葉を呑みこむ。


「わたくしは、あなたの妻にはなれません」


 この拒絶を言うのに、どれほどの勇気が必要だったことか。

 中将の表情が凍り付いていく。恬子の胸が切り裂かれるほどにいたんだが、それでも恬子は屈しなかった。


「私のことが嫌いですか?」


 中将は乾いた声で訪ねてきた。彼が絶望的な声を出すのを、恬子ははじめて聞いた。


「いいえ……、いいえ、違うのです」


 恬子は何度も首を振った。


「では、どうして」

「わたくしのために、あなたを、あなたの周りを巻き込むことはできません。だから、だめなのです」


 わかってと懇願しても、中将は首を縦には振らない。


「妻は納得したと言ったはずです」

「いいえ!」


 恬子は首を横に振り続ける。


(そんなの、本当に納得しているはずないじゃない! 中将殿も、心の中ではわかっているくせに……!)


 恬子の頑なな態度に中将は途方に暮れたようだった。

 腕の力を少し緩めて恬子の顔を覗き込む。


「私は、宮様、あなたが好きです」


 恬子はびくりと肩を揺らした。


「すべてを投げうってもいいと思えるほどにあなたが好きなのです、恬子様」


 好きだと言われると、名前を呼ばれると、感情が揺れる。屈しそうになる、恬子は中将の衣をぎゅうっとつかんだ。


「わたくしも好きです、あなたが好きです。でも、だめなのです、わかって……」

「わかりたくもありません。私が好きだと言いながら、あなたは違う誰かに降嫁すると言うのですか? そんなこと、わかるはずもないでしょう? 私には耐えられない。耐えられるはが、ない……!」

「わたくしは降嫁などいたしません」


 きっぱりと告げると、中将が瞠目した。

 恬子は今この瞬間に決意した。誰にも降嫁しない。どうしてもと言うのならば出家も考える。誰にも嫁がず、中将のことだけを思って生きていくのだ。

 叶えてはいけない、この思いを抱えて。


「わたくしは、お兄様のもとに参ります」


 惟喬のもとに行けばきっとどうにかしてくれる。惟喬でもどうにもならなければ、出家して、兄とともに瞑想の日々を送るのだ。

 恬子は力なく微笑んだ。


「わたくしは、小野で静かに暮らします」


 都から逃げ出して、すべてから解放されて、恬子の心を煩わせるものすべてを拒絶して、心静かに暮らすのだ。恬子が抱えて行くのは、中将への思いだけでいい。


 中将が表情を凍てつかせるが、恬子はその頬へ手を伸ばして、最後の勇気を振り絞った。

「あなたを愛しています。だから、あなたのそばから離れます」


 ――本当は、号泣したかった。



     ☆   ☆   ☆



「恬子様」


 どのくらい雪の上に膝をついていたのか。

 名前を呼ばれてのろのろと顔をあげると、背後に中将が立っていた。 

 顔色が悪い。こんな寒い中に外にでてきてほしくなかった。


「泣いていたのですか、宮様」


 中将が恬子のそばに膝を折る。

 何も言うことができずに顔をあげた恬子の頬に流れる涙を、中将の指が優しくぬぐった。


 ――お前、あとどのくらい生きられるんだ?

 ――もう長くはないでしょうね。


 先ほど聞いてしまった惟喬と中将の会話が頭の中から離れない。

 気づけば恬子は、体当たりをするように中将の腕の中に飛び込んできた。

 中将は何も言わずに、ただ抱きしめてくれる。


「……いかないで」


 恬子は震える声で告げた。


「おいて、いかないで……。いなくならないで……」


 遠く離れて暮らすのと、二度と会えなくなるのでは違う。

 しゃくりあげながら告げると、中将も泣きそうな表情を浮かべた。

 中将が昨夜、都に帰ろうと言った言葉が思い出される。

 恬子が小野に来てから、都に帰ろうと誘われたことは昨夜まで一度もなかった。

 どうして今になって――、そう思っていたが、きっと、彼の先が長くないから。


(これが最後なんて……、いや)


 それでも、恬子はどうしていいのかわからなかった。

 中将の胸に顔をうずめて、ただ泣きじゃくる恬子を、中将はただ抱きしめていてくれる。


「私は、ずるい男です」


 どのくらいそうしていたのか、中将がぽつりと言った。


「私にあとどのくらいの時間が残されているのかは、正直わかりません。思っているよりも長いのかもしれないし、短いのかもしれない。でも、ああ、もうじき死ぬのだと思ったとき、どうしてもあなたに逢いたかった。どうしてもあなたがほしくなった。残ったわずかな時間を、あなたと一緒にすごしたいと思った。……私は自分勝手で、ずるい男です」


 中将がゆっくりと恬子の顔を持ち上げて、目尻に唇を押しつけた。

 はじめて感じる中将の唇の感触に、恬子の呼吸が止まりそうになる。


「でも、卑怯でも自分勝手でも、私はあなたがほしい」


 すごく近くに中将の顔がある。

 止まらない涙を何度も唇ですくっては、なだめるように額を合わせてくれる中将の、顔が。


「あなたの気持ちをないがしろにする、私はひどい男だ。けれど、最後の我儘です。私の残された時間を、一緒に生きてほしい」

「……中将、どの」

「あなたを愛しています」


 そっと唇が合わさった。

 今まで決して詰めなかった距離が埋まる。

 中将の唇の熱と吐息を感じながら、恬子は中将の背に手を回した。


(……もう、むり……)


