01-6
ひらり、と彼女が貴堂の前に姿を現す。
それは小さな小さな、数ミリほどの姫君であった。
それが、貴堂の顔の位置に浮かんでいる。
『色々と策を弄してしまいました事、ここにお詫び致します』
「じゃあ、昨夜の夢もっ」
――ちょっと待てっ! あの内容……どっかの国の大企業の、汚い話っ。あれが本当だなんて、冗談じゃない!
「そんな事に巻き込まれてるのか、櫛絽さんはっ!」
そんな事っ。貴堂にどうにか出来るわけが無いではないか。
あれが事実と言うのなら、政治レベルでしか解決出来ない事だ!
『いえ。りおなの場合、直接は』
「な……なんだ、脅かすなよぉ……」
貴堂はその場にしゃがみ込んだ。安堵の息を大きく、長く吐いて。
気力が抜けたのである。手が小さく震えていた。
自覚は無かったが、思った以上に緊張していたのだな。この身体も。
『けれど多かれ少なかれ、人は影響を受けます』
ぎくり。
『わたくし達は、あの子に助けられて来ました。彼女の声には癒しの波動があり、幼い頃はよくユリと歌っていたらしいのです』
――ああ、そう言えばこの姫君は、目覚めたばかりなんだっけ。
『彼女の声には、彼女自身を癒す効果もありました。しかしユリを亡くしてからのりおなは、ほとんど声を出す事はありません』
「そ……そうなの?」
まぁひとりで暮らしているのだから、普通は喋らないだろう。当然だ。
『それでも彼女のおかげで、この庭は〈質が良い〉のです。わたくしも目覚めてから、こちらへと連れて来られました』
「へぇ。で?」
『力をお貸しください』
「櫛絽さんを助けるためなら、俺は頼みを断れない。でも、どっかの大企業を潰せと言うのは無理だろ」
沈黙が、流れた。
――ちょっ……そのつもり、だったわけ?
アホ過ぎる。
精霊と言うのはこんなにもアホだったのか。
ただの高校生がどうにか出来る問題かどうかすら、正しく判断出来ないのか。
『少し、よろしいですかな』
老人の声がした。
ぎょっ、として足下を見ると、小人のオブジェよりほんの少し大きい老人が立っていた。
夢の中で姫君に『土地神様』と呼ばれていたあいつだ。立派な髭が同じである。
『貴堂紘斗。あなたはこうして我々と意志の疎通すら出来る』
「普段は幽霊が見える程度ですよっ。そいつらとすら、意志の疎通なんて」
だいたいアレらは、残像だったり念だったりするのが多いし。
現実世界に影響を及ぼしたり、ましてや生きてる女の子を倒せたりしない。
もしそれが出来るなら、それは特殊で特別なヤツだ。
――……あ? 特殊で特別……。
「櫛絽さんが倒れたのって、自分の声が足りないから、なわけ? そんなわけないよな」
『そこです』
――んっ?
『繊細で鋭敏な者ほど、影響を受ける。ここの娘は家族が居なくて寂しいだとか、歌う元気も無いだとか、そのような事が原因で倒れたわけではございませんよ』
「じゃ、どうして」
『もうお分かりでしょう。彼女は〈ひとり目〉に過ぎない。これから〈広がる〉のです。私達の質が変化すれば、傍で暮らす〈人〉も、只では済まない』
そんな事、言われたって。
『壊れた遺伝子の野菜を食わされ、変化した精霊達と同じ国の空気を吸い続けて、日本人はいつまでも正常で居られますかな』
「だからって俺に企業なんか潰せるわけねーじゃん! 農家にクレーム入れろって言うのか? ネットに危険だと書き込めって言うのか? 政治家に意見を出せって? そんな事なら他の人間にだって出来るっ」
『ならば、他の人間には出来ない事ならお引き受けくださるつもりはある、と?』
「うっ……そ、それはっ」
『水色の瞳の少年よ。今は日本人と同じ色の瞳を通して、何を見ている?』
何を、とはどう言う意味だ。
『他の人間が動いたら、お前も動くのか? 他の人間が動かないから、お前も動かないのか?』
そう言う、わけではない。
自分に出来る事と出来ない事を冷静に判断しているだけだ。
『運動能力のある者は、国旗を背負って世界大会へ出場する。頭の回転のよい者は、各業界で成果を出している。ならば、お前は何が出来る。私達と意志を交わせる能力を持ちながら、それを放棄してのうのうと生を貪るだけか』
「俺は……あの時決めたんだ」
――あの時? あの時っていつだ?
