第五話
城に戻る途中、蓮は人々からよく声を掛けられていた。それは子供から年配まで様々だ。
「姫様、お帰りなさいませ。」
「もう暗いですからお気をつけてお帰りください。」
「明日新しい書物が届くんです。ぜひ見に来てください。」
「今日、きれいな花が咲いていたの。姫様に上げようと思って取っておいたの。」
よほど慕われているのだろう。蓮も嫌な顔をせずにこやかに返している。先程の横暴ぶりが嘘のようだ。これがいわゆる、表の顔なのだろう。
その中にも、直之に向けられている視線がいくつかあった。歓迎とも非難とも取れない興味の眼で見られながら、馬を引いて進んでいく。
やがて城に着き中に入ると、一人の男が駆けてきた。
「おかえりなさいませ。姫様。」
「今帰った。弥助、こいつが今日から私の側近として仕えることになった直之だ。用意していた住屋に案内してやれ。」
弥助と呼ばれた男は蓮と近い歳のように思われた。蓮は馬から降りると、
「今日は疲れたであろう。明日から本格的に働いてもらう。」
「わかりました。」
直之の返事を聞くと、蓮は城の中に入っていった。
住屋に案内される最中、弥助が口を開いた。
「ここには家を失った民、人売りから逃げた者、そしてわたくしのような身寄りがない者が城の下請けなどをしながら暮らしております。」
「弥助殿はいつからここに?」
「わたくしは生まれた時からここにおりますのでもう十五年になります。」
弥助は歳の割に落ち着いている。いかにも好青年という優しい面立ちをしていた。
「私は道で捨てられていた所を殿が拾ってくださってと聞きました。ここにいる者は皆、殿や若様、そして姫様に救われた者達です。ここにいる者だけではありません。この国で生活する者全員が皆様に感謝しておるのです。」
だから蓮はあそこまで慕われていたのか。春日の国の人々にとって、忠正や蓮はまさに唯一無二の存在なのだ。
「直之殿もいずれ分かります。姫様は本当に良いお方です。少々気がお強いですが、私達の事を常に気をかけてくださる。」
だが直之はそれには答えない。その表情は髪に隠れてよく分からなかった。
そうこうしている内に住屋に着いた。しばらく野宿続きだった直之にとっては何とも言えぬ贅沢に思えた。一人で住むには広いように思えたが、それを言うと弥助はにっこり笑うだけだった。
弥助が帰ると、直之は床に寝転がる。今日はいろんなことがあって疲れていたのだろうか。すぐに意識が遠のき眠りの中へ落ちていった。
蓮は眠れず縁側に腰掛けながら空を見ていた。
今宵は月が見えない。どんよりとした夜空はどこか寂しげだ。
まるで自分の心そのものだ。蓮は思った。
蓮の心は一年前のあの日から決して晴れることはない。これからもおそらく生涯ないだろう。時はあの日から悲しいままで止まってしまっている。
わたしはずっとひとりだ
突如目に飛び込んできたのは、あの日の光景だった。
燃え盛る炎。叫び、逃げまとう人々。血を流し動かない者もいる。地獄絵図を見ているかのような風景。いや、その場そのものが地獄だった。
そしてその中にただ一人、血で濡れた刀を持ち佇んでいる自分。この地獄を作った自分。
そこにいる自分はまさに虎だ。決して人に懐かず、そのぎらついた獣の目で獲物を射抜き、決して逃がさない。
そしてまた、血塗られた刀を誰かに向けて振り上げた。
そこで直之はっと目を覚ます。辺りはもう寝静まっているように思えた。
寝苦しい夜でもないのに、直之はじっとりと汗をかいていた。呼吸も荒い。
気持ちを落ち着かせるため外に出る。夜風に当たると、次第に気が静まってきた。心地よい風が体をすり抜けていく。だが頭の中の光景は消すことができない。
あの日からずっと同じ夢を見る。そしてそのたびにうなされる。そして思うのだ。
自分を見てくれる人などいない。きっと蓮の護衛の任もすぐ外されてしまうだろう。本当の自分を知ったらきっとまた冷酷な目で自分を見る。まっすぐ自分を見るあの目も、いつしか怯えと軽蔑の色に染まるだろう。あの時のように。
おれはずっとひとりだ
いつしか日が明けていった。
しかし夜の闇が、二人の心の闇を一緒に拭い去ることはなかった。
「姫様、おはようございます。」
直之は起きて着替えた蓮を出迎える。これも側近としての大事な仕事だ。
「うむ。」
乳母の志津と共に現れた蓮は自分の部屋に入っていく。
側近と言っても蓮はまだ大きな仕事を任されるまでには至ってないので、殆どは城で過ごす蓮を見守るのが主となる。
蓮は打掛を羽織ってはいなかったが、昨日とは異なり、実に清らかな美しい姫に見えた。直之はやっと蓮が姫であることをはっきりと認識できたような気がした。
目の前にいる姫が、刀を巧みに操ることが未だに信じられない。
だがやはり昨日と変わらぬ仏頂面でいる蓮は、歳相応の可愛げがない。昨日はそれさえも美しく見えたが、姫装束ではそれが少し美しさを損ねているような気がして、直之は小さく息を吐く。
