01-4
怠い。眠い。
寝不足で、心臓がバクバクしている。
それもこれも、あんな夢のせいだ。くっそ。
「あー、おっはよ貴堂っ」と、教室に入るなり増田の声がした。
そちらに視線を流しながら、貴堂は自分の席に向かう。「おはよー」と返事をしながら。
増田は軽やかに早足で近づいて来た。
そして。
「昨日、どうだった?」と聞いて来た。
――どうだったって、何がだろう。
困惑して返事が出来ずにいると、彼女は顔を近づけて来て。
「知ってる? 送りオオカミって言葉っ」
アホか。具合悪そうなクラスメートに、なぜ手を出さなければならないのだ。
触るのも憚られる体調だったのは、増田だって知っているクセに。
それに、とてもそんな雰囲気ではなかった。
親戚に怯えて帰宅も出来ないで居たし。
けれどそんな櫛絽のプライベートを、増田に言う必要も無いし。
「ナイナイ、なーんにも」とだけ答えた。
自分の机に鞄を置き、イスを引き出す。
「風邪だったのかな? 今日は休むかもね?」
貴堂は「そぉねぇ」と返した。
ひとりで寝てる所に親戚のオバハンが来たりしたら、最悪だろうけど。
勝手に上がり込んで、勝手に家探し。そして口汚く彼女を罵り、深く何度も傷付けるのだろう。
――自宅に居ても落ち着いて居られないんだな。気の毒だな。
イスに座ろうとした時、教室の出入り口から担任の声が聞こえた。
「おお、貴堂来てたか」と。
ホームルームにはまだ少し早いのに、どうしたのだあの担任。
教室に来るのは職員朝礼の後のはず。
すると担任から手招きされた。
うわ、メンドクサい。何なのだろう。
けれど呼ばれるまま、貴堂は廊下に出た。
担任は小太りメガネの中年男で、髪も薄く、ダサいオヤジである。
威圧的でもないし感情的でもない。年期の入ったスーツは古くてヨレヨレだけれど、なぜか不潔な感じのない、不思議なオッサンである。
服は古いだけで、手入れは行き届いているのかも知れない。パッと見に分からないだけで。
「今朝な、櫛絽の隣の家の人から電話があってな」
「はぁ?」
「制服姿で玄関前に倒れているのを見付けて、救急車を呼んだそうなんだ。お前、昨日送って行ったんだよな」
――倒れて、た?
「その時、どうだったんだ?」
「ちゃんと自宅に入るのを見届けましたよ」
「なら、今朝、登校しようとしたって事か……昨日の時点でかなり具合悪そうだったのに、まさか登校しようとするとはなぁ。期末が近いからかな?」
「救急車が来たって事は、今は病院ですか。具合悪そうだったし、逆によかったのかも」
自宅には家族だって居ないのだし。
病院にはイヤな親戚が来る事も無い。かえって安心しているだろう。
「ああ、そうだ先生。櫛絽さんってひとり暮らしなんですよね?」
「そうだなぁ、お父さんは仕事で単身赴任らしいから……」
――ああ、そう言う事か。
「お母さんは居ないんですか」
「うん、そうらしい。亡くなったわけではないらしいが、幼い頃に、な」
――ふぅん。
同じ教室に居ながら、クラスメートのプライベートと言うのは分からないものだ。
「他の奴に言うなよ。じゃオレは職員朝礼に行くから」
「ああ、はい……」
貴堂は担任の背中を見送って、教室に戻った。
そのまま座席へ向かい、座る。
昨日、呼ばれた事を思い出す。
助けてくれと、少女のような声に何度も呼びかけられていた。
ずきん、と罪悪感が心臓で跳ねる。
助けてくれ、とは、櫛絽の事だったのではないだろうか。
インフルエンザとか風邪だとか、そんな状態ではなかったのではないか。
いや、そんな事。まさか、そんな事。
貴堂はイライラして来た。
自分を責める声が、次々と自分の中から沸き上がって来る。
それは後悔、のような気がした。
呼びかけて来る声を無視してしまった事に対する、後悔と反省。
――ダメだ、イライラしてソワソワして!
空腹時のようなギリギリとした感覚が、神経を刺激し続ける。
――行くしかない、か。
自分の不安と罪悪感を静めるためには、自分を納得させるしかない。
無視した事が間違いだったか、間違いではなかったのか。
答えを知らなければ、この感情から逃れられないだろう。
櫛絽りおなが体調を壊した事は、自分のせいではない。
それは分かっているけれど。
昨日、もう少しだけあの状況を受け入れていれば、ナニモノかの話さえ聞いておけば。
彼女をファミレスに連れて行く以外の事が出来たのかも知れない。
そう思うと、自分を責める声は止められなかった。
貴堂は櫛絽宅へ向かう坂道を上った。
道路にあのコンパクトカーが停まっていないか、と確認する。
よし、居ないようだ。
昨日は暗くて気づかなかったけれど、櫛絽の自宅は、周囲の家より古ぼけたあの家だった。
門柱の表札を確認する。櫛絽。うん、間違い無い。
狭くて錆かけている門柱から中に入ると、玄関前の石畳にプランターが設置されていた。
あまり広くはない玄関にわざわざ置いてあるのだから、よほど植物が好きなのだろう。それが櫛絽なのかおばあさんなのかは分からないが。
石畳の左右は、土である。
右手はすぐ隣家との垣根だ。
貴堂は左に向かって歩いた。
家の外壁に添って様々な植物が地植えされている。園芸に興味が無いので、種類は分からなかった。
細い歩道が確保されていて、その左右がレンガっぽい石で仕切られている。
陶器製だろうか。七人の小人がランタンを持ち、植物の間を明るい表情で歩いていた。
リスや鳥のオブジェもある。
冬で寒々しい状態だし、ここの植物が手入れされているのかどうかなんて、ガーデニング素人の貴堂には分からない。
だがそのオブジェ達を見ていると、この狭い空間自体、愛されていたのだろうなぁと言うくらいの見当はつく。
少しだけ歩いて立ち止まり、貴堂は「来たよ」と呟いてみた。
風が吹いて植物が揺れ、周囲がざわめく。
その時、中年男の声が聞こえたのである。
「じゃあな」と、頭の中に——直接届いた。