08 沼男
「サチーーーーーーーーーー」
また、陽太のそんな声が聞こえた。
毎日毎日バカみたいに私の事を玄関で呼ぶ陽太。
今日の朝、この家まで送ってくれたというのに。
これから毎日夜に会おう。なんていう約束を律儀に守っている陽太。
私はなんとなく、朝のキスを思い出してしまって布団から這いだせない。
そんな風に悩んでいた時、どんどんと扉を叩く音が。
え?と思っていると、扉を開いたのは義姉さんだった。
「さっちゃん。陽太くん、花火持ってきてくれたよ。みんなで一緒にやろうって」
花火?なんて思いながら義姉さんの後に続いて一階に降りれば、玄関で随分豪華な花火セットを手に持つ陽太の姿が。
甥はそんな陽太の姿に大喜びで、「よーちゃん花火しよ花火ー!!」なんてはしゃぎまわっている。
「おーサチ。花火もってきたぞー」
陽太は、朝のキスなんてなにもなかったかのように、笑いながらそう言った。
家の奥からは兄が出てきて、甥の頭を撫でながら「おー陽太サンキュー」なんて笑っている。
甥はどうにも、夏休みの宿題最後の追い込み中だったらしい。義姉さんにさっさと終わらせなさい。と叱られていた。
今までぐたぐたと宿題をやっていた甥も流石にご褒美があれば頑張れるのだろう。
「漢字ドリル終わらせて来る!」と言い二階へ駆けあがっていく。
そうとなれば大人組は、甥っ子の宿題待ちである。
私と義姉さんは、バケツやチャッカマンなど花火の用意をする事に。
ばたばたと廊下を歩いていれば、縁側で陽太と自分の兄がのんびり座っているのに気がついた。
二人してタバコを吸っているのだろう。白い煙がもくもくと上がっていた。
兄さん、そういや甥っ子が産まれてからスパスパタバコを吸わなくなったなぁ。なんてどうでも良い事を考える。
こちらからは背中しか見えないから、あの二人が何を話しているかは分からない。
何を話しているんだろう。なんて思っていた時、二階から「終わったー!」という甥の声が。
母と父は縁側に座って、私たちの事を目を細めて見つめていた。
父の横には、冷えた缶ビールが置いてある。
派手な花火は、ほとんどが甥っ子が一人で楽しんだ。
花火で虫を焼くなんて事は、田舎の子どもの恒例行事。
もし、将来この子が犯罪を犯したとき「そういえば昔から虫などを殺す残虐な子で……」なんて証言されないかと心配になる。……まぁ、私も陽太もそんな証言が上がってくること間違いなしなんだけど。
「よーちゃん! 花火ありがとう!!」
「おーおー。まだ線香花火あるからな」
そう言って、陽太が線香花火の袋を開いた。
兄と義姉さんも「あー線香花火いいねー」なんて言っている。
「よーちゃん、さっちゃんと、かーちゃんとーちゃんと俺、五人で線香花火で対決! これを絵日記に書く!」
「おーいいねー。絵日記の題材にどうぞしてくれー」
陽太はそんな風に笑いながら私たち5人に線香花火を配る。
縁側に座る母は「足の上に落としちゃだめよ」と楽しそうに笑っている。
皆が蝋燭から火をもらっていく。
甥は上下を逆に持っていたようで「何でびらびらの方に火を付けてるの!?」なんて義姉さんに怒られている。
火を灯せば、ばち、と小さく音を立てて丸い火玉が。
ぱぱ、と音を立てて小さな火花が散る。
隣の陽太を見てみる。彼は、真剣な表情で、線香花火を見ていた。
「あーーーー!!」
「バカ、動くから!!」
一番最初に聞こえたのは甥っ子のそんな声。
どうにも、甥っ子の線香花火はあっさり絶命した模様。そんな様子に笑った兄の線香花火も落ちてしまう。
私と義姉さんと陽太の勝負かな。なんて思っていても子どもルールが適用。
甥っ子は何事も無かったかのように線香花火の燃えカスをバケツにぶち込んだ後、新しい線香花火をルンルン気分ではじめた。おい。
母が用意してくれた、蚊取り線香の匂いがする。
そういえば、昔からよく陽太の兄弟と、私と兄さんで一緒に花火をしていたな。なんて線香花火を見ながら、懐かしい思い出に目を細める。
「陽太……今日、弟と妹ちゃんたちは?」
「あいつら、まだ宿題終わってないから連れて来てない」
陽太には、弟と、双子の妹が居る。