 拒絶なんてできない。

 恬子も今より少しだけ自分勝手になってもいいだろうか。

 中将と一緒にいてもいいだろうか。

 唇が離れると、中将の真剣な顔がそこにあった。


「……無理やりでも、あなたを都に連れて帰ります。ひどい男だと罵っていただいてもかまいません。だから、帰りましょう」


 無理やりに連れて帰ると言いながら「帰りましょう」と誘ってくれる。優しくて、ずるい人。


「恬子」


 惟喬の声が聞こえて振り返れば、少し困ったような顔をした兄がそこにいた。


「お前との暮らしは悪くなかった。だが、いつまでも意地を張っておらずに、中将と一緒に行け。いいな」


 兄は、自分からなかなか飛び込めない恬子の背中を押してくれる。

 恬子は目を伏せて、それからぽつりと、


「お花見の約束……、まだ、果たしてもらっていませんから。だから……」


 素直に都に帰るとは、まだ言えなくて。

 かわりにそんなことを言う恬子を、満面の笑みを浮かべた中将がきつく抱きしめた。



     ☆   ☆   ☆



 都に邸を持たない恬子を、中将は自分の邸に引き入れた。

 中将の妻である恬子の従姉は昨年他界していて、中将は風流な邸に少ない家人を住まわせて、静かに暮らしていたらしい。

 朝、中将の隣で目覚めた恬子は、少し肌寒さを覚えて、慌てて中将の上に打掛を重ねると、女房が用意してくれていた火桶を中将の近くまで引き寄せる。

 彼はまだ眠ったままで、規則正しい寝息が聞こえていた。


(今日は、やけに寒いわ……)


 春先になって、厳しい寒さもだいぶ緩んできたのに、今朝は冷え込む。

 庭にある桜は三分ほど咲いていて、もう少し咲いたら、昔の約束通り桜の下で酒を飲もうと中将と話をしていた。

 恬子は火桶の炭をつついて空気を入れながら、穏やかな表情で眠っている中将の顔に視線を落とす。

 たまに体調が悪そうな時もあるが、都に戻ったときに久しぶりに会った上皇に、それとなく中将の体調を伝えたところ、薬司くすりのつかさの薬をわけてくれて、どうやらその薬が体に合っているのか、最近の彼は調子がいいようだった。


「んん……」


 中将がころんと寝返りを打ち、右手が何かを探すような動きをする。そして、ぱちりと目を覚ました。


「……宮様?」


 寝ぼけたような声がおかしくて、恬子は笑いながら「はい」と返事をする。

 すると、中将はほっとしたような表情を浮かべて、ゆっくりと上体を起こした。


「起きていたのですか。……今日は冷えますね」


 そう言って、背後から恬子を引き寄せて腕の中に閉じ込めてしまった。


「寒いですか?」


 火桶の炭をもう少し足してもらおうかと悩んでいると、中将が恬子の頬に頬を寄せる。


「あなたがいれば温かいですよ」


 そんなことを言うものだから、恬子は照れてしまった。

 そうしてしばらく中将の腕の中でのんびりしていたのだが、さすがにいつまでもこうしているわけにもいかず、恬子は中将の腕の中から逃れると、朝餉の用意を頼もうと妻戸を開けて、あっと声をあげる。


「中将殿、見てください。雪が……」


 春先になり、すっかり降らなくなっていた雪が降っている。

 中将は恬子の背後から庭を見やって、ああ、と笑った。


「寒いはずですね」

「本当に……。枝には少し積もっていますわね」


 そう言って恬子が庭木に目をやれば、中将が楽しそうに笑った。


「ええ、桜の木にもほら……。桜隠し、か」


 中将が指さす方を見れば、三分ほど咲いた桜を覆うように雪が積もっていた。


「……感慨深いですね」


 中将がやけに嬉しそうなので、恬子は不思議に思う。

 中将はじゃれるように恬子の肩を引き寄せてこめかみに口づけた。


「桜と雪は、なかなか交わらないものです。でも、何年も待てば、こうして桜の季節に雪が降ることもある。――私が、何年も待ったように」

「え……、んっ」


 恬子が顔をあげると、かすめるように口づけられた。


「朝餉はまだあとでいいです。もう少し一緒にいましょう」


 そう言って妻戸を閉めて、恬子は部屋の中に引きずり戻されてしまう。

 よくわからないが、中将の機嫌がいいらしい。

 恬子は中将の腕の中に閉じ込められながら、そっと目を閉じた。


(……幸せ)


 伊勢で出会って、都で涙ながらに拒絶し、小野に逃げた。まさかこうして中将の腕の中で微笑む日が来るなんて――、恬子は中将の胸にすり寄って、そっと幸せをかみしめる。

 この幸せがどれだけ続くのか、恬子にはわからない。

 でも、この気持ちは間違いなく永遠だ。


「愛しています」


 口づけの合間にささやけば、中将がとろけるような笑顔を浮かべてくれる。

 

 ――またあふ坂の関はこえなむ。


 逢いに行きます。何度でも、永遠に―――




お読みいただきありがとうござました!

実は私、この時代ものすごく好きでして(大学も中古文学を専攻していたくらい)、平安ものめちゃくちゃ書きたいんですけど、小説家になろうは何となく「異世界もの」というイメージがあって(個人的に)あげるまですごく悩みましたが、自己満足を最優先してもたまにはいいよねと言うことで、えいやっと上げさせていただきました。

(また書きたくなったらどこかで書くかも…)


この時代好きなんです~という方がお一人でもいると嬉しいです。




もしよろしかったら以下☆☆☆☆☆にて評価いただけますと幸いです。

今後の参考にさせていただきます!



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