01-2
いかにも怯えている櫛絽を、とりあえず坂の下に待たせ、貴堂は車の有無を確認する。
すでに陽は落ちてしまい暗いけど、外灯が道を照らしている。
さっきの場所に、もうあのコンパクトカーは居なかった。
それを伝え、やっと櫛絽を帰宅させる事に成功した。
「あの、今日は本当にごめんなさい」
玄関の前で櫛絽は、小さく頭を下げた。
「いや、しょーがないよ。明日は無理するなよ、調子悪かったら休め」
「うん、そうする……気をつけて帰ってね」
貴堂は「じゃな」と言って、帰路に着く。
――やっぱりあの家……いや、幻聴だし。
肌寒い。吐く息が白かった。
――あー寒い。どこが地球温暖化だよ。年々、冬の寒気は強くなってるような……二学期の終わりに雪が降る回数も増えて来てるし。テレビの嘘つき。
『歌が聞こえないの』
――うた? いやいやいやいや!
もう何とも絡みたくない。
何も聞こえはしない。
この世ならぬ事に首を突っ込んだって、ロクな事にはならない。
だから貴堂は振り向きもせず、自分を追い縋って来るような細い少女の声を、切り捨てたのである。
周囲は土壁であった。
色彩の違う層が不規則に重なっていて、地層のようにも見える。
黒っぽく湿った土には、水分の凍った結晶が小さなダイヤモンドのようにキラキラと輝いている。
空間を照らしているのは、仄かな炎だ。
地面の上に小さなキャンドルのような物が数個設置されている。
キャンドルはそれぞれ淡い藤色だったり、桃色だったり、蜂蜜色だったりして、可愛らしい。
可愛らしいのはキャンドルだけではない。
この冷暗所には眠れる女神が複数、横たわっている。
ふかふかの綿に包まれ、静かに未来の出番を待つ彼女達。
白い綿の上には、梅や桜など春色の花びらがふわりと散りばめられていて、優しく温かい雰囲気だ。
そこに眠る〈彼女達〉は、古代から〈豊穣の女神〉の役割が与えられ、この国の未来に食物の〈種子〉を伝えるお役目を持っている。
彼女達は春が来れば芽吹くように、時が来れば自発的に目覚める事になっており、その空間に他の者が訪れる事はありえない。
本来ならば、ありえない事であった。
しかし。
『姫。姫君……』
老人の声が穏やかに、その仄暗い空間を揺らす。
髭の立派な老人の口元には、白い息が漂っている。
胸よりも下に伸びた灰色の髭にも、氷の粒が煌めいていた。
空気中の水分が凍るほど、温度が低い。
冷たい結晶は土だけではなく、老人の身体にさえ纏わりついていた。
『申し訳ない。起きてくだされ、姫君』
老人は、白い綿の上に横たわる少女に向かって声を掛け続ける。
老人の声も身体も、寒さのためであろうか。小刻みに震えていた。
『姫君――。どうかお目覚めください姫君。お目覚めには少々早い時期ではありますが、今、わたし達には貴女様が必要なのです』
老人は、姫君を目覚めさせるには時間がかかる、と覚悟していた。
なぜならその姫が目覚める〈時代〉には、まだ幾分早いからである。
予想以上の寒さに老体はガチガチと震え始め、声も上手く出なくなっていた。
老人の指先が綿の端に触れる。
触れていると彼の震えが、綿に振動を与えた。
ぱた。ぱた。ぱたぱたぱたぱたぱた……。
その白い綿に横たわっていた少女の瞳が、ゆっくりと開いてゆく。
髪も、睫毛も、全身が、綿と一緒に揺れている。
『お……おお、姫君っ。お目覚めくださいましたか……ごほごほっ!』
老人の喉がひゅーっ、と鳴り始めた。声も擦れている。
姫、と呼ばれた少女はゆっくりと上半身を起こし、ボンヤリとした表情で老人を見た。
少女の肌色は青白いほどだが、頬には赤みがさしている。
健康的な肌色で、咳き込む老人とは対象的であった。
その身に纏うのは、春色の衣である。
シュガーピンクと白のグラデーションで、髪には白い花飾り。
ハイウエストの腰紐は薄くて長い布で、足下の方にまで流れており、動くとふわりと舞う。
華やかで可愛らしい衣装であった。
外見は、人の物差しで言うと小学校の高学年くらいだろうか。
『まぁ……このような地下深くまで、ようこそ。土地神様』
少女はゆっくりと、頭を下げる。
『姫君、あなたを地上へお連れ致したく……』
『もうそのような季節なのですね。わたくしとした事が、寝過ごしてしまいましたか』
少女の頬の、赤みが増した。
『いえ、そう言うわけでは……まだ少し早いのですが』
『そうなのですか。地上がわたくしを待っているとおっしゃるのなら、参りますわ。わたくし』
『かたじけない』
『あら、だってわたくし達は〈この国〉に生きる生命なのですもの。必要とされればどこにでも参りますわ。どうぞわたくしをお連れくださいませ、よろしくお願いいたします』
姫は綿の上に座ったまま、老人に再び頭を下げた。
『では、失礼して』と老人は綿で彼女を丁寧に包み、持って来た黒塗りの盆の上に恭しく置いた。
『それではこれより土中を抜けます』
『はい』
老人が地面を軽く蹴ると、その身体は薄墨で描いたような残像を残し、その場から消えた。
地上は初冬の夜であった。
空には雲が無く、星が見える。
姫君はその光を見つめ、嬉しそうな微笑みを浮かべた。
そして、大きな深呼吸をする。
穏やかな風が吹いて、その華やかな衣装が揺れた。
住宅街の一角にある、小さな公園にふたりは居た。
周囲の植物達は冬を迎え、縮こまっている。
『申し訳ございません。先代様が、勾引されてしまい申した』
『お姉様、が?』
『もちろん犯人はこの国の人間ではございません。しばらく前から異国人の手先が、この国をコントロールしようとしている気配がございましてな。人の世界の政治に関わる事は避けたいのですが、そうも言ってはおられません』
『ちょっと待ってください。人の世界の事ならば、人間の仕業と言う事でしょう。人間が、しかも異国の人間がわたくし達に関わるなど、ありえない事ではないのでしょうか』
『今はそのような時代ではございません。遺伝子操作、などと言う洒落臭い言葉がございましてな』
『遺伝子? わたくし達が代々伝えるこの国特有の植物、などに含まれる因子ですよね』
『おお、その通りでございます。お目覚めになられたばかりなのに、これは話が早い』
『いえ、そのような事は。事情も全く飲み込めず、説明を求めるばかりで申し訳なく思います』
『そのような事は……ですが、事態は緊急を要しておりましてな』