10
「あなたたちのことを教えてもらえますか?」
歩きながら、瑠樺は火輪に問いかけた。
「私の知っていることなら。何が聞きたいですか?」
「私はあなたたち『西ノ宮』……あ、いえーー」
「構いません。あなた方の呼び名、決して嫌いではありませんよ。皆、客観的に物を見ようとしながらも、結局は自分の目線で物を見るものです。我々にとっての『宮家』はあなたたちにとっては『西ノ宮』。間違っていませんよ」
「皆さんは私たちをどう呼んでいるんですか?」
「人によってさまざまです。『陸奥の一族』、『陸奥の妖かし』、今でも大変失礼ながら『蝦夷』と呼ぶものもいますね。しかし、皆さんの呼び名を真似て、これからは『東ノ宮』とか言うのもいいかもしれませんね」
「敵意を持っている方もいるのでしょうか?」
「否定は出来ません。しかし、面白いのは、相手を知らない者のほうが相手を悪く言うものです。皆さんに対して敵意を持っている者の多くは、実は皆さんのことをよく知らないのです」
それを聞いて、瑠樺は少し恥ずかしい気持ちになった。『西ノ宮』、その言葉は瑠樺にとってまさに得体の知れない敵だったのだ。
だが、一方で今でも簡単に警戒を解いてはいけない気もしている。
「あなたたちは敵ではないと?」
「それは私の言葉で判断するものではありません。あなたの目で見て、自分で判断していただかなければいけません」
そう言って、火輪は何かを気にするかのように言葉を切った。
その時、一陣の風が吹いた。
次の瞬間、目の前に千波が現れた。そして、迷うことなくすぐさま目の前の火輪に向かって蹴りをくりだす。
その動きは素早く、瑠樺が止める間もなかった。だが、その千波の攻撃は当たらなかった。火輪は決して慌てることもなく、千波の動きをすべて予測していたように八千流を庇いながらヒラリと簡単に身を躱す。
一方の千波も、放った蹴りを躱されながらも体勢を崩すことなく、クルリと回って瑠樺の前に着地してすぐに次の動きへ繋げられるように身構える。
「お嬢様、大丈夫ですか? 遅くなって申し訳ありません」
その目は火輪の姿を捕らえたまま、背後の瑠樺に声をかける。
「千波さん、大丈夫です。この人たちは敵じゃありません」
「しかし、この人たちからは昨日の気と同じものを感じます」
かかってくる相手を倒すだけ、と話していた千波だったが、ちゃんと相手の気を感じとっているようだ。
「ええ、確かに昨日の術はこの人達のものです。でも、少なくてもここでは大丈夫です」
「わかりました」
そう言って千波は素直に身構えた手をゆっくりと降ろした。「お嬢様、一人で出かけてしまうなんて酷いじゃありませんか。起きたら誰もいなくて驚きました」
「ごめんなさいね。千波さん、ぐっすり寝ていたようだから。起こしちゃいけないと思って」
「で、この人たちは?」
と、再び千波は火輪たちに鋭い視線を向ける。
「なかなかの腕ですね。驚きましたよ」
そう言うものの、火輪はまったく動じていないようだ。その腕の中で八千流が険しい表情で千波を睨んでいる。
そして、火輪は改めて千波に向けて名乗った。
その名前には千波も驚いたようだ。そして、次に八千流のほうへ視線を向けーー
「それで、このちっちゃい子は誰です?」
八千流の顔が真っ赤に変わった。
* * *
瑠樺と火輪が前を、少し遅れて千波と八千流が並んで歩く。
千波と八千流との距離感が微妙だが、これはなんともしようがない。そっとしておくほかはないだろう。
火輪はチラリと後ろを歩く二人のほうへ視線を走らせてから、改めて隣を歩く瑠樺に声をかけた。
「では、先ほどの続きにしましょう。他に何か聞きたいことは?」
「今、そちらでは何が起きているんですか? 春影さまはあなたたちに協力していたんですか?」
「これはあなたもご存知かもしれませんが、『宮家陰陽寮』では白虎、青龍、玄武、そして我ら朱雀の家の四家によって頭領を務めさせていただいています。今、我らの中で頭領を務めているのは青龍家の当主です。よって、朱雀の家の我々にも詳しいことは聞かせてもらってはいません。あなたたちの件は我々の間でも極秘事項でしてね。その件については、頭領となる人間のみに言い継がれており口外してはいけないことになっているのです。ですから、私たちも大まかなことは知っていても、詳細は知らないと答えておきましょう。一条様はその宮家に仕える身、古くから宮家の指示を受けて動いています。ただ、一条様がどこまで知ったうえで動いていたかは私にもわかりません」
