8
翌朝――
朝早くに瑠樺は母に案内されて、一緒に山へと向かった。
千波は一度起こしてみたものの、気持ちよく眠り込んでいてすぐには目を覚まさなかった。やはりこの地にいるだけで彼女には疲労につながるのかもしれない。仕方なく、千波にはメモを残して出かけることにした。
美也子に連れられて山道を歩いていく。途中、この先にダムがあるという標識を目にした。かなり傾斜のある山道だったが、1時間ほど歩いても美也子は平然な顔をしていた。長年、看護師として働き続けてきたこその体幹の強さに瑠樺は感心した。
さらに30分ほど歩くと、そこには大きなダムがあった。
美也子はそのダムを前にして立ち止まった。澄んだ水がダムを満たしている。
その光景を眺めながらーー
「この水の下なんだよ」
「何が?」
「昨夜言ったじゃないか。私のお爺ちゃんが住んでいた家だよ。今は村ごとこのダムの下に沈んでいるんだ」
「そうだったの。じゃあ、きっと寂しかったろうね」
瑠樺はその水面を眺めながら言った。
「何が?」
「お爺ちゃんよ。自分が生まれ育った村がダムに沈むなんて寂しかったろうなって……私は会ったことないけど」
「たぶんそんな人じゃなかったんじゃないかな。お母さんに聞いた話じゃ、補償金もらって大喜びしてたって」
「あ……そうなの」
母のどこかドライな性格はその祖父からきてるのかもしれない。
「でも、意外と内心は瑠樺のいうような気持ちも少しくらいはあったかもね」
「少しは?」
「そう、少しは」
そう言って、美也子は大きく息を吸い込んだ。
「不思議な感じがする場所だね」
空気が澄んでいる。物理的な意味だけではない。この身が自然と放つ気というものがすぅっと空気に吸い込まれ溶けていくような感じがする。
「うん、ここには外の力が立ち入ることは出来ない場所。ここは私のはるかご先祖様が生まれた場所なんだよ。私たちは『伊吹の民』と呼ばれる一族の末裔なんだ」
「え? 何のこと?」
いったい美也子が何を言い出したのか、瑠樺にはすぐには理解出来なかった。以前、父が突然、自分が『妖かしの一族』だと告げた時のことを思い出す。あの時も、思いもしない父の話に面食らったものだ。
「なんて顔してるの。言っておくけど、そんなたいそうな話じゃないよ。私はお父さんとは違って、そんな特別な立場の人間じゃないし、特殊な力だって持ってないからね」
「でも、今言ったのは?」
「『伊吹の民』、ここに生まれ育った私たち……というより、私たちの祖先はそう呼ばれていたみたいなんだ。生命を与え、生命を奪う一族ってね」
「まさか、お母さんはそれで看護師に?」
「違うよ。だから、言ったでしょ。私はそんなすごい力持ってないって。今話たのはただの言い伝えみたいなものだよ。それに普通の人間が、そんな神様みたいな力を持っていても苦労するだけじゃないかな」
「それって草薙君のことみたい」
「誰だって?」
「草薙響君っていう私のクラスメイト。今年の春、転校してきたの。彼は、他人に生命を与える力を持っていたわ。助けてもらったことがあるの。でも、彼はその力に苦しんでいたみたいなの」
「ふぅん、神の力を持った人間か。もしかして京都の人?」
「何か知っているの?」
「いいや、私はそういうものに詳しくはないからね。でも、昔、そんな話を聞かされたことがあるなぁ。それはたぶん私たちの祖とは違う、神となったもうひとつの力だよ。それについては私よりも詳しい事情を知っている人がいる」
美也子はそう言って、今来た道を戻り始めた。特別な力などないと言いながらも、その足取りは軽い。瑠樺はその後をついて歩いていった。
歩きながら美也子が声をかける。
「向こうでは誰かそういうことについて教えてはくれないの? 同じ一族の人とかで」
「私は『妖かしの一族』だけど、『和彩』ではないから」
「『和彩』って?」
「昔、二宮は『和彩』って名前を使っていたらしいの。それは特別なもので、私は『和彩』でもないし、二宮はお父さんが『八神家』という枠から抜けてしまっているから、私は中途半端な立場なの。だから大事なことはなかなか教えてもらえないの」
