17
一条の屋敷を出る頃には、既に陽は落ち、街はすっかり暗くなっていた。
暗くなった街を、人通りのない道を、瑠樺はボンヤリと歩いていく。
頭の中の芯の部分が痺れている感じがしている。
立花の話はあまりにも難解だった。そのうちのどれほどが理解出来たのか、それすら自分ではわからない。だが、話の内容以上のものが胸に重く突き刺さっていた。
それこそが『負』の意識だった。
そして、最後に言われた立花の言葉には、言い返すことが出来なかった。
『和彩』を名乗ることで皆を救えるのなら、と考えていたのも事実だ。そして、一族のはじまりを聞いて迷ったことも。何よりも、呉明沙羅の生まれを考えると、どうしても心が揺さぶられてしまう。あまりに悲しい運命だと感じてしまう。
一条の屋敷を出る時、美月あやのが見送ってくれた。
瑠樺はあやのに問いかけた。
「あやのさんは当主になったんですよね。あやのさんはあの話を聞いて迷わなかったんですか?」
その質問に、あやのは小さく首を振ってから答えた。
「それには答えられないよ。その答えは、瑠樺ちゃん、あなたが自分で出さなきゃいけないことなんだからね」
あやのの言うとおりだ。
それは自分でもちゃんとわかっていたはずだ。それにも関わらず、立花の話を聞いて改めて迷いが生まれた。
『魔化』が恐ろしい存在であることは理解しているつもりだ。春影が妖夢になったこと、矢塚が『堕ち神』と化したこと。これらが『魔化』の影響を受けた結果だというのなら、『魔化』に対抗しなければいけないことも理解出来る。
しかし、その誕生の原因は彼ら本人にあるわけではないように思えてしまう。
自分の優柔不断がなんとも恨めしい。
だが、一族の歴史を知り、『和彩の一族』が正しいと思うことが出来なくなっている。
空を見上げ、大きく息を吸い込む。少しひんやりとした空気が身体に満たされる。
その時、一つの人影が瑠樺の前に立った。
「おやぁ、そこにいるのは二宮瑠樺さんじゃありませんか」
* * *
その姿が目に入った瞬間、その声が耳に届いた瞬間――
全身に鳥肌が立つような恐怖を感じた。
以前、『妖かしの一族』としての覚醒もしていない頃、瑠樺は『妖夢』と呼ばれる妖かしに襲われたことがある。死を覚悟するような恐怖を生まれて初めて感じた。あの時は、雅緋によって救われた。
だが、今、目の前の存在は、それとは比較出来ないほどに強大な力を持っている。
それは禍々しい、漆黒の闇に思えた。
瞬時に身体はその気に反応しようとした。それなのに、まるで見えない何かに押さえつけられるかのように身体が動かない。
息をするのさえもが辛い。
「こんにちは。瑠樺さん」
その少女は首を傾げニッコリと微笑んでみせる。だが、その顔はとても笑顔といえるものではなかった。切れ長のその黒い瞳が獲物を狙うかのように瑠樺を見つめている。
「あなたは……伽音さん?」
ふいに口からその名前が出た。それを聞き、彼女は少し驚いたようだ。
「そうです。私は伽音です」
軽い足取りで伽音は瑠樺のほうへと近づいてくる。それに合わせて自分の身体がグラグラと揺れる気がする。
「……これは……」
「どうされました? 具合でも悪いですか? 申し訳ありません。つまり、あなたはそれだけ私を強く感じているということです。力の強い人ほどそうなってしまうようなのです」
瑠樺はグッと足に力を込めた。そうしなければ今にも崩れ落ちてしまうような気がした。
「あなたは……いったい」
「お久しぶりです。嬉しいです。私を覚えていてくれたんですね……と言ってもせいぜい名前くらいでしょうか。どうしてなのか不思議なのですが、皆、私のことはすぐに忘れてしまうのですよ。寂しいことです」
「いいえ……あなたのことは覚えています。いえ、思い出したって言ったほうが正しいですね」
瑠樺は、自分が彼女を忘れていたことを思い出していた。彼女とは以前に会ったことがある。だが、すぐにその記憶が消えていた。
――樽一杯のワインに一滴の泥水を入れればそれは樽一杯の泥水になるが、樽一杯の泥水にワインを一滴入れてもそれは樽一杯の泥水である
あれはこの伽音の言葉だ。
矢塚が山に結界を張る少し前、矢塚に会いに行く途中で彼女には会っている。
ここ最近、ずっと記憶していたのに思い出せなかったのは、まさに彼女の存在だ。しかし、以前、会ったときはこんな力は感じなかった。不思議な少女だとは感じていたが、彼女が何者なのかもわからないまま別れていた。
「憶えていてくれたなんて、それは嬉しいです」
伽音は不気味な笑みを浮かべた。「私もまたあなたに会いたいと思っていたのです」
「どうして?」
「仲良くなりたいからじゃありませんか。私とあなた、いえ、あなたの一族とはかつて一つの一族だったのですから」
「同じ一族?」
「そうです。あなたは私のことを、私の一族のことを誰かから聞かされたのではないのですか?」
伽音はそう言って、瑠樺の顔を覗き込んだ。
「それじゃ、あなたが『摩化』なの?」
