糸車
私が細君の夢を見るようになったのは、隣の家に生えている橘の枝葉が垣根を越え、愛らしい白い花を咲かせはじめた頃である。
近頃私は心持ちが悪く、いくつかの講義を取り消すよう学務に申請していた。受付の女は冷徹であったが、下手に哀れみなどを持たれるよりはずっといい。暗雲立ち込める私の心を嘲笑うように、空は快晴であった。
細君が死んでしまってからというもの、私はまるで生きた骸の様であった。身体は生きるための営みを繰り返しているのに、そこに私の意思は存在しないのだ。
或る日、太陽が昇るか昇らないかの境目、空が紫とも青とも言えない色に光る時刻に、私はカラコロと云う音で目が醒めた。
薄目を開ければ、白い服を着た女の膝がぼんやり見えた。先程から音がするのは冬の日に燃やしたはずの古い糸車である。その日の私は早々に夢だと合点して、再び眠りに落ちた。隣家で飼っている鶏のけたたましさで目を覚ませば、そこには糸車も女性もいなかった。
こんな日が何日も続いた。私は決まって朝日が昇る前に目覚め、糸車と女性をじっと観察してから再び眠る。次に目覚めた時には何も残っていない。
縁側に腰を降ろし、風鈴の音を聞きながら私は誰もいない庭を眺めていた。こうしていれば、桶を持った細君がやってきて、今にも水を乾いた砂地に撒いてくれるのではないかと、在りもしない幻想を抱いていた。
「やあ、忠さん、ご機嫌如何です?」
はす向かいに住む友人が、カンカン帽をちょいと上げて、庭に入ってきた。細君の葬儀以降顔を合わせていなかった友人Aは、あれほど熱心に教鞭を振るっていた私が大学にも研究室にもいないことを案じ、こうして尋ねに来てやったのだという。
私は彼に夢の話をした。Aは茶を啜りながら、それは細君ではないかという。
「緑さん、実家は木綿を育てていたでしょう。僕は詳しく知りませんが、糸車を回せばよく隣で見てくれていたのだと、以前話していましたよ」
そういえば、あの糸車も細君の物であった。嫁入り道具の中に混じっていて、何故使いもしない糸車を持ってきたのかと尋ねた覚えがある。成程、これは細君にとって思い入れの深いものであったのか。
であれば、日の出前にやってくるあの白い女が細君であることはまず間違いないだろう。私が細君との甘酸っぱい、木苺の様な思い出を忘れてしまっていたことが悲しくて、なかなか死ぬに死ねなかったのかもしれない。
Aと談話した次の朝も、私は糸車を回す音がしたので、やれ今度は起き上がってみようと蚊帳を抜けだし、寝間着のまま薄暗い茶の間までそろりと歩くと、女の隣に座った。
女は黒い糸を紡いでいた。眼鏡を外していた私にはそれが何かわからず、女に何を糸にしているのか尋ねると、女は糸車を止めた。
「あら、よくご覧になってください。これは貴方の髪の毛ですよ」
私の識らない女の声が隣から聞こえ、私は飛び退いた。
彼女は細君ではない。女はこってりと白粉を塗っていて、私を捉えるとにいと嗤った。
顔には、眼がなかった。
女下卑た嗤い声の中、私は目が醒めた。やはり夢だったようで、蚊帳の中べっとりと嫌な汗をかいていた。
悪夢が頭から離れない。冷えた水で顔を洗い、洗面台の鏡に映る自分を見て私は愕然とした。
私の頭にあったはずの毛髪が、1本残らず無くなっていた。鏡には、瓶底眼鏡をかけた男が、白い卵のようにつるりとした頭を撫でている。
表では隣家の鶏が鳴いている。
その日から、私は女の夢をみることは無くなった。