「ふぅん、なかなか難しいものなんだね。でも、あの矢塚って人は? あの人なら教えてくれるんじゃないの?」
美也子の口からその名が出たことに瑠樺は表情を固くした。母と矢塚とは、父の葬儀の時に面識があった。どこかでその話をしなければいけないとは思っていた。
「矢塚さんは亡くなったの」
「死んだ? あの人が?」
少し驚いたように美也子は瑠樺の顔を見つめた。「どうして?」
「詳しいことは私にもよくわからない。裏切った……って言われてる。『堕ち神』というものになってしまって、美月ふみのさんっていう一族の一人を殺して逃げたの。でも、最後には雅緋さんによって殺されたの」
「雅緋さん? それって前に瑠樺が話してくれた友達のこと?」
「雅緋さんにとって、ふみのさんは恩人だったから。でも、きっと雅緋さんも苦しんでいるんだと思う」
雅緋の気持ちを思うだけで心が重くなる。
「ずいぶん大変なことになっていたんだね」
美也子は瑠樺を思いやるように言った。
「どうしてこんなことになったのか、私にもよくわからなくて」
瑠樺は正直に気持ちを口にした。
美也子は少し考えた後――
「私はあなたたちのことに口を出せる立場じゃないよ。でも、私はあの矢塚さんって人を信じるよ」
それはあまりに意外な言葉だった。美也子は、辰巳の葬儀のおりに矢塚と顔を合わせている。それは瑠樺も知っていた。だが、美也子がそこまで矢塚のことを信頼しているとは思ってもみなかった。
「信じる? 矢塚さんを? でも矢塚さんはふみのさんを……」
「そうだね、ふみのさんには可愛そうなことだったね」
その口ぶりはまるで、ふみののことを知っているように聞こえる。
「え? ふみのさんのことも知っているの?」
「そりゃあ、会っているからね」
当然のように美也子は言った。「気の良いお嬢さんだったよ」
「いつ?」
「お父さんの葬儀の時だよ。そういえば、あなたは泣いてばかりで周りが見えていなかったね。あの時、お姉さんのあやのさんにも会っているよ。二人共、葬式の途中で抜け出して外でお酒飲んでたよ」
「どうしてそれをお母さんは知っているの?」
「はは、私も一緒だったから」
あまりの告白に瑠樺は唖然とした。確かに葬儀の最中、母の姿が見えなくなったことがあった。まさか、外であやのたちとお酒を飲んでいたとは思いもしなかった。
「他にも誰か会ったの?」
「他? ああ、詩季のお嬢さんかな」
「怜羅さん?」
瑠樺は面食らっていた。瑠樺が怜羅のことを知ったのはついこの前のことだ。その何年も前に知り合っていたとは思わなかった。
「そうそう、そんな名前だったね。品のいい人だったね。でも、お酒は強かった。お通夜のお酒はほとんど彼女が飲み干していたっけ」
自分が泣いていた葬儀の時、周りでそんなことが起きているとはまるで知らなかった。それほどまでに周りが見えなくなっていたということかもしれない。
「他には? 六花は? 七尾流さんにも?」
瑠樺は矢継ぎ早に訊いた。
「いや、そういう人には会ってないな。そうそう、呉明とか言ったかな」
「え? 沙羅ちゃんにまで? どうして?」
そう言ってから、そんなはずがないことに気づく。父の葬儀の時、沙羅は既に雅緋の中に宿っていて、彼女はそのために眠り続けていたはずだ。
「それはたぶん違うよ。私が会ったのは男の人だ。名前は……忘れちゃったなぁ。香典帳に書いてもらったっけか。香典帳、どこにあったかなぁ」
「それって誰?」
「一族の一人だと言っていたよ。あ、彼は違った」
「違う?」
「ああ、そうじゃないよ。その人が来た日のことだよ。葬儀の時じゃなかったね。葬儀の後、夜に私が泊まっていた宿に一人で挨拶にやってきたんだった。表立って来れない事情があると言っていたよ。でも、皆、良い人に感じたよ。だから、私は矢塚さんのことを信じる」
「でも、矢塚さんはふみのさんをーー」
「そんなこと私は知らない。それにあなたは、矢塚さんがふみのさんを殺すところを見たの? 勝手な想像でものを言っているんじゃないの? あの人たちはあなたを裏切るような人たちじゃないよ」