「では、草薙響君のことは知ってますか?」
「ええ、少しなら」
やはり草薙は『西ノ宮』と関わりがあったのだ。
「教えてください。彼は何者ですか? 彼の持つあの力は?」
「それに答える前に申し上げておきますが、その答えはあなたにとって満足させるものではないでしょう」
「何か嫌な話しですか?」
その一瞬でいろいろな可能性を頭に思い浮かべる。
「簡単に言うとですね、そのような人間はおりません」
「いない? 名前が違うとか?」
「いいえ、名前どころか彼は人間ではない。人形なのです」
「人形?」
その言葉に瑠樺は思わず足を止めた。「どういうことですか?」
「詳しいことは作った人間に聞いたほうがいいでしょう」
そう言った火輪の目線が少し先に見える民家へと向けられている。雑木林の手前に古い小さな民家が一つ、ポツンと建っている。それはどこかこの場所に不似合いで、不自然なものに見えた。
突然、ハッとしたように千波が瑠樺の前に飛び出して身構える。
「どうしたの?」
「妖かしの気を感じます。あの家に何者か妖かしの者がいます」
民家の異様さに気を取られて気づくのが遅れたが、言われてみれば確かに微かに妖かしの気を感じる。
「さすがですね」
どこか嬉しそうに火輪は言った。「しかし、それも心配しなくても大丈夫です。さあ、行きましょう」
そう言って、再び前をスタスタと歩いていく。八千流も黙ってその後に続いていく。その後ろ姿を見て、瑠樺は千波に声をかけた。
「千波さん、行きましょう」
瑠樺の言葉に、千波も素直に構えを解いた。そして、瑠樺とともに火輪たちの後に続く。
その民家の前まで行くと、そこが異様な空間になっていることに瑠樺は気づいた。
「これは?」
「わかりますか? この家だけ別の場所と繋がっているんです」と火輪が説明する。
「別の場所?」
「京にある私の屋敷裏ですよ。最初は本人を連れてこようかと思っていたのですが、少し体調を悪くしていたのでね」
周囲と不似合いに思えたのはそのせいか。
「本人? 誰のことです?」
火輪はそれに軽く頷いて、玄関口に向かって声をかける。
「凛さん」
すぐにカラカラと軽い音と共に引き戸が開いて、細面の青白い顔をした若い男が姿を現した。その姿は職人のような紺色の作務衣の上に同色の陣羽織を羽織っている。
もともと瑠樺たちが来るのをわかっていたように、落ち着いた表情で頭を下げる。
「二宮瑠樺さんですね、私は呉明凛憧です」
「呉明ってーー」
「ええ、そうです。それについて説明しましょう。まずはお入りください」
瑠樺たちは、促されるまま家にあがることにした。
座敷に通され、千波は落ち着かない感じで周囲を見回す。それは瑠樺も同じだった。その座敷の周囲には、顔のない単純なマネキンのようなものから、まるで生きている人間のように細部まで細かく作られているものまで、何体もの人形が置かれている。
それは少し異様な光景に思えた。まるで周囲から大勢に見張られているような気がしてくる。
「適当に座ってください」
という凛憧の言葉に、千波は「適当ですね」と小さくつぶやいた。また、その言葉について考えているようだが、面倒なので放っておくことにした。
凛憧は皆にお茶を出してから、改めて頭を下げた。
「我が家はかつて『陸奥の神守』と呼ばれた『妖かしの一族』です。つまり、あなたたちと同じですよ。昨日は驚かせてしまい申し訳ありませんでした」
それを聞いて瑠樺は理解した。昨日、あの洋館に現れた人形たち、あれはこの男の仕業だったのか。『傀儡師』と呼ばれた一族ならば、あの程度のことならきっと簡単なことだろう。
そして、この部屋の光景も仕方ないのだろう。
「皆さんにはちょっと気持ち悪いですかね」
瑠樺たちの思いを察したのか、凛憧はお茶を出しながら苦笑しながら言った。
「そりゃあ慣れなきゃ不気味よね」
と八千流が答える。その言い方から、八千流も凛憧とは普段から親しくしていることが察することが出来る。
瑠樺は取り繕うとするようにーー
「いえ、大丈夫です」
言ってから、それはつまり『大丈夫ではない』と言っていることになることに気づいて、少し居心地が悪くなった。
だが、凛憧はそんなことはいっこうに気にもならないようだ。
