01-3
老人は近年の出来事を話して聞かせた。
それは勿論、豊穣の女神由来の、食物に関する事だ。
『異国の者は神をも畏れぬ。生き物は全て、子を残す事によりここまで生きて来た。しかし、その因果を踏みにじり、次世代に〈種子〉を残せない野菜がこの国の流通を乗っ取ってしまいまして』
『……えっ?』
姫君は困惑の表情を浮かべている。よく飲み込めていないようだ。
『〈種子〉を、残せない? ……そのような事があるわけないでしょう』
彼女は小さく笑った。
でもその表情には、話を否定してしまうだけの明るさが無い。
彼女は自分が早い時期に覚醒させられた事と生き物の常識を、天秤にかけているようであった。
そして出そうな答えは、不吉なものなのであろう。
いや。笑いは虚勢でさえあったのかも知れない。
『いいえ、姫。もうその野菜の市場占有率は百を超えてしまいました。あなたの先代の姫君も激しく抵抗されていました。が、人の欲が現実の世界で暴走したのです』
『意味が、分からないわ』
『色も形も味も、人間の五感では完璧なのです。これまでの野菜と比べても、何ひとつ不満な点は無い。大き過ぎたり小さ過ぎたり色や艶が悪かったり味が薄かったり虫が食ったり、と言う事が無くなりました。全てが〈同じ〉なのです。遺伝子情報を書き換えられたそのような植物しか、もう一般人の手には入らなくなっております。けれど恐ろしい事は、その事実を殆どの人々は知らず、感心も無く、知ってしまったとしてもどうしようもない、抵抗する術が無いと言う事なのです』
『あの……一部でそのような植物を育てたからと言っても、それは〈種子〉を残せないのでしょう? ならば、通常の植物の方が勢力的には優勢なはずなのに』
『人の世界は金があれば権力に食い込める。そうなると出来ない事などほぼ無い、と言っても過言ではないでしょう』
『政治家を抱き込んだ、と言う事?』
『彼らが自国でどのようにのし上がったのかは分かりません。ですが噂は聞いております。自社の遺伝子を持った植物を使い、農家に気づかれないよう極秘に交配させてゆく。それから徐に〈我が社の作物を勝手に育てている〉と抗議する。農家は心当たりがないゆえ反論するが、遺伝子検査をすると当然ながら、特許申請されている遺伝子情報が出て来る。農家は何にせよ莫大な賠償金を搾り取られる。しかも汚染されてしまった植物からは次世代の〈種子〉はもう獲れない。すると〈種子〉は購入しなければならなくなる。業界は悪魔に魂を売ったのか。新たに入手しようとしても、〈種子〉がいつの間にかその企業の〈種子〉しか流通していない、と言う仕組みです。その国では農家から〈悪魔の種子〉と呼ばれているそうな。人の身体に害があるのかどうかも発表はされてないが、その企業の人々は、決して自社の販売している野菜は食べないとも聞いております』
『この日本……も?』
『幾年も前の話です。日本の関連業界も陥落したのではないかと』
その時、姫君が初めて青ざめた。
『天皇家がきちんとその役割りを果たしている神道の国・日本でさえ、その強烈な侵略を止める事は出来なかった……どこで誰がどのように裏取り引きをしたのかは分かりませぬが、人の欲はその企業へ、国と国民を売ってしまった。乗っ取られた植物に関する精霊達への影響も計り知れず、もう彼らはほとんど残ってはいないのです。滅せられた者達の、その性質を受け継ぐ者は居りません。乗っ取られ消えて行った彼らの〈居場所〉に、異国の精霊が入って来るわけでもなかった。それは唯一の救いだったのです』
『お姉様は……』
『やつらの手の者に勾引されました。聞く所によると、彼らは世界に勢力を広げながら、逆に世界の〈原種〉を集めているのだそうです。いざ、と言う時、やはり自分達が世界の食料事情を牛耳りたいのでしょう。全世界の人口を相手に搾取する計画なのです』
姫君は、驚きの表情を変えられないようである。言葉も出て来ないのであろう。
ただ、老人の顔を見つめている。
『姫君。一度に色々とお話しするのは申し訳なく思うのですが、先ほどの話はここ最近の、過去の話です』
『え、ええ』
『これから起こるであろう事が私の耳に届いております』
『はい』
『彼らには〈術師〉と呼べるような者が存在していた、と思われております』
