12
昼前、朱雀火輪たちと別れた後、瑠樺は千波と一緒に母の美也子の住む家へ戻った。
火輪たちの話について、千波は何も口にしようとはしなかった。難しい話だから、というよりも瑠樺のことを心から信じているからの行動のように思えた。この信頼に応えなければいけない気がした。
家に戻ってすぐ、あやのから電話があった。
瑠樺はすぐに雅緋のことを訊ねた。彼女に何かあったのではないかと心配したからだ。
だが、あやのは、雅緋がまだ眠り続けていると話した。同時にあやのは一条春影の意識がまだ戻らないことも教えてくれた。
もともと母を見つけたらすぐに帰るつもりだったが、あやのから「今急いで帰ってきても何もすることはないよ。少しくらいのんびりしてきなさい」と言われ、もう一泊することに決めた。
どうやら、あやのの口ぶりから察するに、もともと母の失踪に朱雀火輪が関わっていることも気づいていたようだ。ひょっとしたら彼女はもっといろいろな事情を知っているのかもしれない。やはりそこは『騙し神』といったところなのだろう。
結局、その日の午後、瑠樺は美也子と共に過ごすことにした。
美也子と一緒に工房へ行き、陶芸を教えてもらって土をこねた。いつか雅緋がもらってくれるといいなと思いながら、歪んだ小さな湯のみ茶碗を二つ作った。焼いたら送ってあげる、と美也子は約束してくれた。
夕方になってからは一緒にキッチンに立って料理を作った。それは『妖かしの一族』のことを忘れて過ごす楽しい時間だった。
一方、千波は、陶芸には興味がないと工房へは行かず、サクラを連れて外に遊びに行った。帰ってきた時、いったい何をしてきたのだろうと驚くほど、千波とサクラは頭から足の先までみごとなまでに泥だらけになっていた。
美也子は呆気に取られながらもーー
「しょうがない子だねぇ」
と笑って、千波を着替えさせてくれた。そんな美也子を見て、瑠樺はホッとしていた。
母のもとを離れ、陸奥へ引っ越してからはいろいろなことがあった。父を亡くし、自らも『妖かしの一族』として一条家に仕えることになった。『妖夢』に襲われたこともあった。『妖かしの一族』として覚醒もした。それまでの生活全てが変わってしまったように思えた。だが、変わらないものがここにある。
大好きな母が、以前と変わらない母としてここにいてくれる。
それが何よりも嬉しかった。
* * *
瑠樺は翌日の朝、母の元を後にした。
もっと母と話をしたいと思う気持ちがないわけではない。
それでも、今は早く帰るべきだと思った。
朝、気になっていたあの言葉について母に訊ねた。
「樽一杯のワインに一滴の泥水を入れればそれは樽一杯の泥水になるが、樽一杯の泥水にワインを一滴入れてもそれは樽一杯の泥水である……って知ってる?」
「聞いたことはあるね。それがどうかしたの?」
瑠樺の帰る準備を手伝いながら、美也子は答えた。
「誰かから聞いた気がするんだけど、それが思い出せないの」
「ふぅん、それで?」
「この言葉ってどう思う?」
「どうって……そのままの意味なんだろうね」
「それだけ?」
「それってきっと人を例えたものなんだろうね。昔、学園ドラマに『腐ったミカン』なんて言葉があったんだけど、そういう意味合いなのかな。でも、人は泥でもワインでもミカンでもないんだよ。人が醜く見えることもあるし、自分が醜く見えることもある。でも、それが人の全てってわけじゃない。だから、そんな言葉に惑わされる必要はないと思うよ」
「そう……かな」
どこかスッキリしない。そもそも、その言葉をどこで聞いたのか、どうして気になるのかがわからない。
「しっかし、あなたはお父さんに似てきたね。そんな言葉の一つ一つを気にして」
「お父さんってそういう人だった?」
「そうだよ。結構、面倒くさかったんだよ。世の中、そんなに言葉一つで何かが変わるわけじゃないよ。そういうときは笑って終わらせてしまえばいいんだよ」
そう言って、美也子は瑠樺の背中をパンと平手で強く叩いた。
それは割合に強い衝撃ではあったが、むしろそれが迷いを振り切るような心地よさがあった。
千波は最後までサクラと別れるのを寂しがっていたが、美也子から「また夏休みになったら遊びにおいで」と言われ、満面の笑顔を見せた。
少しだけ気になったのはサクラの表情だ。先日、会ったばかりの時にはずいぶんビクビクしていて臆病な性格に見えたが、それが今はノビノビとしている。これはただ瑠樺たちに慣れたというだけではないように思える。母に対して甘えるところは相変わらずだが、どこか顔つきが精悍になったような気がする。
以前、『蓮華の一族』が妖かしとなったいきさつを芽衣子から聞いたことがある。
――『妖かしの一族』の妖力の影響で妖かしの力を持つ者もいるんです。私たちの先祖はそういう事情で妖かしになったのです。
まさかとは思うが、千波の妖力の影響をサクラが受けたなどということはあるのだろうか。だが、今のサクラならばクマ相手にでも十分戦えそうな印象を受ける。
帰る時、美也子は駅まで二人を送ってくれた。売店で勝手にご当地キャラのマスコットをいくつも買いこんで、瑠樺と千波のバッグにとりつけた。シラサギの卵をモチーフにしたもの、灯台をゆるキャラにしたもの、さまざまなマスコットがバッグに揺れることになった。
千波も姉の芽衣子への土産といって、一つのマスコットを購入した。それはカラフルな色のダルマのゆるキャラだった。だが、それはどこからどう見ても可愛いと思えるものではなかった。
それを千波に訊いてみるとーー