しばらくするとそこへ一人の男がやってきた。
「蓮姫、義邦でございます。」
「入れ。」
「いえ、すぐ終わりますゆえ。」
そう言って義邦は部屋に入らず、直之の方に姿勢を変える。
「私はこの国の領主、沖田忠正様に仕える加藤義邦と申す。」
「初にお目にかかる。黒田直之と申す。」
どうやら直之に会いに来たようだ。直之をじろじろと見つめている。
こういう風に見られるといい気はしない。直之の表情でそれを読み取ったのか、
「あぁ、失礼。姫がどのような者を選ばれたのかと気になりまして。これから毎日顔を合わせることになりますから。軽く挨拶を。」
そして蓮の方へ向き直ると、
「それに殿にも見てくるよう言われましたもので。」
瞬間、本をめくる蓮の手が止まる。直之はそれを逃さなかった。
「まことにふさわしい者かどうか見定めてくるよう言われましたが・・・」
そしてまた直之を見る。
「一目見れば、その者がどのような方か分かります。実にたくましく、頼りがいのあるお方ではないですか。さすが我らの姫様が選んだ者でいらっしゃる。」
そしてまた蓮を見る。なんとも忙しい奴だと直之は思った。
「私共も直之殿を姫様の側近として相応しいとお見受けいたします。」
「そなた、私を誰だと思っている。」
気分を害したのか、蓮は義邦に睨みをきかせる。
「これは失礼いたしました。しかし殿もおそらくお認めになりましょう。」
「・・・わざわざ父上の許可がいるのか。」
これには義邦はなにも答えず、軽く一礼し離れていった。蓮は明らかに顔が沈んでいる。
「どういたしました。」
「・・・大事ない。」
そして何事もなかったかのように本を読み始める。様子がおかしかったが、直之はそれ以上追及しようとはしなかった。
直之が見る限り、蓮は文武両道を心掛けている。一日のうちに文学、花、茶、薙刀、琴など様々な習い事をこなす。その上どれもかなりの腕前だ。
「まあ、幼い頃からやっているゆえなあ。」
たいしたことはない、と蓮は馬に揺られながら言った。しかしあれだけの量はいくら慣れていても早々できるものではない。
「お疲れでしたら、今日はおやめになったら・・・」
「私をそこらの軟弱な姫と一緒にするな。いつものことじゃ。」
あれだけの量を毎日しているのか。確かに他の姫と一緒にしたらついていけないだろう。直之は改めて気を引き締めるように肩に力を入れた。
「では、始めましょうか。」
湖のほとりに着くとすぐに、二人は刀を構える。蓮が真っ先に直之との間合いを詰め、攻撃を仕掛けるが、難なく直之はかわす。
蓮の腕前は確かに凄いが、やはり我流で鍛錬を積んできたのか、技の一つ一つが荒い。それにどんなに度胸が据わっていても、大の男相手ではやはり無意識に委縮してしまうようだ。
仕掛けてくる技に僅かな戸惑いと怯えが見えた。女ならではの弱さだ。
「相手の目を離してはいけませんよ。」
その瞬間、蓮の刀が宙に舞う。
「勢いだけでは相手を倒せません。相手の弱点を見極めることも重要です。姫様の場合、刀を握る力が弱いように思われます。」
蓮は真剣に直之の話を聞いていた。そこには先程のしおらしく琴をつま弾く姫ではなく、自らの腕前を上げんが為、鍛錬に勤しむ武士がいた。
これまでに何人か手ほどきをしたことはあったが相手が女なのでどうも加減が分からない。直之自身も手探りで進めていった。
稽古を終えると、蓮は湖のほとりに座り込んだ。直之も蓮の隣に座る。
「直之、いったいどこで稽古を積んだのじゃ?」
直之の表情が僅かに硬くなる。
「…私は生まれてすぐ親に捨てられ、五つの時に引き取られた武家の家で叩き込まれました。」
だが直之が十分な力を持つと、とある国の殿の補佐として引き立てられたのだ。
「今となってはその方は、兵としての人材を育てるつもりで、私を育てたにすぎないのかもしれません。」
実際その家には直之の他にも多くの子供がいた。その中でも直之は特に剣術に優れていたのだ。
「…やはりな。」
「は?」
「そなたは元々そのような才能があったのだ。やはり私の眼に狂いはなかったな。」
蓮は自信ありげに頷いた。直之はあまり褒められている気がせず苦笑する。
その時だった。
「お前は私と同じかもしれんな。」
呟くような声で蓮が言った。
「・・・え?」
「そろそろ戻るか。志津が心配する。」
直之は気になる隙もなく、すぐさま馬を取りに行く。蓮はまだ動かない。馬を引き、蓮の方を振り向く。
蓮は湖の遠くを見つめていた。その眼は直之が知る強気なものではなく、どこか切なげで、それ以上の感情を汲み取れない。
それは、直之がする眼と酷似していた。
直之に気づくと蓮は立ち上がり、すぐさま馬にまたがる。
「なにをしておる。帰るぞ。」
蓮の眼は直之の知っているそれに戻っていた。気になる直之だったが、何も言わず手綱を引いた。