06-2
ハドリーはあの山からホテルに戻ると顔面蒼白で、毒気が完全に抜けてしまっていた。
そして今すぐ帰国したいのだと言う。
手続きを頼まれたリカードは、ハドリーをひとりで帰国させる事が不安だった。
なので時間はかかったが本国から迎えを呼び、ハドリーを連れて帰ってもらった。
リカードはどうしても、彼をひとりには出来なかったのだ。
そうしてハドリーは帰国した。
「お前達は予定通り、日本を楽しんで帰りなさい」と自分達に言い残して。
リカードはパトリスの買い物に付き合い、デパート巡りをした。
そして、あるティーラウンジで休憩を取る。
パトリスはドライフルーツケーキのティーセットで、リカードはその店のオリジナルブレンド。
でもまぁ、紅茶の味はよく分からないのでどれでも一緒なのだが。一応、それをチョイスしてみた。
現在の円はドルユーロ共に百円後半を維持している。今の日本の与党はバランスを取るのが上手く、外交も上手い。
G20などでクレームをつけられたと言うような話も聞かないし、経済はそれなりに安定しているようだ。
昔は固定相場で三百円を超えていた時代もあったらしいから、現時点で円安、と言うほど安くもないのだろう。
が、旅行者としてはまぁまぁ、有り難いレートかな。
少し前の、強烈な円高時代を考えれば。
「なぁパトリス。帰国したら、あの会社を出よう」
リカードは切り出した。
目を丸くして驚くパトリス。
今日のパトリスは、日本の若いデザイナーがシリーズ展開している、お嬢様テイストのワンピースを着ている。
ミニスカートなのだが下品ではなく、花のような明るさの中に渋めな色の小柄も織り込まれていて、なかなかキュートだった。
「どうしたの急に。出られるわけないよ」
「いや、出るんだ」
「ボスが出してくれるわけないし」
「もうあの人を〈ボス〉と呼ばなくていい。もう彼は、きみの〈ボス〉じゃないから」
「……どう言う事ぉ?」
「彼はこれから新しい人生を歩み始める。僕達とはもうさよならだ」
「あ、あの年齢で新しい人生、って。……引退? まさか結婚っ?」
「さぁ、どうだろうね。でももう僕達は、彼にとって必要ではなくなったんだ」
パトリスの頬がピクッ、と動いた。
「捨てられるんだ? 私達」
「違う。でも僕達も自立するんだ。突然の事で不安かも知れないけど、パトリス。まず最初に、お兄さんを探そう」
「……え?」
「きみのお兄さんだよ。残念ながら僕は、彼の名前を知らないけど」
パトリスは俯いた。
「いいよ、そんなの」
低くて小さな声で、パトリスが呟く。とても不満そうに。
「絶対、マトモな生活してないから」
リカードの胸がずきん、と痛んだ。
「私の事、押し付ける気なんでしょ。なら探さなくてもいいよ。リカードの人生の邪魔なんてしないから、お兄ちゃんなんて探さなくていいよ。リカードは好きな所に行けばいい。私、リカードの荷物にはならないもんっ」
リカードはパシッ、とテーブルを叩いた。
パトリスがハッとして顔を上げる。
彼女の瞳から、涙が零れ落た。
「もう家族の居ない僕にとって、きみもハドリーも家族だ。でもきみをあの時、本当の家族から引き裂いた事について僕は、ずうっと後悔して来た。その気持ちを忘れた事はない。……あの時、お兄さんは僕に泣いて頼んだんだよ。パトリスを幸せにしてやってくれ、って」
パトリスの呼吸が乱れる。
口元をペーパーで押さえ、声を殺そうとしているようだ。ひっくひっく、と身体が縦に揺れている。
「きみの兄なら、僕にとっても兄だ。彼がもし幸せでないのなら……支える事くらいしてあげたらいいじゃないか」
「……リカー……ド」
「ね、そうしよう。泣くくらい、気になっていたんだろう? お兄さんと、お姉さんも探そう」
「おねーちゃ……おにぃ……ちゃ……」
それからパトリスは糸が切れたように、その場で声を殺して泣いた。
周囲の人達は数秒の間驚いていたようだが、そのまま。こちらに干渉もせず、好奇心を剥き出す事もなく、それぞれのテーブルの世界へと帰って行った。
リカードは、パトリスの気持ちと呼吸が落ち着くのを黙って待った。
そして、彼女が久しぶりに視線をこちらへと向けた時。
リカードは小さく微笑んだ。
「パトリス、さぁ紅茶をひとくち飲んで。そしたら僕は、ひとつだけきみに予言をしてあげる」
それに興味を抱いたのか、パトリスはあたたかな湯気の漂うカップに手を添えた。
そして持ち上げ、飲む。
物理的なぬくもりに癒されたのか、その表情が少し和らいで見えた。
「予言、って?」
「うん、きみはそのうち巡り会うだろう。本当のボス……いや〈マスター〉だ」
「マスター? なぁに、それ?」と小首を傾げる。
「きみの〈マスター〉は、よかったね。きみの憧れているこの国の男の子だ。今は十六歳の高校生で、とても理性的な人だと思うよ」
「えっ、こ……恋人?」
「それは巡り会ってからの事なんじゃない? 僕が言っているのは、星の話」
「何っ? リカードって占い出来るのぉ?」
「占い、って言うのかな? こー言うの」
「顔は? カッコいい?」
「きみの好みかどうかは分からないけど、僕の印象では、悪くはないよ。目元が涼しげで清潔感があって、東洋的な可愛らしさもある」
「……会った事があるのおぉぉぉぉ?」
「え……そっそれは。秘密」
「否定しないって事は、そうなんだあぁぁ。写真、早くっ」
「無い無い」
「ええーっ」
さっきまで号泣していたパトリスが、もう頬をぷうっ。と膨らませている。
女の子は面白いなぁ。何に対してもストレートで一生懸命だ。
パトリスはこれからもいっぱい、泣いたり笑ったりするのだろう。
その時、あいつが傍に居てくれれば心強い。
あいつ。貴堂紘斗。
黒い瞳の奥に水色の瞳を隠した〈マシュー〉のミドルネームを持つ日本人。
・ お わ り ・




