01 典型的婚約破棄
「子どもができたから……、本当に悪いけど、俺との婚約は無かった事にして欲しい」
人類の男は、子どもを生む事ができない。
何百年前から人類みんなが知ってること。
*
「婚約破棄されたから、かえってきたぞーーーーーー!!!!」
ほぼやけくそになって、そう叫んでやった。
駅前で叫ぼうとも、ひとり。これが田舎の良い所だ。
駅前にある「ようこそ○○町へ」なんていうウェルカムする気もクソもない、さびれにさびれた看板。
ロータリーではない、ロータリーっぽいなにか。
懐かしい。恐ろしいくらいに懐かしい。
私が少し思い出に目を細めていた時、ぱああああという挨拶がわりのクラクションが右側から聞こえた。
そちらに目をやれば、我が家の軽トラが。
そして、それにぶんぶんと手を振り返せば、きいっと目の前で雑にブレーキを掛けた後に兄が窓を開け「おー、幸恵ー」なんて手をぐっぱとさせる。
そしてカバン二つと、キャリーケースなんていう家出少女感丸出しの格好を見て、自分の兄は少し眉を寄せた。
「荷物、多いな。キャリーケースは後ろに乗せとくか?」
「そうするー」
そう言って、私はほぼ投げ入れるようにして、軽トラの後ろにキャリーケースを置く。その衝撃で軽く揺れた車内の中で、兄は「ガサツ……」と小さくため息をつく。
その言葉を無視し、助手席に乗り込む。
相変わらずの固い背もたれに眉を寄せつつも、私はシートベルトを装着する。
「いきなり帰ってくるっていうからびっくりした。……まぁ父ちゃんも母ちゃんも、今日は朝からウキウキしてたけど」
「帰るの、久々だからね」
そう言えば、兄は車を動かし始めた。
がん、と軽トラは縦に揺れる。いまいち舗装されきっていない道を走っているのである。当たり前か。
黙って運転をする兄をよそに、私は窓の外の景色を見ていた。
どこを見ても田園、田園、田園、時々民家、田園、田園、何故か上の服を着ていない近所のおじちゃん、田園、田園、軽トラを見ればとりあえず手を振っておく近所の小学生。どれも、死ぬほど懐かしいものだ。
「荷物多いなー、家出かと思った」
紐などで固定もしていない為、後ろでがたがたと揺れまくる私のキャリーケースの音を聞きながら兄はそう言った。
そうだよ、もうほぼ家出だよ。なんて私は心の中でこっそり返事をしておく。
あのクソボケ元婚約者に、別れて欲しいと言われたのは昨日の事。
彼は、これから実家に帰って親にも話してくる。と言っていたから、丁度いま怒られているくらいなんじゃないかな。なんて思ってみたりする。
あの、クソボケ元婚約者が突然告げた婚約破棄。
子どもができたから別れて欲しい、という言葉。
勿論、彼は男だし妊娠する事はできないので、きっと誰か私以外の女との間に子どもが出来たのだ。
昔、このクソ田舎で見ていた昼ドラみたいな展開。違うのは「この放送は再放送になります」なんていうテロップが上に表示されてないだけ。
それくらいに使い古された、もう笑ってしまうような典型的婚約破棄であった。
それ以上なにも聞きたくなかったのか。それとも逃げたかったのか。よく分からないけど私は「どうぞお幸せに!!」なんて言ってその場を後にした。
カフェを後にした後「ドッキリ大成功」なんてプラカードを持った人がいないかとほんの少し探してしまった自分がいたのには笑えるが。
その日の夜は、泣きもしなかった。
あいつは、婚約までしたというのに、他の女を孕ませるようなクソボケ男なのだ。
縁が切れてせいせいした。
こいつと結婚すれば、きっと泥沼な未来が待っていたに違いない。
だから良かったのだ。今、このタイミングで。
結婚する前に、相手がクソボケ男だと分かって、本当に良かったのだ。
