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あれは、いつもの雅緋ではなかった。
やはり追いかけたほうが良かったのかもしれない。
今からでも雅緋のことを捜したい思いもあったが、そう簡単に見つかるとは思えなかった。見つけることが出来たとしても、彼女のために何をしてあげればいいのかわからない。しかも、彼女の中には呉明沙羅がいて、彼女の力は『妖かしの一族』である瑠樺を遥かに越えている。
彼女はきっと、何か目的を持って動いているのだろう。そして、それは美月ふみのの死につながっているに決まっている。しかし、ふみのを殺害した矢塚はすでに雅緋の手によって殺されている。それなのになぜ?
――私は矢塚さんを信じるよ。
母の言葉が思い出される。
もし、ふみのを殺したのが他にいたとしたら? いや、矢塚がやっていたのは、『西ノ宮』の指示を受けた春影と共にやっていたことだ。
雅緋がそれに気づいたのだとしたら? 彼女はそれを仕方がないこととして、受け入れることが出来るだろうか。
ふと、雅緋のことを思い、あることに気がついた。
さっき、沙羅の気を感じただろうか。
雅緋が妖かしの力を仕えるのは、呉明沙羅の霊体を身体に宿しているからだ。そのため力を使う時には沙羅の気を感じた。だが、さっきはどうだったろう。
沙羅の気を感じなかったのではないだろうか。
(どういうこと?)
何かが雅緋の中で起きている気がする。
雅緋のことは気になったが、それでも瑠樺は一度、一条家に向かうことにした。
母のところで聞いた話を確認したいと思ったからだ。もちろん一条春影に聞くことは出来ないだろう。春影はずっと意識が戻っていないし、戻っていたとしてもあのケガではまともに話が出来るとは限らない。
話が聞くことが出来るとすれば、その右腕である栢野出石か、斑目秀峰のどちらかだろう。
彼らが全ての事情を知っているかどうかはわからない。
一条の屋敷を訪ねると、すぐに出てきたのは栢野出石の娘である綾女だった。
ミリタリー服を着た綾女は早足で瑠樺に近づくとーー
「今朝、春影さまの意識が戻りました」
と言った。そのせいか綾女の表情が今日は明るく見える。
「良かった。それで春影さまのご容態は?」
「まだ少し意識が朦朧としているようです。生きているのが不思議なほどの傷でしたから。それでももう生命の心配はないって医者が言っていました」
「良かった」
瑠樺は胸を撫で下ろした。「本当に良かったですね」
「はい、私たちもホッとしているところです。時間はかかるかもしれませんけど、きっと前のように元気になってくれると信じています。二宮さんにもご心配いただき、ありがとうございます」
今日の綾女はよく喋る。それだけ春影の意識が戻ったことが嬉しいのだろう。
「私は何も」
すると綾女は突然、瑠樺の手を握りしめた。
「私、子供の頃、母を亡くしているんです」
「え?」
突然の綾女の告白に瑠樺は戸惑った。
「私の母も術者でした。務めの中、妖かし相手に遅れをとって命を落としました。二宮さんはご存じないと思いますが、高校を卒業するまで、私は一条様のもとで暮らしてきました。ずっと春影さまを母のように思ってきました。だから……あなたがちょっと羨ましくて」
「私ですか?」
「大学を卒業して帰ってきたら、春影さまはあなたをすごく信頼していて……私は居場所がなくなったように感じてしまったんです。ただのつまらない嫉妬でした」
「どうして、それを私に?」
「すいません。春影さまの命が助かったことがつい嬉しくて。二宮さんにも聞いてほしくなってしまいました。急にこんな話されても困りますよね」
「いえ、話してもらえて嬉しいです」
「これからはもっと素直になりたいです。もう春影さまに心配かけないようにしなくちゃ。でも、本当に良かった」
綾女は涙ぐみながら言った。
その姿を見て、春影が命を落とさずに良かった。改めて心からそう思う。
「陰陽師の術でも傷を治せるものがあるそうですね」
「ええ、しかし、多く使ったからといって傷が早く治るわけではありません。むしろ術で強引に治癒力を引き出そうとすることで、体力を奪うことになりかねません。術を使うには注意が必要なんです」
「そうでしたか。春影さま、今は?」
「たぶん眠られてると思います。今、見てきましょう」
「いえ、その必要はありません。また明日にでもお伺いします」
「え?」
帰ろうとして背を向けた瑠樺に綾女が声をかける。「お会いしないのですか?」
その言葉にはむしろ瑠樺のほうが驚いた。
「まだ会える状況ではないでしょう?」
と振り返りながら答える。
「いえ、確かにそんな状態ではないのですが……実は、春影さまは目を覚ましてすぐに瑠樺さんの名前を呼ばれていました」
その視線が妙に落ち着かないことに瑠樺は気づいた。さっきから瑠樺のバッグのゆるキャラのマスコットへチラチラと動いている。瑠樺は少し気恥ずかしい気持ちになった。イマドキ、こんなものをいくつもぶら下げていることが綾女の目には奇妙に見えるのかもしれない。
