02 涙
自分ひとりで居た時には「婚約破棄されたけど元気でーっす!!!」なんて思っていたのに。
結局、久々にあった家族皆での楽しい昼食の時間はどんより沈んだ昼食の時間へと化した。
その後は、高校時代まで自分が使っていた部屋で横になっていた。
スマホを見る。相変わらずの電波の入らなさに少し笑えたが、それよりも入っていたメッセージの量に笑えた。
一体、誰が情報を流したというのだろう?
本当に人の世の中というのは怖いものだ。
私とクソボケ元婚約者が出会ったのは大学時代であった。そのため、連絡が来ていたのは大学時代の友達からばかり。
しばらく連絡を取っていなかった友人からきたメッセージは「サチ、何があったの?大丈夫!?」なんていうもの。
私はそれらにざあーっと既読の文字だけを付ける。返事をする気にはなれなかった。
そんな時、スマホがぽんぽこぽんなんて情けない音を立てた。
見れば、そこにはもうこれから先の人生で見る事のないであろう携帯番号と、クソボケ元婚約者の名前が表示されていた。
私は勿論電話を取る気にもなれず、電源ボタンを押して、スマホをクッションの上に投げる。
今さら、一体私に何の用があるってんだ。
ヘイヘイ、子どもの性別が分かったぜー。なんて報告か?
そんなしょうもない脳内小ボケのせいで、また考えなくて良い事を考えてしまう。
そういえば、彼の相手は一体誰なんだろう?
できれば私の全く知らない人がいいなぁなんて思いつつ、私は何度も鳴るスマホをただぼんやりと見ていた。
夕食の時にはすでに、私に対する「扱い方」の方向性が決まったようで。
私以外の5人の家族は、一切私の婚約破棄に関する話を持ち出さなかった。
空元気という言葉が世界一似合う母。
ただ無言を貫く父。
突然甥っ子の小学校の成績について話しだす兄夫婦。
うめぇ、飯うめぇと謎のグルメレポートを続ける甥。
実家、という場所はほとんどの人にとって、世界で一番気を抜ける場所であるはずだ。
それでも、どう考えても私に気を使いまくりな家族を見て私は少し実家に帰ってきた事を後悔した。
それでも、まだ夕食の時は良かった。
ここから先、私は実家に帰ってきた事をより後悔する。
まずは、夕食も終わり風呂に入った後。
頭をごしごしとタオルで拭きながら廊下を歩いていれば、縁側に座る母の姿があった。
私は畳の部屋を抜け、ぎし、とこれまた音を立てる縁側に立つ。
庭からは、よく分からない田舎虫のじいじいと鳴く音が聞こえる。月明かりが、随分小さくなった母の姿を照らす。
そういえば、あのクソボケ元婚約者が私の家に来た時この縁側に驚いていたな。
私は一軒家ならどこでもあるものだと思っていたから。
そういえば、結婚して一軒家を買うならこんな縁側のある家がいい。と彼はネットで画像検索なんかしながら言っていた。……もうどうでも良い昔の事を思い出すのはやめようか。
「かーちゃん」
そう言って、私が呼べば、母は振り返り微笑んだ。
私は、母の横に腰を落とし、産まれた時から大して変わらない庭の景色をぼんやりと見ていた。
「サチ」
「なぁに」
もう秋も近づき始めている。
私は無駄に綺麗な田舎の空を見上げた。
「大変、だったね」
「おー。まぁ、でも結婚式の前日とかじゃなくて良かったよねー。ホラ、婚約って何だかんだ言ってまだ口約束の段階な訳だし」
そう言えば、母は黙った。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「あんたが東京に行った日、今でも覚えてる」
「……そーかそーか」
「寂しかったけど、サチは都会でも上手くやってるみたいで安心してた」
母は、ぼんやりと庭を見ていた。
母の横顔を見る。一体、いつの間にこの人はこんなにも老けてしまったのだろう。
「だから、あんたが『プロポーズされた』って電話くれた日、ほんとに、ほん、とに、とうちゃんと、一緒に、喜んだ」
母の声が震える。
私は何も言う事が出来なくて、ただただ田舎の夜空を見上げていた。
そう言えば、母は、昔安っぽい星座の表を買ってくれた。そしてこの縁側で私と兄に星座を教えてくれた。
でも、今夜空を見ても、どこにどの星座があるのかという事をこれっぽちも思い出せない。
春には、毎年この庭に生える花をバックに毎年兄と一緒に写真を撮った。
写真を撮る父。その後ろで父にばれないように母は、変顔で私達の事を笑わせるのだ。
夏には、この庭で幼馴染と一緒にスイカ割りをした。
母はこの縁側に座り、うちわでゆるゆると風を起こしながら中々スイカを割れない私と幼馴染の姿に笑っていた。
秋には、この縁側で家族みんなでお月見をした。
月見団子の数で喧嘩を始める私と兄に笑いながら、母は自分の分を分けてくれた。
冬には、着こみに着込んで。
庭で雪だるまを作る私と幼馴染の姿に笑っていた。
思えばいつも母は、笑っていた。
そんな母が見せる涙。
私は何も言えずに、心の中でクソボケ元婚約者の顔にパンチを食らわせていた。
「なんで、なんでサチが、こんな思いを、しなきゃいけないの」
ぼたぼたと落ちる涙の中、荒く吐き出された言葉。
心がゆっくり締め付けられていく。
雑巾絞りのように、ぎゅうっと、ぎちぎちに。
「かーちゃんが、代わってやりたい。なんで、なんでサチなの……」
私は何も言えずにいた。
その少し後、食卓で両親と話す事になった。
最近導入したらしい、食器洗浄機がぐわんぐわんと回る音。
外からは、相変わらず田舎虫の鳴き声が聞こえる。
「幸恵」
父が、私の名前を呼ぶ。
「今日、あちらから電話があった。今度ここに親御さんも一緒に来られるそうで」
私の知らない間に、随分涙腺が弱くなってしまったらしい母がまた涙を零す。
父は、ぽつぽつと時間などを告げた。
「来なくて、いいよ……」
ぽつり、と私はそう言っていた。
そう言ったのは、別にただの口約束で、結納もまだだしプロポーズの際に指輪を貰った位だから。
でも、そんな気持ち以上に彼にもう会いたくないという気持ちの方が強かった。
「さち、え」
父が、私の名前を呼ぶ。
幸恵。確か小学校の「自分の名前の由来を聞いてみよう!」なんていう宿題の時に尋ねれば、父は「幸せに溢れた人生を送ってほしいから『幸恵』と名付けた」なんて柔らかい笑みを浮かべて、言っていたっけ。
凄いなぁ。世界中のどのDQNネームより、名前負けしてるよなぁ。
ごめんね、とーちゃん。こんな人生で。
ごめんね、とーちゃん。こんな私で。
父の頬を涙が伝う。
バージンロードで見たかった、父の涙だ。