『そうですね、充分にありえるでしょう』
『正体は分かりませぬが便宜上、その存在を〈魔術師〉と名付け、お話させていただきます。件の〈魔術師〉は、食物の時に日本の精霊達が影響を受けた事に気づいたらしく、他の植物にも干渉して来る恐れがあるかと思われます』
『その兆しはあるのですか』
『はい。雑草における遺伝子の汚染が、この国の一部で確認されております。野菜農家の周辺から汚染は広がり始めている。人間にとっては名も無い雑草達ですが、私達にとっては大切な土地と仲間が、もう既に』
『そんな……』
『交雑の手段は実に簡単な事なのです。花粉、それから胞子ですな。風の中へ散らすだけでよい。適当な空き地にでも定着してしまえば、後は勝手に増殖して周囲を汚染する。受粉してしまったが最後、もう二度と元には戻りません』
『それを阻止する方法は』
『〈魔術師〉を止めるしかありません』
『人間を、どうやって……』
『こちらの代理人を立てるしかないでしょう』
『人を、ですか。代理人って、お話でもしてもらうのですか?』
『侵略して来る相手が、話し合いに応じるとは思いません』
『そうです、よね……ならば、どうすればよいのでしょう』
『代理人次第、です』
『どのようにしてその代理人を選ぶのでしょうか』
『その素質を持った人間は、そうは居ません。見つけ出すには時間がかかる。私達に対する感応力が高くとも、その人格が悪ければ使い物にはならない。しかし、時間もない』
『こ、困りましたね』
『しかしある程度、目星はついておるのです。野菜があいつらの手に落ちた時には、このような事態の予想はついておりましたから』
『そうなのですか……少しホッとしました』
『まぁ、その人間も変わり種と言うか……異国の血が少し入っておりますから、どのように転ぶかはまだ分かりませんが』
『そう、ですか。けれどわたくしは、思うのです』
『はい?』
『身体に流れる血は、ただの物質でしかありません。大切なのは、魂と言う心。魂がこの国に根ざしているのなら、血は大した問題ではないでしょう』
『そうですな。この国を売った人間すら由緒正しい、生粋の日本人かも知れません。しかし、その魂は民族から転げ落ちた根無し草、と言えましょう』
『では、その御方の事を教えてください。この先、どうしたらよいのか一緒に考えましょう』
『はい、では。その者はまだ子供でしてな。名は貴堂紘斗。年は今年、十六になります』
「うわっ!」と叫び、貴堂は目覚めた。
全身に汗をかき、身体が冷えきっている。
心臓が不快に鼓動し、頭が痛くて喉が渇いていた。
「ゆ……夢っ」
貴堂は枕元に放置していた携帯に手を伸ばす。深夜の三時過ぎだ。
――おっ俺が見た夢だ。俺の名前が出て来たって不思議はない……なのに、何だあの野菜情報はっ!
虫も食わない野菜。遺伝子操作された野菜。
外国企業に国と国民を売り渡した、誰か。
そんな事、知らない。全く知らない。
勝手に自分の脳が創り上げた夢なのかも知れないし、いつかどこかで耳にしたニュースかも知れない。
けれど、この不快感。
いや、違和感か。
豊穣の姫君だとか、老人の土地神様とか。
「俺には関係無いしっ」
貴堂は体勢を変え、頭から布団をかぶった。
こんな夢を見たのもきっと、櫛絽を送って行った時に聞こえた、あの声のせいだ。
だから、刺激を受けてこんな夢を見てしまったのだ。
貴堂には、人以外と付き合うつもりは無い。
異世界の者達と交流など、しない方がいいのだ。
幼い頃、強く心に決めたのだから。
『それが恐ろしい。〈イメージ〉と言うんだ』
昔。誰か大人の人が、自分に向かって諭すようにそう言った。
その時の事などあまり思い出さないし、実際、今の自分の生活には関係無い。
学校に行って、友達と遊ぶ。その方が貴堂にとっては大切で、楽しい事なのだ。
だから。
夢で呼ばれようと現実で呼ばれようと、自分は無視をする。
付き合わなければならない理由は、ひとつも無い。
――『その人間も変わり種と言うか……異国の血が少し入っておりますから』? ああ、そりゃ悪かったですね。不満なら他を当たれよ俺は知らないからなっ。
自分には。
とにかく自分には、関係がない。
貴堂はその夜イライラしっぱなしで、夜明けまで寝付けなかった。