01-5
蝉が鳴いている。
強い日差しで建物や木陰が一層黒く、その影を地面に落としていた。
風が無いので軒先の風鈴も鳴らない。周囲の家から、エアコンのモーター音が聞こえる。
空気は蒸し、土もせっせと湿気を地上に解き放っている。
そんな中、精霊達は興味深げに庭先から家の中を集団で覗いていた。
『ユリが連れて来た子よ、ほら見て』
ひとりが嬉しそうに指を指す。
その先には、小さな人間の女の子が居た。
不安そうな表情で、今にも泣きそうである。
淡いオレンジ色の、ノースリーブのワンピースを着ている。肩より少し長めの髪が暑そうだった。
『ユリの孫、なんだって』
『それがどうかしたのか』
『覚えてない? 初めてあの子がここへ連れて来られた時の事。まだ赤ん坊で、ユリの息子の嫁ちゃんが抱いて来たでしょ』
『……あ! あの子か!』
精霊達が『おおっ!』と身を乗り出した。
『確かあの頃は全国的な水不足でさ、ユリの撒いてくれる水もあまり多くなくて、オレら疲れきってたっけ。でもあの子の泣き声が、枯れかけていたこの庭にエネルギーを供給してくれたんだよなっ。あの時の衝撃は忘れられないぜ』
『泣き声も凄かったけど、俺達の存在を〈見て〉た、よな?』
『まぁ人間は成長するにしたがってそのような能力は無くすからな、それは期待しない方がいい』
『それはともかく、遊びに来たんだろ? 最近この周辺も空き地とか公園とか無くなって寂しくなってたからさ~。少し泣いてくれないだろうか』
『わ、お前そーゆー事言うの止めろよ。子供が泣くのを見て喜べるシュミは持ってないし、タチ悪りぃよ』
『う……別に俺は、あの子の不幸を願ったわけじゃなくてさ』
『まぁ細かく言葉尻なんかツッコまなくてもいいじゃない。あたしだって元気は欲しいけど、別に泣かせたいわけじゃない。でもあんた達の言ってる事は分かるよ、うん』
「じゃあな、りおな。いい子にしてるんだぞ」
「達郎、もう行くの?」
「あー、仕事が忙しいんだ」
「だって今日は日曜なのに」
「そうも言ってられないんだよ、サラリーマンはさ。ずっと専業主婦だった人には分からないだろうけど」
「そ、そうなの? じゃあ、気をつけて行くのよ」
「あー、分かってる分かってる。じゃ、あの子の事頼むな」
中年の男は素っ気なく、いや、結構冷たく突き放したような物言いをし、家を出て行ってしまった。
りおな、と言う子供は口をつぐんで何も話さない。
「いってらっしゃい」とも言わなかった。
「ええっと、じゃあ、りおなちゃん。今日から私と一緒に暮らすのだから、仲良くしましょうね」
子供は身動きをしなかった。
「来年は小学校に上がるから、そのうちランドセルとか机も購入しなければねぇ」
『おい、あの子、ここに住むらしいぞ』
『へー。バァさんもひとり暮らしが長かったし、いいんじゃないか?』
『オジィちゃんが亡くなって、十年以上経つものね』
ぽたっ。
ぽたぽたっ。
子供の顎から涙が、畳の上に落ちてゆく。
「りおなちゃん……」
祖母は困ったような表情をしてから、優しく。
きゅっ。と、孫娘を抱きしめた。
「小さいのによく頑張ったわね、心細かったでしょう……もっと早くこうして、抱きしめてあげたかった」
子供は棒立ちのまま、抱きしめられたまま、声を出さずに泣く。
乱れた呼吸で、必死で息をしながら、身体を震わせ泣いている。
「あんなお父さんで、ごめんなさいねぇ」
祖母の方も泣き始めた。
目元のしわが強調されるように表情を崩し、孫娘の髪を撫でながら泣いている。
『どうやら事情があるみたいだな』
『まぁ、さ。歓迎してあげましょうよ。子供なんだもん、すぐに元気になれるって』
『そうかぁ? ガキの頃の傷の方がシャレにならんと俺は思うけどなー』
『いや、大人になってから挫折を経験する方がヤバいと思うぜ』
『ヤバいのは俺らも一緒。こんな箱庭で人間の子供が泣いてるのを見て同情してるだけ、だなんてアホかお前ら』
『んな事言ったって、どーしよーもねぇだろ。国内ならまだしも、外国からの勢力にどう対抗しろっつーんだよ。俺らの出歩ける範囲、近所くらいだぞ。国内でも一応テリトリーあるんだから』
『姫君がひとり、連れ去られたって言うのによぉ』
『うっせーな。出来る事があるってんなら言えよ! お前の指示通り動いてやるわ。ま、なーんのアイデアも無いからグチグチ言ってるだけなんだろーけどよ』
『なんだと? やるのか』
『おう、表出ろや!』
『ここ、オモテなんですけど』
『いい加減にしなさいよ、あなた達っ。イライラするのは分かるけど、仲間内でケンカしたって意味無いでしょ!』
貴堂はハッとした。
数秒間、意識を放棄させられ、幻覚を見た。
いや、見せられた。
何て強引な事をするのだろう。それも、この庭から眺めた過去を報せるためだけに。
意識を取り戻した貴堂には、あの父親が家族を捨てたように思えた。
年に一度くらいしか訪れなかったり、他の女性と暮らしたりしている事が分かったからだ。
情報を添付されたのかも知れない。
――今の会話から察すると、櫛絽の声って精霊達が〈あの時の衝撃は忘れられないぜ〉と言う程に特別な何か、って事か?
枯れかれていたこの庭にエネルギーを供給してくれた、と言っていたな。
「櫛絽さんが倒れたって事と、関係あるって事だよな? こんな事してないで、出て来いよ」
それは最初、雪かと思った。
上空からふわり、ときらめく物が降りて来たのだ。
貴堂は曇り空を見上げたが、数秒間観察してみても、雪も雨も降ってはいないようだ。
ならば、今のキラリ。は、気のせい?
『お初にお目にかかります』
違う次元から囁いたような、とても澄んだ女の子の声だ。
――聞いた事がある……この声っ!
老人の声と一緒に、脳裏を横切るこの、エコーがかかったような声。
「……豊穣の姫君?」