第四話
直之が呆然としていると、蓮は直之に向けて何かを投げた。カランと音をたて傍に落ちたそれは木刀だった。
反射的にそれを拾ったと同時に、想像もしなかった言葉が耳に届いた。
「最後の相手は私だ。」
一瞬、直之は何を言われたのか分からなかった。危うく木刀を落としそうになる。
「それはどうゆうことで・・・」
言うより先に、蓮は直之に向けて木刀を振り上げた。間一髪で避け、刀は空を切る。
直之は改めて蓮の前に向き直るが、もう質問を受ける気は相手には無いことを直感的に悟る。
蓮は刀を構え、直之の動きを待っている。この姫は相当の手練れであることに直之は瞬時に理解した。
覚悟を決め、直之も蓮に向けて刀を構える。直之の目の色が変わる。先程の狩人の目だ。
だが蓮が怯える様子はない。お互いじりじりと間合いを詰め、相手の目を決して逃さない。しばらくの沈黙が流れる。そして勝負は一瞬だった。
お互いの隙を見て二人は一気に詰め寄り、刀を振り上げた。ほぼ同時だと思われた攻撃とは裏腹に、蓮の刀が宙に舞い、音を立て地面に落ちる。
そして、直之はそのまま刀の先を蓮に向ける。向けられた刃先を、蓮はじっと見つめる。
しかし直之はすぐに刀をおろして顔を俯かせる。刀をおろしたと同時に、僅かな後悔と安堵の息が漏れた。
これは蓮の側近を決める為の試合なのだ。強さも大事だが、蓮自身に気に入られなければ選ばれない。ここでは負けて、蓮の機嫌をとるのが正解だったのではないかと直之は思った。
しかし自分は武士だ。受けた勝負は勝つように努めることが自分の信念だ。ここで選ばれなくても悔いはない。
直之はほとんど諦めかけていた。きっと蓮は怒って出て行けと自分を追い出すに違いない。
しかしまたも直之は大きく驚かされた。蓮は直之の顔をまじまじと見つめ、
「お前、名は?」
気付けば考えるより先に反射的に答えていた。
「はっ、黒田直之と申します。」
そして蓮は納得したように大きく頷くと、直之の目をじっと見つめながら言った。
「そなたが今日から私の側近だ。」
「・・・は?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった直之は、思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
「二度も言わすな。私はお前を側近にすると言ったのだ。」
自分は失格だと思っていたので、蓮の思いがけない言葉に戸惑いを隠せない。
直之は常に冷静な男だ。感情に身を任せて暴走することなく、これまで心が乱れるような事も、ある時期を除いて一度もなかった。そんな直之が、自分より一回り近く歳が離れている少女に心を乱されるとは。
「今日から城に住め。住屋も用意してある。今からお前の仕事内容を伝える。ついて来い。」
蓮は直之の言葉を待たずに歩き始める。
慌ててついて行くと、蓮は慣れた手つきで馬にまたがり、綱を引くよう促す。
「今から行く所の道を教える。しっかり覚えろ。」
直之は戸惑いつつも手綱を手に持ち、冷静になろうと呼吸を整えると、静かに手綱を引き歩き始めた。
道中、蓮に気付かれないように顔を盗み見る。そして先程の事を思い出していた。
負けたとはいえ、蓮は相当な腕前であることに間違いはなかった。馬を撫でる手が、鍛錬を怠っていない証のように、刀を持つ形に変形している。
だが姫らしい優雅さを失うことはなく、形の変わっている箇所でさえも、蓮の気高さを引き立てているように思えた。
忠正の血を継いでいるというのもあるのだろうが、かなりの練習をしていることに間違いはない。今日集まった者たちの中にいても、決して劣ることはないだろう。一国の姫であるにもかかわらず、奥ゆかしく、おとなしい、か弱いといったものがないように思われる。
