第九話
その日を境に、直之は初めの頃のように俯く事が多くなった。
馬に乗りながら、蓮は直之を見る。直之は手綱を引いているので、蓮に見られている事に気付かない。
蓮はずっと気になる事があった。直之は城に来てからずっと、眼を合わせないのだ。蓮から合わせることはあっても、直之は決して蓮の眼を見ようとしない。まるで何かを恐れるように。
それでも直之は慣れてきたのか、まともにこちらを見て会話するようになったのに、あの日から元に戻ってしまった。それどころか、前より一層ひどくなっている。
どんな人間でも、ある負い目を常に持って生きている。それを指摘されると深い傷を負わせかねない。
蓮はそれを重々理解しているので、その事には触れないように心掛けてきた。きつい物言いをする蓮だが、人が傷つくことは決して言わないのだ。
だが直之に対しては違った。直之の眼はいつも、悲しいほど何も映っていない。僅かに映るそれは恐怖だ。この前の事もそうだった。
自分を見つめる、鬱陶しい髪から垣間見えた、震えた瞳。
だが責めることもできない、なんとも弱々しいものだった。
「・・・直之。」
おもわず名を呼ぶ。直之が振り向く。
「なんでしょうか。」
その眼には相変わらず何も映っていない。
「・・・すまん、なんでもない。」
直之は気にする風もなく歩き始める。
どうなればあのような眼になるのか蓮は知っている。
だから気になるのだと、蓮は自分を納得させ、頭に浮かんだ僅かな期待を霧散した。
水面に美しい睡蓮が咲いていた。花を見つけるやいなや、蓮は湖の方へ駆け出す。まるで子供の様に満面の笑みを浮かべながら。
「お好きなのですか。」
「私の名の由来の花だからな。」
その時、乗ってきた馬が鳴きながら湖を離れていく。木に括り付けた手綱がほどけたのだ。
「何をしておる。早く捕まえてこい。」
蓮が呆れながら言うと、
「すみません。しばらくお待ちを。」
直之が焦って馬を追う。あからさまに見せた直之の動揺がおかしくて、蓮の顔が少しほころぶ。そして睡
蓮をいとおしげに見ていたその時だった。
背後からがさっと草が動く音がした。
瞬間、気配で直之ではないことを悟る。それも一人ではない。
「誰じゃ。」
叢から複数の男が出てくる。どこかの残党に思われた。べったりとした笑いを浮かべている。
「女、金目の物渡してもらおうか。」
「お前らなどにやる物などない。」
蓮は決して動じなかった。
しかしそれで諦める筈もなく、男たちは蓮の周りを歩き始める。そしてその中の一人が蓮の顔を見つめ言った。
「こいつ、どこかで見たと思ったら蓮姫じゃねえか。」
「どうりでいいものを着てるはずだ。」
「そらあいい。こいつを人質にとれば大金が手に入るぞ。」
「姫さんよ、おとなしく来てもらおうか。」
男達が刀を持って詰め寄ってくる。
刀はいつも直之に持たせているので、今の蓮には戦う術がない。後ろは湖だ。逃げ場もない。
「抵抗しなけりゃ怪我しねぇで済むぜ。」
一人が蓮に手を伸ばそうとした、その時。
「ぐわっ!」
後ろにいた男が倒れる。背中には短刀が刺さっているのを見て、男たちの目の色が変わった。
残党達が反射的に後ろを振り向く。そこには息を切らした直之が立っていた。
「お前達なにをしている!」
直之が素早く刀を引き抜く。
思いがけない敵の出現にとまどう残党達の隙を突き、蓮はすぐさま端に逃げる。
「直之、殺すなよ!」
直之はなにも言い返さなかった。すぐさま敵に斬りこんでいく。
だが相手も馬鹿ではなかった。すぐさま戦闘態勢にはいり、直之の攻撃を受け止める。敵は数名いる。しかも残党とはいえ手強い相手だ。