「いえいえ、私、そんなに趣味悪くないです。全然かわいく思いませんよ」
「蓮華さんはこういうの好きだったかしら?」
「まさか。だからお姉に買っていくんです」
と千波は笑って言った。「お姉はあれで義理がたいので、私のお土産を無下にするは出来ないでしょ。こんなかわいくないものを普段から身につけなきゃいけないなんて……想像しただけで笑えるじゃありませんか」
これでいてお互いが信頼しあっているのだから、いつもながらに不思議な姉妹愛だと思う。
新幹線の中、瑠樺はずっと考えていた。
六花に会わなければいけない。会って一族のことをもっと知らなければいけない。
『和彩』を名乗るために。その力を継ぐために。
* * *
千波は新幹線の中ではずっと眠り込んでいた。
乗り換えの時に一時的にでも起こすのが大変だったほどだ。きっと疲れたのだろう。彼女も一条家の者以外で『西ノ宮』の人間と会うのは初めての経験だったはずだ。
それでも、サクラと遊んだせいか、その寝顔はどこか幸せそうだった。
そんな千波を残して、そっと席を離れて後ろの車両へと向かう。
その存在に気づいたのは、母の工房を出てからだった。常に一定の距離を保ち、こちらに見つかるか見つからないかのところでこちらを伺っていた。最初は何者かわからなかったが、チラリと見えた赤い和傘がその正体をハッキリと示していた。
一つ後ろの車両、その一番うしろの席までやってくると、その窓際の席に座った女性に瑠樺は声をかけた。
「こんなところで何をしてるんですか?」
それは隼音怜羅だった。
彼女は『詩季の一族』とアイヌの血を受けており、その二つの一族の技を受け継いでいる。
瑠樺は気づかないふりをして窓の外を眺めている怜羅の横に座った。
「あら、瑠樺さん。偶然ですわね」
「偶然? どこが偶然なんですか? 気づいていないとでも思っているんですか?」
怜羅はそれでも首を傾げーー
「何のことです?」と惚けてみせる。
「ひょっとして、あやのさんに頼まれました? 私たちの護衛のつもりですか?」
「いえいえ、私は旅行を楽しんでいるだけですわ」
そう言いながら缶ビールをプシュリと開ける。既に飲み干したらしい空き缶がすでに2本ほど並んでいる。確かに楽しんでいることは間違いないようだ。
「そうですか。でも、人に気付かれないようにするなら、その格好はやめたほうがいいですよ」
いつもの淡い紫色の着物に赤い和傘では、目立つのが当然だ。
「何か勘違いされているみたいですね。どこかで似たような人でも見かけましたか?」
「見間違いって言うんですか?」
「何のことだか」
「そうですか。まあ、いいです。でも、お礼だけは言っておきます」
「お気にせず。瑠樺さんはゆっくり出来ましたか?」
「おかげさまで。そのぶん怜羅さんは忙しかったんじゃありませんか?」
「いえいえ、私ものんびり過ごさせていただきましたよ。いろいろ刺激的でとても楽しゅうございました」
フフフと怜羅は口を押さえて笑う。本当に楽しそうだ。
(刺激的?)
瑠樺の見えないところで何をしていたのか、それを考えると少し怖いような気もする。
「怜羅さんはどこまで知っているんですか?」
「どこまでとは?」
「一族のことですよ。矢塚さんのこと、春影さまのこと、それと『西ノ宮』とのこと」
「私は何も存じません」
怜羅はサラリと答えた。そして、サキイカをその細い指先でつまみながらビールを美味しそうにコクコクと飲む。
「立花の一族からは聞いていないんですか?」
「いいえ、何も」
「本当ですか? 怜羅さんはそれでいいんですか?」
「ええ、そもそもあまり興味はありませんから」
「興味がない? それって戦うことにしか興味がないっていう『詩季』の考え方ですか?」
「少し違いますわね。私はただ単に、自分が大切に思うことにしか興味が無いんです。だから、世界がどうだとか、一族がどうだとか、『魔化』がどうだとか……そんなこと考えるのが面倒くさいだけでしょう。私はただ、目の前のやりたいと思うことだけに集中したいのです」
「でも、詳しい事情がわからないまま、戦うことは出来るんですか?」
「出来ますわよ。人を見れば、信じていい相手かどうかは自然とわかります。信じられない相手、敵だと感じた相手は遠慮なくぶっ飛ばせばいいんです」
相変わらずしとやかなのか粗暴なのかわからない人だ。
「それが出来るなら、私も一番良いと思いますけど」
「なら、瑠樺さんも出来ますわよ」
「そんな簡単に」
「簡単ですわ。ほんのちょっと正直になればいいだけですわ。そして、ほんのちょっと周りにいる仲間を信頼すればいいんです。あまり一人で悩まれるべきではありませんわ」
「怜羅さん……」
その怜羅の言葉がありがたかった。そんな瑠樺の前で、怜羅はまたビールを飲んでから、ぷはぁっと息を吐き出した。とても酒臭い。
「そろそろ戻られたほうがいいですわ。でないと、また千波さんが心配して暴れますわよ」
怜羅は意味深に微笑んでみせた。おそらくは朱雀火輪を相手に暴れようとした時のことを言っているのだろう。いったい何をどこまで知っているのか、なかなかに正体がつかめない人だ。
瑠樺は腰をあげた。
「そういえば父の葬儀に来ていただいたそうですね」
「葬儀? それはいつのことです?」
「2年前です」
「はあ……そんなことあったでしょうか?」
「母とお酒を呑んだと聞きましたけど」
「あぁ、きっとお酒が飲める場所を捜してたんですわ。たまたまそれが瑠樺さんのお父様のご葬儀だったのかも」
そう言ってホホホと笑う。きっと冗談のつもりなのだろうが、怜羅が言うと本気に聞こえてしまう。