ただーー
「昨日、ずいぶん壊されたので修理しなきゃいけないものが多いのですよ」
そう言って、少し恨めしそうな視線を千波のほうへと向ける。
「私のせい?」
今度は千波のほうが居心地悪そうに首を竦めた。
「いえいえ、あなたがお強いというだけですよ。ただ、人形にも痛みというのはあるのですよ。私にはそれがわかるのです」
穏やかな顔をしながらも、人形への執着は強いようだ。
「でも、どうしてあなたがここに? てっきり『呉明の一族』は沙羅ちゃんを最後に滅びたのかと思い込んでいました」
「私の先祖が陸奥を離れたのは1400年も前のことです。つまり、あなたのよく知る呉明沙羅が呉明の一族に加わる少し前なのです。陸奥を離れたその男の名を呉明林正と言いました。各地を放浪し、その後、京へやって来た後、朱雀家に人形師として仕えることになりました。林正は『呉明の一族』を継ぐべき立場の者だったため、呉明の家は養子を入れることに決めたのです」
ふとその言葉に何か記憶が刺激される。その名を聞いたことがある。
瑠樺はすぐに思い出した。
そうだ、矢塚から聞かされた名だ。いつだったか、古い書物を手にそこに書かれていたことを教えてくれた。そこにその名前があると言っていた。
矢塚はなぜ、あんな話をしたのだろう? まさか、この日のことを予想していたのだろうか。
「なぜ陸奥を離れたのですか? 何か目的があったのですか?」
「本人がどう思っていたのか、それは私にはよくわかりません。ずいぶん古い話ですからね」
そう言って凛憧は苦笑した。「しかし、そのことについてはなぜだか言い継がれています。きっと本人もそれが重大事であると考えていたのでしょう。私も子供の頃に父から聞かされました」
「じゃあ、知っているんですか?」
「本人は若者特有の理由で家を出たようなのです。つまり新しい世界を観たいと言って飛び出したようなのです」
「本人は?」
その言葉に違和感を覚える。
「ええ、実のところ林正が家を出たのは、そそのかされたようなのです。詳しいことはわかりませんが、『呉明の一族』を『妖かしの一族』から離反させるのが目的だったのではないかと思われます」
「誰に?」
「矢塚の一族、矢塚遊鶴にね。実は矢塚の一族は、もともと陰陽師なのです」
それは衝撃的な一言だった。
「……えぇ?」
声を出したのは千波だった。
瑠樺はというと、あまりに意外な真実に言葉が出なかった。
(そうだ)
矢塚が美月ふみのを殺して行方を消した時、斑目秀峰が言っていた。
――あの男はもともと『妖かしの一族』ではない
それを聞いた時、それは『血族』か『枝族』かの違いを言っているものと思い込んでいた。つまり斑目は、矢塚が陰陽師の家系であることを知っていたのだ。
「やはりご存知なかったようですね」
火輪が瑠樺の気持ちを慮るように言った。「陸奥に送られた男の名を藤原吉継と言います。吉継とその家族が陸奥に送られたのは523年と聞いています。我々が『陰陽師』と呼ばれるようになったのが685年以降と言われていますから、それより以前に京を離れた吉継は『陰陽師』とは言えないのかもしれませんがね」
「それは言葉の問題ですよね……私はずっと矢塚さんも『妖かしの一族』かと」
「遥か昔、藤原吉継はかつて京に住む学者でした。しかし、罪を犯し、その罰として陸奥に先兵として送られたのです。今の言葉で言えば、『左遷』といったところですね。その罪のため、藤原の姓を奪われ、『厄塚』の名を与えられました。しかし、送られた陸奥で『和彩の一族』と出会い、『矢塚』の名を改めて与えられたのです」
「でも、どうして陸奥に? やはり『魔化』のためですか?」
「いえ、彼の場合、表の政のためでしょう。つまり陸奥の征服のため、先兵とさせられたのです。しかし、吉継は『妖かしの一族』に対し、強い信頼と敬意を払うようになりました。『妖かしの一族』でもなく、陰陽師としても中途半端。吉継にとって、陸奥での暮らしは失望の毎日だったでしょう。そんな吉継に『和彩の一族』は特別な仕事、つまり『墓守』を任せ、彼らのみが力を仕える土地を与えてくれた。『和彩の一族』は吉継にとって、どれほど感謝しても足りないほどの存在だったはずです。それでも、一方で彼は京の術者でありたいと願っていました」
「じゃあ矢塚さんはーー」