刀も直之に預けてしまっている。蓮はただ見ることしかできない自分に歯がゆさを感じる。
しかし直之は落ち着いていた。四方からくる攻撃を軽々と避け、刀を振り上げる。そのたびにうめき声が上がり、次々と男たちが倒れていった。蓮は黙って見つめている。
今の直之には相手を倒す本能しかないように思われた。しかしそれでも直之の眼にはなにも映っていない。
初めは緊迫した面持ちで眺めていた蓮だったが、次第にその表情から力が抜けていく。
力の差は圧倒的だった。突如現れた直之の勢いに押され、構える刀には乱れが見れた。その隙を見抜き、直之は刀を叩き込む。
長い前髪を振り上げ敵を睨みつける直之を見る蓮の頭には、ある光景が浮かんでいた。
それは鬱蒼と茂った森の中。
怒声を上げ血を流しながら、敵と対峙する一人の侍。
思わず頭を振り目を背けると、空気を切る鋭い風の音がした。
気付けば、立っているのは直之だけになっていた。僅かながら、うめき声が聞こえる。
皆息があるようだ。蓮はほっと胸を撫で下ろす。かろうじてその中の親分らしい男が立ち上がる。
そこでやっと敵の正体を理解した。
「てめえは・・・黒田直之だな!」
そして蓮と直之の顔を交互に見ると、男は痛みに顔を歪ませながら薄笑いを浮かべた。
「そうか、姫さんはこいつの正体を知らねえのか。でなきゃ、お前みたいな奴が姫さんの傍に仕えるなんてできないもんなあ、黒田。」
それまで冷静だった直之の顔が突如、悲痛の色に彩られる。
やめろと言いたいが言葉が出ない。そして男は蓮を見て叫んだ。
「知らねえなら教えてやるよ。こいつはなあ、いくつもの村の奴らを皆殺しにして、仕えていた国を追放された男なんだよ!しまいには“虎の黒田”とまで呼ばれて恐れられている男さ!」
直之はなにも言えない。
途端にこの場にいるはずのない者の視線を感じた。それは忘れたくても忘れられない、あの冷ややかな眼。
蓮は、眼を見開いて固まっている直之を見る。
血の付いた刀を握りしめ、立っている直之。
これ以上にないくらい目が見開き、激痛を耐えているかのように、その顔は痛々しい。
頬にかかった返り血が男の話を肯定しているかのように思われた。
あの直之が、酷く動揺していた。先程の刃のような冷ややかさは既にない。
直之の姿を見て男はあざ笑う。
「こいつはなあ、まさに虎のように残酷な悪党なんだよ!こんな奴、姫さんの元に仕える資格なんてないんだよ!」
「言いたいことはそれだけか。」
蓮が怒りをはらんだ声音で言う。
「今なら黙って見逃してやる。さっさとこの地から去れ。」
蓮の気迫に押されたのか、これ以上刃向うのは得策でないと考えたのか、男は急に押し黙り仲間に声をかけると、動けない者を肩に担ぎ、逃げるように森の中へと消えていった。
しばしの沈黙が続く。それを破ったのは蓮だった。
蓮はいまだ動かない直之に近づき、
「手を見せろ。」
「・・・なんですか。」
「いいから。」
そして直之の右腕を引っ張る。
手の甲に斬られた傷を見つけると、蓮は持っていた桃色の手拭いを巻きつけていく。
「気づかぬと思ったか。私を誰だと思っている。」
蓮はいつもと変わらない様子で直之に話しかけた。
「今日はもう帰るか。その姿では皆が心配するな。近くに農村がある。そこに寄って着物を借りるか。」
そして何事もなかったかのように馬に向かっていく。堪えきれず直之は言った。
「あの者が言った事は真です。」
蓮の足が止まる。今聞かないと後悔する気がした。直之は血の付いた刀をまだ握りしめている。
「私の手は、淀んだ血で穢れているのです・・・。」
自分でも驚くほど弱々しい声だった。