婚約破棄されて、こんなにクールに立ち去れるなんて、自分は思ったより冷たい女だったらしい。
「お前、仕事はー?」
「ちょい前に辞めてるー」
「あーなるほどー」
彼はまだ、私の家に連絡を入れていないようだ。
当たり前か。婚約破棄だのどうだの言われたのは昨日の事なのだから。
私もまだ、家族に言っていないから私の家族からの問い合わせがある訳でもないし。どんなクソボケといえども、流石に自分の親に今回の事を切り出すのは胸が痛むことだろう。
婚約破棄をされて、一番に家族に会いたくなった。
友達に愚痴るのでもなく、同僚に泣きつくのでもなく、クソボケ元婚約者にもう一度話合いの機会を。なんて訳でもなく。
この、自分の生まれ育った田舎に何故か帰ってきたくなった。
そうと決めれば即行動。
私はさくっと荷物をまとめ、この田舎へ帰ってきた。
先ほど兄も言っていた通り、両親や兄を困惑させたようだが歓迎ムードで何よりだ。
窓の外を見る。
昔からよく見ていた黒字の板に「イエスキリストは神の御子」なんて白と黄色のペンキで書かれた看板に、今さら「何コレ」なんて心の中で突っ込みながら。
*
「ただいまーサチ、帰ってきたー」
兄が、がらがらと扉を開いた後にそう言った。
サチ、というのは私のあだ名である。幸恵という名前だからサチ。簡単な由来。
「さっちゃん、おかえりー」
一番に出迎えてくれたのは、兄のお嫁さんであった。
彼女は、しゃきしゃきとした明るい女性。兄と結婚したのは数年前。結婚式でとても綺麗なウェディングドレスに身を包んでいたのは記憶に新しい。
これまた数年前に生まれた私の甥っ子が「さっちゃんおかえりー」と彼女のマネをして言う。
「ただいまー、久々ー」
キャリーケースを木製の廊下でごろごろする訳には行かないので、無駄に広い玄関の端の方に置いておいた。
スリッパなんていう概念の存在しない田舎の家。
私は、廊下が時々ぎし、と軋む音を聞いて懐かしさに浸っていた。
「さっちゃん」
そこから後、私の義姉さんは「婚約者のあの人は来ていないの」という事をにこにこしながら言う。
私は、それにどのように返事しようか。と考えながら「あー、ちょっと」なんて適当な言葉を呟く。勝手に推理をキメた義姉さんは「そっか、今日仕事か」なんて言って笑った。
「サチ、準備上手くいってるか? 困った事あれば、いつでも俺かこいつに言えよ」
既に結婚式を経験済みである兄は、私の前を歩きながらそう言う。
廊下は、人が歩くたびにみしみしと音を立てる。左を見れば、無駄に広い畳の部屋に、それに繋がる縁側。
幼い頃の自分の姿をそこに見ながら、無駄に長い廊下を歩く。
次に口を開いたのは、私の服を楽し気にぐいぐいと引っ張る、甥であった。
「さっちゃん、結婚式、ポテトでる!?」
「お前なー、ポテトくらい結婚式行かなくても食えんだろ。しかも結婚式って。まだまだ先……」
「ごめんねさっちゃん。最近この子、ポテトがマイブームらしくて」
あまりの甥のフライドポテト厨っぷりに、いつもなら「何言ってるのよ」なんて爆笑間違いなしだが、今日は何故かそんな気分にはなれない。
皆、私の婚約がだめになった事を知らずに話している。
これ、結構きついなぁ。やめてほしいなぁ。なんてじくじく胸を痛ませながら、私は兄たちの背中を見る。
「かーちゃん、サチかえってきたー」
ぎい、と音を立てて食卓に繋がる扉を兄が押せば、懐かしい光景が。
キッチンに立っている母。食卓の上には相変わらずの高カロリー食。そして、食卓で新聞を読んでいる父。
「サチ、おかえりなさい」
くるりと振り返った母が、エプロンで手を拭きながらそう言う。
