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瑠樺と千波は、美也子に連れられて工房を出た。
これは後になって千波から聞いてわかったことだが、あの不思議な洋館が現れたあの場所はちょうど山を挟んで裏手にあるのだそうだ。瑠樺が美也子と話をしている間、千波はそこまで行って確認してきたらしい。だが、千波が行った時には、既にあの洋館は姿を消していた。
母は工房の近くにある小さな古民家を借りて暮らしていた。
ずいぶん古いもので、家の前に立った時、その外観を見て思わず呆然としてしまったが、意外と中はしっかりと手入れが行き届いていた。
美也子はその外観も含めてこの古い家を気に入っているようだ。昔からこういう古民家のようなところで暮らすのが夢だったのだそうだ。
驚いたのは美也子が犬を飼っていたことだ。若いメスの柴犬で名前を『サクラ』と言った。同じ工房で陶芸を習っている仲間の家で子犬が生まれたのを貰い受けたそうだ。
昔、美也子は動物を飼うのがあまり好きなように見えなかった。瑠樺が迷い込んできた猫を飼いはじめた時も必要以上に近付こうとはしなかった。
そんな美也子が犬を飼っている。しかも、サクラの懐き方から見るに、きっと溺愛しているに違いない。
「この辺はクマが出るらしいからね。ただのクマ避けだよ」
と、美也子は言った。だが、外に犬小屋が置かれてはいるものの、ほとんど使われた形跡はない。おそらく飼いはじめて間もなく家のなかで暮らすようになったのだろう。きっとクマに襲われたら、美也子はサクラを庇って戦うのではないかと思うほど、サクラを可愛がっているように見えた。
サクラは少し臆病な性格らしく、瑠樺たちにも慣れるまでに少し時間が必要だった。それでも千波は動物への接し方が上手いらしく、すぐに一緒に家の中を駆け回って遊ぶようになった。
瑠樺は、ここ最近、自分に起きたことをどう説明すればいいのかを考えた。だが、美也子は何も聞こうとはしなかった。自分がこちらに来てからの毎日の日常を面白おかしく話して聞かせた。
美也子はわずかだが仙台で看護師をしていた頃よりふっくらしたように見える。昔は見た目も性格もシャープなイメージがあったが、今はそのどちらもが柔らかくなったようだ。
家の裏には畑があって、そこで野菜を作っているらしい。草取りなどの管理はそれなりに大変なことが多いと言いながらも、その口ぶりからは楽しんでいることが伝わってくる。。
美也子は、瑠樺たちのために料理を作ってくれた。久しぶりに食べる美也子の手料理だった。母の作ってくれるジャガイモコロッケは子供の頃から大好きだった。母が今でも自分の好きなものを覚えてくれていることが嬉しかった。
それは瑠樺にとって、久しぶりに母親と過ごす居心地のいい時間だった。
千波も緊張していたのは最初だけで、美也子の大らかな性格にすぐに心を許したようだ。夕方にはサクラと遊び、夕食の後はお風呂に入ってすぐに眠り込んでしまった。
気の強いことを言っている千波でも今日一日、気を張っていたのかもしれない。そういうところはやはり普通の中学生なのだ。
「千波ちゃんは眠ったのかい?」
風呂から出てきた美也子は部屋にやってくると、千波の傍らに座ってその眠っている顔を覗き込んだ。
「疲れたみたい」
「この子も同じ『一族』って言ってたよね? そういえば瑠樺のことを『お嬢様』って呼んでいたわね」
美也子がそっと千波の髪を撫でる。
「止めてって言ったこともあるんだけどね。千波さんはともかく、お姉さんの芽衣子さんは私の先輩なのよ。時々、恥ずかしくなるのよ」
「へぇ、どうして『お嬢様』なの?」
「昔、彼女の一族は二宮に仕えていたんだって」
「昔っていつ頃の話?」
「1200年くらい前だって。坂上田村麻呂の蝦夷征伐の頃」
「はぁ? そんな大昔?」
美也子は呆れ返るように言った。「坂上田村麻呂って……歴史の授業で聞いた以来だね。久しぶりに聞いたよ。しかし、ずいぶん律儀な話だね。『妖かしの一族』って、みんなそうなの?」
「私だってその一族だよ。お父さんだって」
「あら、そうだったね。瑠樺を見てるとそんなこと忘れちゃうよ。『妖かしの一族』だなんて、いかにも物々しい名前、瑠樺には似合わないよ」
「似合う似合わないの問題じゃないでしょ」
