01-1
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姫君――。どうかお目覚めください姫君。
お目覚めには少々早い時期ではありますが、今、わたし達には貴女様が必要なのです。
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掃除が終了し、担任が来るのを待つ教室の中。
みんな友達と話したりふざけたりして、落ち着いた雰囲気などどこにも無い。
放課後の部活の予定や、帰りにどこへ遊びに行こうかなど、話題はそのような内容ばかりである。
「ねー貴堂。櫛絽さん具合悪いんだって。自宅が同じ方向でしょ? 今日、送って行ってあげて欲しいんだけど」
クラス委員の増田に呼ばれ、友人と会話していた貴堂紘斗は、数人の女子が教室の一角に集っている事に気づいた。
廊下側から二列目の、真ん中に集っている。
そこは、櫛絽りおなの席だった。
「具合が悪い、って?」
彼女達に近づくと、その席に座り顔色の悪い櫛絽が見えた。
普段からそんなに元気ハツラツな子ではないけれど、これは明らかに体調を崩している。
「中学、同じだったんだよねっ?」
増田は成績がいい、とかそう言う要素ではなく「仕切り屋気質」でクラス委員に指名された子だ。
「そう、だけど」
確かに櫛絽と中学は同じだった。
でも話した事はない。
櫛絽の性格はどちらかと言えば控えめだし、社交的ではない。
そして顔立ちが結構可愛いので、男子から話しかけるのを戸惑わせる子だった。
女子にとって櫛絽は特別に目立つ存在ではないらしいのだが、男子にとってはいつも視界の隅でチェックを欠かせない、そんな子だ。
抜け駆けすれば、必ず目立つし恨まれる。
現に以前、落とした消しゴムを拾ってもらい「ありがとう」と彼女に言っただけで、あだ名を「ゴムタロー」にされてしまい、卒業までずうっとそう呼ばれていた男子が居た。
ダサい仕打ちに、皆震えたものだ。男の嫉妬は怖い。
そんな過去を思い出しながら貴堂は初めて、櫛絽に話しかけた。
「どうしたの、大丈夫?」と。
「大丈夫……ひとりで帰れるから、気にしないで」
苦しそうな呼吸で彼女は言った。
こちらを見上げ、笑おうと無理をしているのがよく分かる。小刻みに震えているから。
「保健室に連れて行かなくていいのか?」と増田に問う。
「あとホームルームだけだから、って。本人が」
確かにもう掃除も終わったし、担任が来るのを待っている状態ではあるのだが。
「さっきまで平気だったのよ」と言ったのは、櫛絽と仲がいいふたりの女子だ。
このふたりが運動部に所属しているのを、貴堂も知っている。
部活があるから送って行ってはあげられない、と言うわけか。
この三人、お互いの自宅も近くはなかったんだっけ? 出身中学が遠かったような気がする。
「帰宅途中に倒れても困るし、あたし委員会があるの。貴堂、お願いっ」
増田は両手を顔の前で合わせ、苦笑いを浮かべた。
「特に用事も無いし、俺は別にいいけど」
「よっし、頼んだ!」と背中を叩かれる。軽くリズミカルに、何回も。
帰り道。
櫛絽が「自分で持つ」と言う鞄を、貴堂は強引に持った。
「そうしないと、こちらの気が済まないから」と何度も言い聞かせて。
時が経つにつれ、彼女は見る見る消耗してゆく。
話しかけるのも気の毒なくらい、櫛絽は歩く事に必死になっていた。
彼女は今、気力だけで立っているのだ。
全身が小刻みに震え、貴堂の目から見ても尋常でない事は分かった。
地元の住宅街まで来て、ここから先はどちらの方向なのか。
貴堂には分からない。
櫛絽に細かく訪ねながら、道を進む。
中学の校区内とは言え、貴堂の自宅とは少し離れた町であった。
あまりこの辺は詳しく無い。郵便局に個人商店がいくつかと、コンビニ。
かなり先にスーパーの看板が見えた。
それにしてもこんなに突然、体調が悪化するなど。
――インフルエンザ、とか?