「正確には違います。でも、基本は同じものです。私は『魔化』で、『魔化』は私といえます。私はたまたま生命を与えられ、人の姿をもらえただけなのです」
「あなたは何が目的なの?」
「おや? おもしろいことを言われますね。私が何をしたというのですか? 私はただ生きているだけですよ」
「でも、あなたが皆に悪影響をーー」
「それはいいがかりというものですよ。私の存在に影響を受けるかどうか、それはあなたたちの問題じゃありませんか。あなたたちこそ、これからどうするおつもりですか? 私を殺しますか? 殺せますか?」
「あなたが矢塚さんやふみのさんを死に追いやったのでしょう?」
「それは違うのではありませんか。矢塚冬陽を殺したのは、あなたのお友達の音無雅緋です。美月ふみのを殺したのは矢塚冬陽。それはあなただってよくわかっているはずでしょう。責任を人に押し付けるのはよくありませんよ」
「あなたがそういうふうに仕向けたんじゃないの?」
「仕向ける? バカなことを言ってはいけません。人は誰でも自分の意思で自分の行動を決めるものです。私が彼らに何をしたというのですか? 私は何もしていませんよ」
「草薙君はどこにいるの?」
さっき、彼女は『命を与えられた』と言った。それはきっと草薙響が関わっているに違いない。
「今度は彼の心配ですか? あなたは面白い人ですね。彼がどういう存在なのかはもう知っているのではありませんか? そのためにあなたはどちらかに行ってらっしゃったのでしょう? そして、きっと彼らの誰かに会った。違いますか? それでも彼のことを心配するのですか? 彼はただの人形ですよ?」
「彼は私の友人です。人形なんかじゃありません」
「ほうほうほう。そうですかぁ。素晴らしいですねぇ。やはり『和彩』の方は情におあつい。彼のことなら心配いりません。あなたにとって彼が人間であったとしても、実際は違います。彼に形などありません。彼は今でもちゃんと『生命』として存在していますよ。私という存在の中にね」
「あなたの中? あなたは彼を取り込んだの?」
「おやおや、彼がどのような存在なのかを知っているのだから、彼が何のために私のところへやってきたのかも知っているはずでしょう。私は、それを企てた人たちの策にのってあげたのですよ。それをやったのが矢塚さんですよ。あなたの信頼していた矢塚冬陽さんです。喜んでいただきたいですね」
「ふざけないで」
彼女を見ていると、心の中に怒りが自然と湧いてくる。
「おやおや、怒りましたか?」
彼女が動くたび、彼女が口をひらくたび、これまで感じたことがないほどの圧力が身体にのしかかってくる。
ついに耐えきれなくなり、ガクリと膝をつく。
それを見て、伽音がそっと顔を近づける。
「辛そうですね。大丈夫ですかぁ」
伽音の右手がそっと瑠樺の頬を撫でる。その指はゾクリとするほどに冷たかった。
「瑠樺さんに触らないで」
その声が空気を震わせる。
* * *
その声に瑠樺は振り返った。
そこに立っていたのは音無雅緋だった。
雅緋の怒りの目が伽音へと向けられている。ほんのわずかな時間、二人は睨み合った。二人の間に強い妖気が渦巻いている。そして、雅緋が一歩踏み出した。
目の前にいる伽音の強い妖気に押されることもなく、ずんずんと近づいてくる。
それを見て、伽音の顔からあの不気味な笑みが消えた。
さらに雅緋が近づいてくる。
伽音がピョンと後ろに大きく飛び退いた。クルリと宙を舞い、ブロック塀の上へとフワリと降りる。
「良い目ですね。憎しみの目ですね。そういうの、私、大好きですよ」
「黙りなさい」
鋭い声が伽音に向けて発せられる。まるでそれを受けるかのように、再び伽音の顔に笑みが戻る。彼女は視線を瑠樺のほうへ向けるとーー
「二宮さま、さようなら。またお会いしましょう」
そう言って手を振った。そして、闇のなかへと消えていった。
瑠樺を押さえつけていた力がフッと消える。
心を占めていた恐怖から解かれ、瑠樺は思わず倒れそうになった。
あれと戦わなければいけないのだ。
いつまでも身体の震えが止まらない。
「瑠樺さん、大丈夫?」
駆け寄ってきた雅緋が瑠樺の身体を支えてくれる。
その雅緋の顔を、瑠樺は見上げた。
「どうして雅緋さんがここに?」
「さあ、どうしてかしらね。呼ばれたような気がしたのよ。でも、来て良かったわ」
「え?」
「あいつなのね」
雅緋の目に妖しい光が宿っている。その憎悪に満ちた瞳に、瑠樺は再び恐怖を感じた。
ふみのが死に、矢塚を殺し、そして、真実の敵を見つけた。雅緋はきっと彼女を殺そうとするだろう。
一瞬、雅緋の姿が狼に見えた。
(今のは?)
そんなことを考えている余裕はなかった。
雅緋がすっくと立ち上がる。
「待って」
行かせてはいけない。追えば彼女が不幸になる。本能的にそれを感じた。
雅緋の身体が離れていく。
その背が遠くなる。
了
読み続けていただいている皆様、長々続いてしまって申し訳ありません。次章で完結いたします。