ぽっちゃりの度を過ぎている父は、優し気な笑みを浮かべて「おかえり」と言った。
甥が、テーブルの上に並ぶオードブルに目をきらっと光らせた後に椅子の上に座る。
兄と義姉さんはそれを咎めながらも、椅子を引いてそこに座る。
私は、相変わらず少し汚いテーブルクロスに苦笑しながら、カバンを床の上に下ろした後に義姉さんの横の席に座った。
「サチが帰ってくる時間に、合わせてつくっておいたから」
時計を見れば、十二時半。
甥はもうすっかりお腹が減っているのだろう。目の前にならぶ油ものをじろじろと見ている。
こんな山に囲まれた田舎だというのに。
いや、こんな山に囲まれた田舎だからこそか。
山菜の天ぷらなどではなく、思いっきり海の幸であるエビのフライ。
まぁ、母の料理は美味しいし目の前の甥もはむはむと幸せそうに頬張っているし。なんて思っていた時、母が口を開いた。
母が話しはじめたのは、私の結婚に関する事だった。
心臓が殴られたように大きく一回どんと音を立てた。
誰も反応しないで。この話を続けないで。そう思ったのは私が仕掛けたいたずらについて糾弾された学級会の日以来であった。
母の言葉に、父も賛同する。
義姉さんは、自分が結婚した時の話を持ち出している。
兄は、いつでも相談に乗るからと呟く。
何も分かっていない甥は、楽し気にポテトの話をしている。
もう行われる事もない結婚の話で家族が盛り上がっている。
誰の瞳を見ても、悲しそうな色など映していない。
この場で一番キャイキャイと話を盛り上げなければいけない私だけが、違う瞳をしていた。
先ほどまで、美味しかったはずのエビフライが砂の味に変わっていた。
ああ、きつい。これ、きつい。なんて心が悲鳴を上げている。
婚約破棄を告げられた時「どうぞお幸せに」なんて言って立ち去れたクールな女なのに?
こんなにも楽し気な家族に、私は婚約破棄の事を伝えなければいけないのか。
どうして、あのクソボケ元婚約者は、事前に私の家族に「婚約破棄をします」なんて連絡をしてくれなかったんだろう?
どうして、私がこの家族の瞳が絶望に染まる瞬間を見なければいけないのだろう?
どうして、私の胸はこんなにも痛んでいるのだろう?
ただ一つ、いまこの心の中に渦巻く感情は「最悪」以外の何者でもない。
「……あのさぁ言いにくいんだけど」
「婚約、無かった事に、なっちゃって……」
私は、そう呟いた後に家族を見た。
母は、え?と小さく零す。
父は、大きく目を見開いた。
義姉さんの唇は、小さく震えている。
兄の私を見る目が、痛い。
何も分かっていない甥は、楽し気にポテトの話をしている。
娘が婚約破棄をされて喜ぶ家族などいない。
そして、その事実をすぐに受け入れ「可哀想に、あいつはバカだったんだ!」なんて慰めてくれる家族もいない。
全員が、あのクソボケ元婚約者に婚約破棄を告げられた時の私と同じ気持ちでいる。
私だけでなく、私の家族にまでこんな気持ちを味あわせる、あのクソボケ元婚約者は一体何様のつもりなんだろう。
あんなクソボケとの婚約がなくなって大勝利なんて心の中では思っていても、人の幸せを願えるようなクールな女を気取っても、
あの婚約破棄は嘘だったんじゃないかと。子どもが出来たなんて、たちの悪い冗談なんじゃないかと思っている自分がいる。
笑顔の似合う母が、信じられないくらいの涙を流した事も、
優しい父が、ぐらりと瞳を揺らした事も、
口数の多い義姉さんが、茫然と立ち尽くしていた事も、
照れやな兄が、生まれて初めて抱きしめてくれた事も、
ようやく察したらしい甥が、おろおろとしながら私の名前を呼んでいた事も、
私はきっと、死ぬまで忘れる事はないのだろう。