「俺にとって現実以外は、幻覚程度の価値しかないのだから、無視して生きようって」
『ああ、見ておったぞ。あの時は危なかったな。お前は小学校に入学したばかりで、今よりは随分と幼かった』
――入学したばかり?
貴堂は記憶のページを慌ててめくるがそれは結構遠い過去で、すぐさま該当の記憶を引っぱり出せない。
口が勝手に喋った事すら、気味が悪かった。
『徒者でありたいお前の心情、分からなくもない。幼い頃に傷つけられ、強く怯えた事も躊躇させる原因ではあるのだろう。けれどお前自身、それが世間にもよくある話だと、分かっているのではないか?』
「えっ」
『りおなが親戚から受けている苦痛について語った時、お前は自分で言ったのだよ。「鬱陶しい親戚くらい、どこの家系にも存在するだろうけど」と』
自分を睨みつける大人達の、あの目が意識の表面に蘇る。
嫌悪感丸出しで、容赦の無い視線だった。
貴堂の腹の奥底から、怒りにも似た感情が沸き上がって来る。
『もうそろそろ、乗り越える努力をしてもいいのではないか。お前は高校生にもなったのだから、いつまでもそんなものに縛られておく必要はないだろう』
「そこまで言うならっ! 俺に出来る事が何なのか、教えてもらおうかっ」
貴堂は叫んだ。
過去の記憶を乗り越えろ? 言われなくてもそうしたい。
好きで痛みを引きずっているわけではないのだ。
あんな、クソみたいな親戚などどうでもいい!
『お前に大企業の組織を壊せとは言わん。企業とはな、会社と言う建物に集っただけの、人の集まりに過ぎんのだよ』
「じゃ、張本人をどうにかしろと?」
『そう言う事だな』
「ちょっと待てよ。そんなプロジェクトを組んで、世界に流通システムを張り巡らせた人間となると、企業の中でも幹部なんじゃないのかっ?」
『ああ、そうだな』
「どうやって近づくんだよっ、そんな奴に!」
SPとか付いてるに決まっている。ヘラヘラして近づいたら一発ズドン、だ。
世界は日本と違って銃社会なのだから、あっと言う間に蜂の巣にされてしまう。
〈神様〉と言う肩書きに油断していた。
話には聞いていたのだ。〈神〉と呼ばれるクラスのエネルギー体は恐ろしいのだと。容赦しないのだと。
怒らせれば、人の命も簡単に摘む。
『お前から組織の内部へ接触する苦労は無い』
「へっ?」
『もう、来ておる。この国にな。その成功を導いた少年と、少女。そのふたりと一緒に』
「魔術師、とか言ってた奴か」
『便宜上そう呼んだだけで、どうと言う事もない。ただ導いた子らだ。だがこのまま、放ってはおけん』
『貴堂。これからわたくしと一緒に来てください』
キラリと輝く姫君が再び、話しかけて来た。
「どこに」
『この土地より北、です。北風に乗せて日本に自分達の遺伝子をバラまこうとしている。それは日本の植物の〈全滅〉を意味します』
貴堂の背中がぞくっ、とした。
全滅。そこまで実行する気なのか。
「金の為にか? そいつ、ビョーキなんじゃないのかっ。他国の植物を全滅させたいとか、ちょっと異常だぞ」
『それは……接触してみなければ本当のところは分かりません。とりあえず行きましょう』
「これから?」
『今すぐ!』
「わ、分かった」
すうっ、と飛び立ち先導してくれる姫君を追いかけようとした時、周囲から複数の声が聞こえて来た。
振り向くと、淡い緑色に輝く光の玉が幾つも、幾つも――庭に浮かび、イルミネーションのようだった。
そして彼らひとりひとりが口々に言うのだ。
『おー、頑張れよぉ』
『いざって時は呼べ。国内ならどんな事してでも、全員で加勢に行くからよ。こんな時にテリトリーとか言ってられるか! 全面戦争じゃい!』
『御武運を』
『行ってらっしゃいませ』
『あんた、ひとりじゃないんだからね! あたし達がついてるんだからっ』
それから、女の子の声で。
『貴堂……りおなを助けて。お願い』
それは昨日、何度も必死に語りかけて来た声であった。
「昨日は悪かったな……じゃ、行って来る」
みんなに見送られ、貴堂は姫君を追いかけた。
駅から電車に乗せられ、北の方向へと移動を開始する。