「ふぅん、少しはたくましくなったんだね」
「え?」
「良い顔つきになったよ」
美也子はそう言って瑠樺の頬をツンと突いた。
「そ……そお?」
「それとも久しぶりに会ったからそう思うだけかなぁ」と言って笑う。
「お母さんのほうがたくましいよ。まさか、こんなところで暮らしてるなんて思いもしなかった」
瑠樺は改めて家の中を見回して言った。煤で真っ黒になった太い梁が、横たわっているのがハッキリと見える。
「田舎暮らしは私に似合わない?」
「うん……」
昔から、母には都会的なイメージしかなかった。
「実はここはね、昔、私のお爺ちゃんが住んでいた家なんだよ」
「ここが?」
「そうだよ。あなただって3歳の時に一度ここに来てるんだよ」
「ホント?」
まったく記憶になかった。それでもどこか心地よさを感じるのは、記憶のどこかで感覚だけでも覚えているのかもしれない。
「やっぱり憶えていないんだね。ま、そういうものなんだろうね」
「でも、ちょっと懐かしい気はしてた。それに居心地が良いもの」
「そうかい。じゃあ、やっぱりあなたも私の娘ってことなんだろうね」
美也子は少し嬉しそうだった。
「どういうこと?」
「この辺りはね、私たちにとっては神聖な場所。でも、あなたたち『妖かしの一族』にとっては力が押さえられる場所らしいんだ。いや、普通に生活するぶんには何も問題ないらしいんだけど、特別な力を使おうとするとそうなるんだって」
「それじゃーー」
瑠樺は眠っている千波のほうを見た。昼間、治癒力の高いはずの千波の手の傷が瞬時に治らなかったのはそういう理由もあったのか。
「疲れたんだろうね。前に辰巳さんがここに来た時も言っていたよ」
「お父さんが……」
今は亡き父のことを思った。「お母さんは、お父さんのことをどう思っているの?」
「どうって言われてもね。何? お父さんとの愛を語って欲しいの?」
「違うわよ。そんなの娘でも恥ずかしくて聞きたくない」
「じゃあ、何?」
「今更だけど、どうしてお母さんはお父さんについていかなかったの?」
これは前から訊いてみたかったことだ。
「ホント、今更だね」
美也子は笑ってみせたが、それでもーー「ついていってあげたい。手伝ってあげたいって気持ちはあったけどね。でも、私には私の大切なものがあったし、お父さんのやろうとしていることが間違っているとは思わなかったけど、でも、それについていくのが正しいことだとも感じなかった。それにお父さんにはあなたがついていくんだから大丈夫だと思った」
「じゃあ、私のせい?」
「あなたのせいじゃなくて、あなたを信じたの」
「本当かなあ?」
「本当だよ。私は昔からあなたのことを信じてる」
「じゃあ、お父さんが死んで、どうして私に帰ってくるように言わなかったの?」
これもずっと知りたかったことだ。せっかくの機会だ。母があの頃、何を思っていたのか、正直な気持ちを訊いておきたいと思った。
「ん? 言ってほしかったかい?」
「そうじゃないけど」
「言ったからって、あなたは帰ってこなかったんじゃないのかな?」
「まあ……それはそうかもしれないけど」
困ったような顔をする瑠樺を見て、美也子は穏やかに笑った。
「そうだね。それは……お父さんが亡くなった後、あなたが私のところに帰ってこなかったのと同じ理由かな」
「同じ?」
「あなた、お父さんの気持ちを継ぎたいって思っていたんじゃないの? 違う? 私はその気持に応えたいと思ったし、私自身も同じように思った。そのためにはあなたに帰ってこいとは言いたくなかったし、私があなたのところに行くのはもっと違うような気がした。親子だからっていつまでも一緒にいなきゃいけないわけじゃないし、離れることで気持ちが一つになることだってある。違う?」
「ふぅん……そっか」
「やりたいこととやるべきことがいつでも同じとは限らないんだよ。ちょっと寂しい気もするけどね」
母の言うそれは今の自分の姿と同じように思えた。母はそれすらも理解したうえで、自分にそう言ってくれているのかもしれない。
「お母さんに会えて良かった」
「私も久しぶりにあなたに会えて嬉しいよ。せっかく来たんだ。少しくらいゆっくりしていきなよ。せっかくだからお爺ちゃんが生まれたところを見ていったらいい。お爺ちゃんはもっと前はこのさらに奥に住んでいたんだ。明日、案内してあげる」