二学期ももう終わりが近い。風邪も流行っているし、インフルエンザのニュースも何回か見たような気がする。
「あの、もうすぐだから……ここまで、で」
彼女は右手を差し出して来た。貴堂は首を横に振る。
「ダメだよ。せめて玄関の前までは櫛絽さんの鞄、持って行く」
「だけどそんなの……これ以上迷惑……」
「ここまで来たら一緒だよ。だってもうすぐ、って事は近いんだろ?」
「でも」
「俺、家に入れろとか言わないよ?」
「そんな事は、私、別に……ただここから少し、上り坂だし」
「……あのな。坂道ツライなんて俺、そこまで身体ニブってないの。ほらもうサッサと行くぞ。上り坂って、その駐車場から右方向でいいのか?」
「う、うん」
「櫛絽さんがシンドいなら手、引っ張るけど?」
「そんなっ……大丈夫、だから」
「じゃ、進もうぜ。寒いから立ち止まってると冷えちゃうし」
坂の多い住宅街の中で、少し古い家が一件だけ見える。
周囲よりちょっとだけ遡った時代に建設されたのだろう、と言う事がすぐに分かるくらいの家だった。
その他の家は、まぁ普通の住宅が並んでいる。一軒家とか、コーポとか。
あまり道路は広くなく、ガレージ以外に車が停めてあるととても狭く感じられた。
数十メートル先にコンパクトカーが停車していて、他の車が通る時にはかなり邪魔だろうなぁ。と貴堂はボンヤリ思った。まぁ、通れないほどの道幅ではないようだが。
ふと、櫛絽の足が止まる。
貴堂は数歩、行き過ぎて立ち止まり、振り返った。
元気ではなかった櫛絽の表情が、一段と曇っている。
「どうした?」
「……帰りたく無い」
「はぁっ?」
「あの、ここまで送ってくれてありがとう。貴堂くんはもう帰って。わたし……」
「いい加減にしろよ。増田だって担任だって、わざわざ俺に頭下げたんだぞっ」
貴堂は彼女の手首を強く引っ張り、前に歩き出した。
ぐいぐい、と強く引くと、櫛絽の体重移動が腕を通して伝わって来る。
無理矢理な貴堂の引きにその身体が抗いきれず、前進している。
「止めて、ねぇ止めてっ。帰りたく無いのぉ!」
その声は、涙声であった。
ぎょっ、として立ち止まる貴堂。
櫛絽は涙を滴らせ、貴堂に助けを求めるような視線を向けていた。
「お願い……」
そんなにふらふらして、体調が悪そうなのに。
それでも自宅に戻りたく無いと駄々をこねている。
泣いて嫌がる人間をこれ以上引っ張り続けるわけにもいかないし、第一、どの家が櫛絽の自宅なのか貴堂は知らなかった。
――困った。
「会いたく無い人が、来てるから」
「ナニソレ。櫛絽さんってエスパーなの?」
「あの、車……」
少し先に停車している、コンパクトカー。
「あ、そー言う事ね。エスパーとか言って俺、恥ずかしい……。で、誰?」
「親戚の人」
その言葉に心がチクリ、と痛む。
「まぁ鬱陶しい親戚くらい、どこの家系にも存在するだろうけど。自宅には家族が居るんだろ?」
櫛絽は頭を振った。
「おばあちゃん亡くなったから、今はわたしひとりなの」
「え。ひとり暮らしっ?」
こくん、と頷く櫛絽。
「あの家はおばあちゃんの家だから、合鍵を持っている人が何人か居るの。今来ているおばさんもそうよ。時々勝手に来るの。……きっと、金目の物を探しているんだと思う。おばあちゃんが入院している長い間、お見舞いに一度も来なかったような人なのに」
そう言えば高校に入学してすぐ。
櫛絽が数日間、まとめて学校を休んだ事があったっけ。
あれは忌引き、だったのか?
「隠してるんでしょ、出しなさいって責められるけど……わたし、何も持ってない……! あの人達が、怖くて怖くてたまらないの!」
そう言いながら櫛絽は、その場にヘタり込んだ。
貴堂も一緒に座り、その背中を撫でる。けれど。
だからってどうすればいい? このまま寒空の下、放置して帰れない。
「よし、どっか行こうっ。このまま道に居ても仕方ないし」
櫛絽は泣き続けて、リアクションをしてくれない。
ひっくひっくと泣きながら、手で涙を何度も拭っている。
「バス通りのファミレス行こうっ。な?」
「う……うん」
鼻を真っ赤にして、それだけ返事をしてくれた。
貴堂は彼女を抱え上げ、立たせる。
そして今度は上って来た坂道を下り始めたのだが、その時。
『助けて……たすけて』と、どこか遠い所から〈人ではない〉者の声が聞こえた。
ような気がした。
エコーがかかったような、独特の音が頭の中に弱々しく響いたのである。
貴堂はそれを気のせいだと否定した。
そんなモノか聞こえるわけない。
そんなモノに関わりたくもなかったし、それに何より今は、櫛絽の方が大変なのだ。
――本当にひとりで暮らしているのか? なら、面倒を見てくれる人が居ないと言う事だよな……。
熱を測ってくれる人すら居ないと言う事だ。
本当ならすぐにでも安静にさせるべきなのに、自宅に戻れないだなんて。あー、困った。
櫛絽と仲のいい女子を呼ぼうか、とも思ったけれど、そんな事は止めてくれと言われそうだし。
――とりあえず、やっぱ様子見するしかないなぁ。
『貴堂、ねぇ振り向いてよ』
――……貴堂?
馴れ馴れしく苗字を呼ぶではないか。
でも幻聴なのだから、どうでもいい。
――だけどちょっと、イヤな事を思い出しちゃったな……ちぇっ。
前後左右。
車や自転車に気をつけながら、貴堂は櫛絽をファミレスまで連れて行く。
店内は温かく、ソファに座った櫛絽はグッタリとした。
とりあえずドリンクバーをオーダーした。
ソフトドリンクから好きな物を選べる。
動けない様子の櫛絽に希望を聞いて、紅茶を運んだ。
彼女はカップを、震える両手で包み込んだ。
とても寒そうにしている。
顔色は青白いまま。くちびるの色も悪い。
「風邪?」
「分からない……そうかも。感染っちゃったら、ごめんなさい」
それからは、沈黙がテーブルを支配した。
客が多くなる時間帯になって店を出るまで、ほとんど会話はなかった。