ますます訳が分からない。このように姫とは思えぬ、秘めたる強さを持った蓮がなぜ側近など雇おうとしたのだろうか。
蓮に指示される道を進むと、次第に木々に包まれ、備前の町が見えなくなってしまった。蓮は構うことなくどんどん奥に進んでゆく。
その後も森深くに進むと、突如視界が開け、直之の目にあるものが飛び込んできた。
そこは、一面見渡すことのできる小さな湖だった。鬱蒼と茂る木々に囲まれ、町の喧噪から離れたその場所は、時が止まっているかのような静けさだ。
透き通った水は、湖の底まで見通すことができる。水面に、淡い桃色と白を彩った花が咲いていた。確かあの花は睡蓮といった筈だ。
蓮は馬から降りると、直之の隣に立つ。ただでさえ直之は高い。その上蓮は人並より小さく思われるので、どうしても直之が蓮を見下げる形になってしまう。
「ここは町のはずれにある。誰にも見つからない。」
蓮は直之に向き直って告げる。
「直之。」
「はい。」
初めて名を呼ばれた。いや、それ以前に誰かに名を呼ばれるのが久方ぶりに思われた。
蓮の視線に合わせる為、足を曲げ蓮の前に屈む。そして蓮は言った。
「私の刀となれ。」
「私に剣術を教えること。それがそなたの主な役目だ。それ以外は側近として私に仕えろ。それとこの事は私とお前だけの秘密だ。決して他の者に話すな。城の者にばれたら止められるに決まっているからな。」
しばらくの沈黙が流れた。今、蓮はなんと言った。
「それはどういう・・・」
「先程の奴らは私に遠慮したのか、わざと負けおった。その様な者など私に本気で手ほどきなどできるわけがない。ゆえに直之、お前を選んだということだ。」
「いえ、そういう事ではなく・・・」
「大丈夫だ、お前は私が選んだ男だ。自信を持て。」
そう言って、蓮は湖の方へ歩き始める。
この姫様は気が強い上に自信家らしい。口をはさむ隙さえ与えない。
しかしこれでは埒が明かないので、直之は覚悟を決め言った。
「私がお聞きしたいのはなぜあなたが剣術を身につけたいのかということです。」
蓮の動きが止まる。だが直之の方へは振り向かない。
「あなた様はこの備前という一国の姫です。そのようなお方が人を殺めかねない事をなさるのは許されることではございません。」
蓮は黙って聞いている。
「城で姫様と刀を交わした時、驚きました。あれほどの腕前は才能だけでなく日々鍛錬を積まねばできるものではありません。それに・・・」
「分かっておる。」
今まで黙っていた蓮が口を開いた。その声が先程と違い真剣だった為、直之は口を噤む。
「それでも構わない。私にはやるべきことがある。」
たとえ、姫という地位が脅かされようとも。
たとえ、この手が血で汚れ、生涯消えなかったとしても。
「私には、やるべきことがあるのだ・・・。」
蓮の背中から伝わるのは、有無を言わせない気迫。そして揺らぎない決意。
蓮の意思は固いのだろう。蓮の拳が震えていた。それは恐怖から来るものではなく、怒りや決意の表れの震えだ。
蓮は直之の方に向き直り、言った。
「この事は決して誰にも言うでないぞ。その為にここで稽古をするのじゃ。わかったな。」
直之はすぐに返事ができない。おもわず蓮から視線をずらす。
蓮は心中を察したのか、
「無謀だと思っておるだろう。戦場も知らず、今まで城の中で平穏に暮らしてきたおなごが刀を持つなど。」
「・・・・・・。」
「お主がどう思おうと構わない。だが私の側近として仕える以上、私の命に従ってもらう。よいな。」
いつのまにか日が傾き、漆黒が空を包もうとしていた。次第に周りが闇に支配されていく。
だが蓮の覚悟の火が灯った瞳を直之が見失うことはなく、しばらく目を離せずにいた。