事情を知らないはずの美也子がそうキッパリと言いきった。ただの直感なのかもしれないが、それでも美也子が言うと真実味が増す気がする。
まさか矢塚が母の居場所を伝えてきたのはそういうことだろうか。
「実はここを教えてくれたのは矢塚さんなの。ねえ、矢塚さんはどうしてこの場所を知っていたの?」
「さあ、私は誰にも教えてなかったんだけどね」
美也子は首を捻った。「でも、あなたたちの仲間だったら、そのくらいのことを調べるのは簡単なのかも知れないね」
「矢塚さんはお母さんの正体を知っていたのかな? だから、お母さんに会うようにって」
「私の正体? さあ、違うんじゃないかな。そりゃあ、私は『伊吹の民』の末裔ではあるけど、私はただの何の力もない人間なんだから。きっと、私に会うことで気合を入れてもらえると思ったんじゃない?」
「気合かぁ……私に『和彩』の名前なんて継げるのかな」
「それってどうしても継がなきゃいけないものなの?」
「私だって継ぐつもりなんてなかった。でも、『和彩』の名前がないから何も教えてもらえないんだよ。私がその名を継ぐことで皆を助けられるならそうしてもいいかなって」
「じゃあ、継げばいいじゃないの」
「だから、そんな資格、私にあるのかなぁって悩んでるって話してるんじゃないの」
「なるほどねぇ、難しい問題だね」
そう言いながらも、美也子の言葉は軽いように感じる。
「たかが名前のことにどうして皆、そんなにこだわらなきゃいけないんだろ?」
「こだわっているのはあなたのほうじゃないの?」
「私が?」
「継ぐのが良いことなら継げばいい。継ぐことが良くないなら継がなければいい。いや、違うか。継ぎたいと思えば継げばいい。継ぎたくないなら継がなければいい……だね」
「なんでそんな簡単に言うの?」
「だって私まで悩んでみたってしょうがないじゃないの」
「そりゃ、そうだけど……」
「でも、名前を継ぐって悪いことじゃないよ」
「え? 何が?」
「名前ってさ、親が子供に送る一番最初のものなのさ。『瑠樺』って名前だって、すっごく考えてつけたんだよ。名字も同じことじゃないかな。愛情がなければ名前なんて送らないよ。今の世の中、確かに家を継ぐなんて流行らないことだよ。面倒なものだよ。でもさ、親がいて、おじいちゃん、おばあちゃんがいて、そのさらにご先祖様がいて。そういう人たちの存在を自分のなかに受け入れるってことが名前を継ぐってことなんじゃないかな」
こんな話を美也子から聞くのは初めてのことだった。
「私の名前にはどんな意味があるの?」
「ん? なんだったかなぁ」
「憶えてないの?」
「今度、思い出しておくよ」
それが嘘か本当かはわからない。だが、おかげで力んでいた肩の力が抜けていく気がする。
「私が『和彩』を名乗っても、本当にお母さんは良いと思っているの?」
「何、バカな心配してるの。妖かしの一族だか、和彩の一族だか知らないけどさ、それ以前にあなたは私の娘なんだよ。それは何があっても、なんて名前を名乗ろうと変わりはしないよ」
その言葉を聞いて、心が軽くなる気がする。ずっとこれを聞きたかったのかもしれない。
「ありがと」
「大丈夫だよ。あなたの思いを邪魔するような奴が出てきたら、私が出ていって引っ叩いてやるからね」
それは母、美也子のたくましい笑顔だった。
だが、その直後――
「しっかし、不思議な感じがするね」
マジマジと瑠樺の顔を見つめる。
「何が?」
「普通さ、高校生の娘が母親に相談するのって、恋の相談とかじゃないのかな。それがまさか……一族の血がどうのこうのって……こんな話をするようになろうとはね。ねえ、瑠樺、あなた、付き合っている人とかいないの? 好きな人とかいないの?」
心配するような目で瑠樺を見る。
「お母さん、止めて」
恥ずかしさで心がチクチクしてくる。
「あなた、友達はいるよね。親友って言える人はいるよね?」
「それは……一応」
「妖かし関係以外でだよ」
「……」
瑠樺は聞こえないふりをすることにした。