「私を?」
「何か話したいことがあるようです。きっと矢塚さんのことじゃないでしょうか?」
そう言いながらも、さっきからずっと綾女の視線はマスコットに向けられている。その目は決して瑠樺を見下しているようなものではない。
(ひょっとして……)
どちらかというと興味を持っているのだろうか。
「今、春影さまは?」
「え? あ、少々お待ちください。確認してきます」
綾女は慌てたように背を向けた。
「あ、あの……綾女さん?」
「何でしょう?」と綾女が振り返る。
「母が無理やりお土産代わりにと買ってよこしたんですが、こういうのはお嫌いですか?」
瑠樺は恐る恐る、綾女に訊いてみた。途端に綾女の目がパッと輝く。
「いただけるのですか?」
「綾女さんがもらってくれるなら」
「もちろんです。ありがとうございます」
少し頬が紅潮しているようにも見える。こんな綾女を見るのは初めてだ。ウキウキした足取りでマスコットを一つ手にして綾女が奥へ去っていく。
(見かけによらないな)
同じマスコットで色違いのものが残っていることに瑠樺は気がついた。もう一方を蓮華芽衣子にお土産として渡したらどうだろう? 蓮華がどんな反応を見せるか、それが楽しみに思えた。ひょっとしたらそれを機に、二人はさらに仲良くなれるかもしれない。
それから5分もしないうちに再び綾女は現れた。
「ちょうど今、目を覚まされました。瑠樺さんの気を感じ取ったのかもしれませんね。瑠樺さんが来られていることを話したらぜひ会いたいそうです」
綾女に案内され、瑠樺は奥の院のさらに奥へと向かった。
寝所まで入るのは初めてのことだ。
襖の向こうに、座敷の真ん中に真っ白な布団が敷かれ、そこに包帯を巻いた春影の姿があった。いや、正確に言えば、見た目でそれが春影かどうかの判断はつかなかった。顔にも腕にも、全身に包帯が巻かれている。肌が見えているところがほとんどない。包帯の中に目だけが弱々しい光を持って見えている。
それはあまりにも痛々しい姿だった。矢塚が妖かしと化した『フタクビ』の牙によって全身をズタズタに噛み切られていたのだ。生きていることすら奇跡なのだ。
「何かあれば呼んでください」
綾女は瑠樺を残して襖を閉めた。
「る……か……さん」
瑠樺が脇に座るのを見て、春影が身体を起こそうとする。それを瑠樺は慌てて止めた。
「無理はいけません」
「すい……ま……せん……ね」
喉にも傷を受けているのだろう。声にまったく力が出ていない。いや、むしろ声が出るだけでも驚きだ。
「わたし……あなた……に……あやまらないと……」
「そんなこと言わないでください」
「わたし……は……知って……いたのです。や……矢塚の……していたこと……いえ、わたしが……たのんだ……ような……ものです」
「春影さま、無理をしてはダメです」
瑠樺は春影が喋ろうとするのを止めようとした。
だが、春影はさらに続けた。
「矢塚は……もう……人としての心が……奪われて…いました。だから……あれは、矢塚……ではない。矢塚……だと……思わないで……あげて」
その目に涙が浮かぶ。
春影と矢塚、そして、瑠樺の父は幼馴染であるという話を聞いたことがある。春影にとって、矢塚は誰よりも信頼出来る相手だったはずだ。その矢塚の最後の姿が、あの妖かしとしての姿とは思いたくないのかもしれない。
その気持は瑠樺にも痛いほどよくわかった。
「春影さま、私、朱雀の家の方に会ってきました。会ってお話を聞かせてもらいました。もう心配しないでください。大丈夫です」
それを聞いた春影の目が少し安堵の光を帯びたように見える。きっとずっと瑠樺に秘密にしていたことに罪の意識を持ち続けていたのかもしれない。今は目元しか見えていないが、それでも以前よりも春影の感情がちゃんと伝わってくる気がする。
「ありが……とう」
「お嬢さんの八千流さんにもお会いしました」
「大き……く……なった……で……しょうね」
一瞬、それにはどう答えていいか迷った。20才になってあの小柄な身体の八千流を、大きくなったと言うのはむしろ嫌味になるのではないだろうか。
瑠樺は言葉を捜した。
「立派な方ですね」
これなら嘘にはならないだろう。少し捻くれて見えるところはあるが、それはさっき綾女が言っていた感情と似てるのではないだろうか。ずっと母の元を離れて修行を続けている八千流にとって、当たり前のように春影の身の回りにいる瑠樺たちのような『妖かしの一族』を面白くないと思うのも仕方がない。今回のことでも、少しでも早く母の元に帰りたいと思っているに違いない。
それに春影はそっと微笑んで返した。
「早く元気になってください。あとのことは任せてください」
瑠樺の言葉に、春影はわずかに頷いたように見えた。
草薙響がここにいてくれたらと、つい思ってしまう。彼の生命の力があれば、春影の治りももっと早いかもしれない。