第八話
ひと月という短い時間にも関わらず、蓮の腕前は格段に上がっていた。それでもなお、直之から白星を取ることができない。
だが蓮は悔しがるどころか、満足げな顔をする。
簡単に越せるような相手に教えを乞うても意味がない。
常に先を行き、自分の攻撃も冷静に判断し見極める。そして甘さがない。それが直之だ。蓮はその事にとても満足していた。
僅かな隙が見えた。蓮は迷うことなく狙いを定めるが、それを見越したように、攻撃を仕掛ける前に直之の刀が喉元に置かれる。
こうなっては動くことができない。思わずのけ反り一歩引いてしまう。目の前の切っ先が鈍い光を放ちきらめく。それがより一層威圧感を与えてきた。
「このようにわざと隙を作ってくることもあります。腕の良い者はそう簡単に隙を見せることはありません。まず疑うことが必要です。」
いつもは強気で押し通す蓮だが、稽古の時ばかりは大人しくなる。
直之が刀を下げ鞘に収める。それがいつしか稽古の終わりを示すようになっていた。
刀を持つと人が変わる。蓮はその事を、直之を見て思い知った。
普段は蓮に押されがちだが、刀を持つと圧倒されるほどの存在感と冷静さを放つ。そして感情を表さず静かな闘志を燃やす武士の目になるのだ。
蓮相手の稽古なので、直之自身は本気を出してはいないだろう。実際、蓮の攻撃を涼しい顔で読み取り、いとも容易く受け止めてしまう。つまりそれらは無意識の内なのだ。
今でさえこんな様子なのだから、直之が敵と相見える時、どのようになるのだろうと蓮は気になっていた。敵に遭遇することなど、あってはならないのだけれど。
火照った体を涼めるように蓮は腕を広げ、風を体一杯に受け止める。束ねられた髪
がなびいて顔にかかるのを手でかき分ける。
直之が、ふとそんな蓮の様子に目を向けた瞬間だった。
『許さない。』
湖を見つめる蓮の横顔が、かつてのある少女のそれと重なる。
直之の目が、これ以上ないくらいに開かれる。蓮はその事に気付かない。
心臓の音だけが耳に響き、暑いわけでないのに汗が顎を伝う。
横顔が直之の方へ振り向く。その顔は泥と血と涙で汚れ、激しい悲しみと憎しみの色を浮かべていた。
ざんばらに切られた髪が熱風で煽られる。いつの間にか周りの風景も、閑静な森から炎の海に変わっていた。
少女の視線が一瞬直之の右手に向けられる。
その瞬間、何かを握っている感触が伝わり、そちらに目をやる。
刀だった。
いつも握り慣れている刀に、赤黒く嫌なぬめり気をもつ血がついていた。
いや、まるで装飾として塗られたかのように、手元から切っ先まで、その美しく光を反射する刃を覆い尽くしていた。
驚く間もなく、再び少女の方を見る。
炎が間近に迫っているにも関わらず、少女はその場から動かない。
その片腕の中に、血で汚れた布で包まれた何かがいた。それからはもう生気が感じられない。
もう片方の手には、揺れる炎の赤い光を受けて煌めく短刀が握られていた。
一切の汚れが付いていないそれを、直之に向ける。
右腕を振り上げればいいはずなのに、なぜか刀が恐ろしく重い。だが放すこともできない。
足がその場に縫い付けられたように動かなくなる。いや、足だけではない。四肢全てが固められたように動かない。
目を逸らしたいのに、首を動かすこともできない。
それでもどうにかして後ずさりする。だが強張った足は地面につまずき、その場に尻持ちを着く。
砂利の音がして、蓮は初めて首を動かしそちらを見た。直之が怯えたようにこちらを見ているので、何が起こったか理解できず困惑する。
「直之?」
蓮の声にはっと目が覚めたように、再び目の前に湖が広がる。
そこにはあの少女の姿はなく、怪訝な顔を向けている蓮がいた。
「も、申し訳ございません。」
慌てて立ち上がったので僅かによろめくが、どうにか倒れることなく体制を保つ。
「なんでもございません。大丈夫です。」
発した声が動揺しているのが自分でも分かった。
まだ鼓動は早鐘を打っている。汗も引かない。
なのに全身の血の気が引いたように寒い。
思わず腕を抱え込む。足にも力が入らず今にもその場に崩れてしまいそうだ。
蓮に平然を装おうと頭に訴えるが、体が動揺を抑えようと必死で、思い通りになってくれない。