「矢塚の一族は、その後も代々、我々と連絡を取り合っていました。もちろん矢塚冬陽も同じです。あなたは矢塚からこの場所を教えられたのですよね。それはいざという時のため、我々と落ち合う場所として決められていた場所なのです。そして、あなたに送られたあの手紙、あれは彼が最後に私に送ってきたものなのです。自分と連絡が取れなくなった時にはあの手紙をあなたに送ってくれというのが、彼の願いでした」
「それじゃ、あの手紙はあなたが……」
「もちろんあれを書いたのは矢塚冬陽自身です」
「でも、矢塚さんが……陰陽師だなんて……矢塚さんは最後、『堕ち神』となって亡くなりました。陰陽師でもそんなことがあるのですか?」
「いえ、『妖かしの一族』の影響を受けて『妖かし』になる者がいるそうですね。彼らの一族はそういう者だったのだと思われます」
「矢塚さんの一族が陸奥に送られたのは、いったいいつ頃のことですか?」
「もう1500年も前のことになりますか」
「そんな前から? 昔過ぎてなんか想像も出来ませんね」
千波がお茶をすすりながら口を挟んだ。「あ、失礼しました。続きをどうぞ」
「1500年も経てば、立派な『妖かしの一族』とも言えるようにも思えますが、さすがにそういうものではないのでしょうね」
「いえ……私にとっては大切な一族でした」
瑠樺は心からそう思っていた。1500年も前のことなど自分には関係がない。矢塚冬陽という男が自分を支えてくれていたことは間違いのない事実だ。
――私はあの人を信じるよ。
母のように、自分も矢塚を信じたい。
「あなたは優しいのですね」と火輪は瑠樺に言った。
「私は矢塚さんにずっと助けてもらっていましたから」
自分にとって矢塚はやはり『妖かしの一族』なのだと瑠樺は思った。「凛憧さんは陸奥に戻りたいとは思わないのですか?」
「戻る……か。私にとってはあまりにも古い話ですよ」
と、凛憧が呟くように言う。「それがまさかこんな形で『和彩』の家の方とお会いすることになるとは思ってもみませんでした……というよりも、こんなふうに『妖かしの一族』に関わる日がやってくるとは」
「そういえば、先ほど草薙君が人形だと聞きましたが」
「はい、ご存知のように我が一族は『傀儡使い』と呼ばれておりました。我らの力を使えば、どんな木偶人形でも器にすることが出来ます。さらに人の魂や生命を入れることが出来る人形を作ることが出来ます。私は昨年、2体の人形の作成を青龍様から頼まれました。どのような使われ方をするかまでは聞いてはいませんでしたが、おそらくその一体が草薙響だと思われます」
「彼と初めて会ったのは昨年の秋です」
それを聞いて、火輪と凛憧は顔を見合わせた。それから火輪が言った。
「それはきっと我らの『神』でしょう。あの方に姿はありません。力のみがこの地にあって、我々に力を貸していただけるのです。それと似た存在は、あなたたちの中にもいるのではありませんか?」
「『茉莉の一族』のこと。知っているんですか?」
そのことは一条春影ですら、つい最近まで知らなかったはずのことだ。
「言ったでしょう。矢塚と我々は連絡を取り合っていたと。心配いりません。それについてはあなたたちを知る者の中でも、極一部の者しか知りません。あなたたちの『神』である不死鳥は意思を持たず、意思のある神巫女の身体を使いこの世の影響をもたらす。我らの『神』は変幻自在です。意思をも持っている。おそらくはあの方が、凛憧さんの作った人形に宿り、陸奥の様子を見に行ったのかと思います。これまでも何度かそういうことがありました。あの方は意思を持った『力』です。しかし、その意思を表に出すことはほとんどありません。あの方との話は自分自身との会話であることが多いのです」
「じゃあ、この春に転校してきた草薙君は?」
「器は同じ人形。しかし、中身は違います。彼の中身は『生命』です」
「生命?」
「それは我々の力の源である『神』の力の一部です。それを我々の術を使い、人形の中に詰め込んだのです」
「何のために?」
「生命を与えるためにです」
「何に?」
「『摩化』に」
「どうして?」
「『摩化』を殺すために」
「意味がわかりません」
瑠樺の言葉に火輪が満足そうに頷く。それを横目で見ながら八千流がーー
「意地の悪い奴だなぁ。ちゃんと教える気ないだろ」
「意地悪で言っているわけじゃない」