陽太がこんなにも優しいのは、末っ子の私と違って、3人の下の子たちの面倒をみていたからかなぁ。なんて思う。特に双子の妹はいつも陽太を巡って喧嘩をしているくらいブラコンだし。
ふうん、なんて思っていたときぽとりと私の線香花火の火玉が落ちた。
陽太の線香花火の火玉は、寿命を全うした老人のようにゆっくりと消えていった。
ぎゃあぎゃあと騒ぐ甥っ子に、それに手を焼く義姉さん。
そして、それに笑う兄を見る。
「陽太」
「なに」
「……何もない」
朝のキス、どうしようか。そう聞きそうになった自分よ。
そんな事、聞いてどうする。
*
花火が終わった後はいつも、どこか寂しく虚しい。
明日から学校嫌だーなんて転げまわる甥っ子もようやく二階に上がった。
陽太も、私と一緒に花火の片付けをした後に「あいつらが宿題やってるか気になるから」なんて言って帰ってしまった。
花火の後、蚊取り線香の匂いに埋もれながら。
縁側で座る母の横に、私は居た。
「かーちゃん」
「……はい」
「あのねぇ」
「……なにさ」
「……陽太と、キスしちゃった……」
じりじりじり、と鳴く田舎虫の音を聞きながらそんなカミングアウトを。
母はただまっすぐ前を見て「そうかぁ」なんて零した。
なんで私は、こんな事を母に言ってしまったのだろう? 本当に、夏の終わりは色々おかしくなる。
「おかしいよねぇ……最近まで、東京で、婚約者、居たのに」
母は、何も答えなかった。
ただ、随分しわの増えた横顔で小さく微笑むだけ。
「わたし、なにやってるんだろう……まだ全然時間経ってないのに。こんなの、あいつと一緒じゃん……」
「サチ」
「……バカだよねぇ、ほんと、バカだよねぇ」
小さくなっていく呟き。
全自動デクレッシェンドに、母はまた微笑んだ。
「さっちゃん。あんたは裏切られた側なんだから。別にさくっと恋し直したっていいのよ」
昔流行った歌みたいな口調で、母はそう言う。
それに、かーちゃんもとーちゃんも皆、さっちゃんが新しく恋愛してくれる方が良いと思ってるしねぇ。なんて付け足しながら。
確かになぁ。そうなんだけどなぁ。となぁなぁ言う私に母は続ける。
「でもねぇ、相手が陽太くんってのが問題」
母は、少し視線を落としながらそう呟く。
私は、何も言えずにいた。
「陽太くんは、昔っからアンタに甘いから。で、アンタは昔っから陽太くんに甘えっぱなしだったから」
母は一体何を思い出したのだろうか。少し目を細めた後に、くすりと笑った。
「ああいう男はね、ほんっとにねぇ……沼男っていうか」
「ぬ、ぬまお!?」
母の言ってきた謎過ぎる単語。
沼に男で、ぬまお。なんて母は笑いながらよく分からない事をいう。
そして「一回足突っ込んだら、もう戻れなくなるってこと」と笑った。
「……サチは昔からギブ・アンド・テイクじゃなくてギブ・アンド・テイクアウトっていう感じだったでしょう?」
突然ルゥ大柴リスペクトを始める自分の母親。
それでも、母の言いたい事はなんとなく分かった。
それじゃだめよねぇ。と母はぼんやりと庭を見ながらそう言う。
「陽太君は、あんたが思ってる五億倍くらい優しい子だからねぇ……」
ぽつり、とそう呟く母。
私はやっぱり何も言えずにいた。
その夜、スマホを開けばまたもや沢山のメッセージが入っていた。
その中に、私はあの人の名前を見つけた。
それにしても、凄い長文。
空色の初期背景。そこに浮かぶのはあの人が送ってきた長文のメッセージ。
そのメッセージは白い吹き出しの形なのだけど、あまりにも長文過ぎてもはやトイレットペーパーのよう。
「さっちゃんへ」と書かれた最初の部分にしか目をやらない。
そういえば、初めての記念日の時も。あなたはとても長い文章を送ってくれたよね。
しつこいくらいの長いメッセージを送る癖。
私のことを「さっちゃん」と呼ぶその癖。
あなたの癖を、未だにネチネチ覚えてる自分がバカらしいよ。
すっと指で勢いよく画面を上になぞっても、脳内でカラカラなんてトイレットペーパーの芯が回る音が聞こえるだけ。
今の私は、まだどうしてもその文を全部読む勇気がなくて。
だから出来る限り、あの人からのメッセージを読まないように努力しながら私はキーボードに指を滑らせる。
「さようなら」
その一言だけ送った。
その一言しか、送れなかったの方が正しいか。