その様子を見て蓮が直之に近づく。
頭が混乱して直之はその事に気付かない。
そして唐突もなく右頬に手を添えられたのを感じて、初めて蓮の存在を認識する。
蓮の行動があまりに自然で予想外だった為、直之の体が強張る。
だが振り払う事も出来ず、顔に添えられているのでどうしても見つめ合う形になる。
蓮はじっと直之を見ていた。その目は今まで向けられたことない、案じる目だった。だがこの目は前に見たことのあるものに似ていた。
まただ。また蓮は直之の心を見透かす。
直之の心に巣食う闇を読み取ってしまう。
添えられた蓮の手は暖かかった。そこから次第に血の気が戻ったように再び体が熱を持ち始める。
鼓動も落ち着いてきた。荒かった息遣いも僅かに元に戻っていくようだ。
「落ち着いたか?」
「・・・・・・はい。」
蓮は安心したように息を吐くと、手を放した。
「だがまだ顔色が芳しくないな。今日は早めに帰るか。ゆくぞ。」
「・・・はい。」
馬をつないでいる所へ蓮が進んでいくのを、直之は僅かに遅れてついて行く。
まだ僅かに体が強張っているが、先程と比べると思い通りに動いた。
ふと、自分の心の臓の位置に手を当てる。
一体何回目だろう。あの幻覚を見るのは。
あの出来事の記憶が薄れそうになった頃に、それは突然やって来る。
まるであの惨劇を決して忘れさせないように。直之が、自分の罪で生涯苦しむように。
決して忘れることができない、忘れてはいけない。それを体に刻み込むように、いつも体の異変に苛まれる。あの少女の目が、ずっと直之を見ている。
最近になって、その瞳が蓮と重なる回数が多くなっていく。それは同じ年頃の少女だからだろうか。
それとも、蓮だからだろうか。
城に戻る道中、蓮は何も言ってこなかった。馬の背に乗り体を揺らしている。
普段はあんなに横暴なのに、なぜこういう時だけ一歩引くのだろう。
蓮様、俺はそんなに気を使われるほど弱くはないのですよ。むしろこういう事には慣れている。ですから。
あなたが心配することは何もないのです。
その日の夜。蓮は珍しく書物を読むことなく物思いに耽っていた。文机に肘をついて、焦点の合わない視線で御簾の向こうを見つめている。
「姫様、もうお休みになられた方がよろしいかと…。」
心配そうに見ていた志津が耐えかねて口を開いた。だがそれが聞こえていなかったように蓮は言った。
「のう、志津。」
「はい。」
「獰猛な獣が怯えるとは、一体何があったのだろうな。」
「はい?」
思わず素っ頓狂な声を出してしまう志津とは裏腹に、蓮は唸りながら再び考え込む。問の意図がよく読めないまま、志津は少し考えて言った。
「そ、そうですねえ…。何かを恐れているのでしょうかねぇ。」
「恐れる?相手は人を襲う獣だそ?」
顔を上げ、蓮はそこでやっと志津の方を振り向く。
「か弱い女でも屈強な武士でも、心があれば恐れるものだってあります。たとえそれが人ではない獣だったとしても。」
「私には恐れるものなどないぞ。」
「それは姫様がまだ気付いていないだけです。」
迷うことなくそう口にする蓮に、志津は優しげな笑みを浮かべる。
「お前にもあるのか、恐れているものが。」
「はい、ありますよ。」
だが蓮はそれ以上聞かなかった。詮索してはいけないと思ったのだろう。
「そうか、恐れるもの、ね…。」
再び考え込む蓮。
「寝床の用意をいたします。」と言って志津はその場を出ていく。ぱたぱたと小走りで駆けていく音が次第に遠ざかっていくのを感じながら、ゆっくりと目を閉じた。
直之、私には分からない。恐れる心を、あの時失ってしまったから。
そう考えれば、よっぽどお前の方が人間味がある。
真の獣は、私なのかもしれないな。
思わず口元が緩み笑みがこぼれる。その瞬間、胸の奥がつきりと痛んだように感じた。
隅に置いてある小さな櫃に目をやり、蓋に手をかける。
中には短刀が一本入っていた。金で施された椿の家紋を、優しくなぞる。
「…兄上…。」
私の全てを見ててくれるのは、きっとこれから先もあなただけ。
もうこの声は届かない。
全てを壊したのは、この私。
忘れてはいけない。自身の罪を。
その為に、私は今まで生きているのだから。