と火輪は八千流に答える。そして、再び瑠樺に向かってーー「これはなかなかに難しい話なんですよ。『摩化』の存在は我々にとっても大きな関心事です。今の時代、アレが蘇るようなことがあれば大変なことになりますからね。これは陸奥だけの問題で留まることではありません」
「でも、どうして今、『摩化』を?」
「アレが最後に現れたのは1400年ほど前、あなたも知るように呉明沙羅によって、一時的に『摩化』は姿を消しました。しかし、その実態はというと、倒すことは出来ずにこの国の地中深くに眠っているのです。そんな時に『摩化』を倒す方法が見つかった」
「倒す方法?」
「そう。見つかったらしいのです。それは『摩化』に一度、生命を与え、人の姿に戻すことによって殺すことが出来るというものです。それで我らは人形を作り、そこにあの方の生命を分け与え、草薙響という名を与えて陸奥へと送り込んだのです」
「草薙君は自分のことについては?」
「知らなかったでしょう。彼には、普通に京都で生まれて京都で育った、という記憶が与えられています。そして、親から言われるままに転校したと思い込んでいたでしょう」
やはり草薙は嘘をついていたわけではなかった。彼は本当に自分の力について知らずに悩んでいたのだ。
「そのことを春影様は知っていたんですか?」
「もちろん知っていたはずです。我らからそのことを伝えてあります。もともと我々が一条家を陸奥へ送ったのは、『摩化』に対応するためだと聞いております」
「妖かしの一族』を支配するためと聞いていました」
「表面上はそのとおりです」
「なぜ、秘密にしてたんですか?」
「もちろん『魔化』にこちらの動きが悟られないためです」
「『魔化』とはいったいどういう存在なのですか?」
火輪は再び、凛憧と顔を見合わせた。
「正直言って、我々もよくわかっていないのです。何せ1400年前ですからね。人によってはただの噂や伝説だという者もいる始末です」
「伝説?」
「いや、そういうふうに思う者が出てもおかしくないほどに情報がないということです。しかし、『魔化』の存在を我々は確信しています。かつて、陸奥一帯を焼け野原にしたということも聞きます。しかし、もっとも恐ろしいのはその存在だと聞いています」
「存在?」
「我々人間の基本は善である、と私は信じています。しかし、それでも少なからず闇があります。恨み、憎しみ、欲、それは人である限り仕方ないものです。しかし、それを『魔化』は刺激するのです。刺激された小さな心の闇は少しずつ大きくなっていく。心が闇に支配されれば……それはあなたにもわかりますね」
『妖夢』となった一条春影を、『堕ち神』となった矢塚冬陽を思い出していた。あれが闇に心が支配されるということなのだろうか。
「『魔化』の存在が人々の心全てを闇に変えるということですか? 皆が『妖夢』のようになると?」
「もちろん人間は『妖かしの一族』とは違います。妖かしになるわけではないでしょう。しかし、多くの人の心が闇に染まれば、人は憎しみ合い、この世界に多くの争いが生まれる。それが予想されるために、我々も『魔化』に対処することにしたのです。一条春影もまた、同じです。おそらくはあなたたちの一族の誰かと共にそれを実行していたはずです。これは陸奥の妖かしたちの総意と聞いております。そこで我々は力を貸すことにしたのです」
すぐに矢塚の顔を思い出していた。つまり、春影は矢塚と協力をして、草薙の生命を使い『摩化』を蘇らせようとしていたということか。だが、その結果、矢塚は『フタクビ』と呼ばれる妖かしと化し、春影を襲い、最後は雅緋によって殺されることになった。
「矢塚さんは『魔化』を蘇らせたのでしょうか? 今、『魔化』はどうなっているのでしょう?」
「それはわかりません。そのことはむしろ我々も知りたいくらいです。しかし、未だに『魔化』が姿を現したという情報はありません」
「じゃあ、矢塚さんはーー」
「失敗した可能性があります。いや、むしろ、意図的に失敗させたのかもしれません」
瑠樺はハッとした。これまでの話の中で、美月ふみのの存在意味がわからなかった。だが、美月ふみのが矢塚の行動を監視していたとすれば、矢塚は一条家や『西ノ宮』に裏切って、全てを失敗させたということになる。
だからこそ、それをふみのに見咎められて、殺害したということか。
だが、何のために?
矢塚は何を考えていたのだろう?