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宵闇の姫と朝焼けの騎士

作者: 千為



「それでね、花嫁の真っ白な衣装を着たカノンはすっごく綺麗だったんだ。いつも泥だらけで畑仕事をしてても村一番の美人なんだけど、今日はもっともっと綺麗だった」

 銀色の月が、雲間から大地を照らしている。

 手を少し伸ばしたら届いて、そのきらきらと輝く欠片を手に入れられる。正面に地平を、背後に万年雪の山の稜線を眺める、まるで険しい山の頂の一角となった冷たく暗い石の城の中に、不釣合いなほどに明るい少年の声が響いて消える。

「村の皆が集めた花を花束にしてさ、それをぽーんってカノンが放って。受け取ったひとが、次の幸せな花嫁になれるって」

「そう、素敵ね。きっと、花嫁さんが幸せだからそうしてあなたの目にも綺麗に見えたんだわ」

 広い城内に人気はなく、青白い炎が点々と蝋燭に灯されて辺りを照らす。遥か高み、空に一番近いバルコニーに、少年と少女はいた。

 少女のほうが少し、年嵩だろうか。夜空を切り取ったかの漆黒のドレスに白い肌を包み、ゆったりと長椅子に身を委ねている。その膝元に寄り添った少年が、身振り手振りを交えて一生懸命に少女へと話して聞かせているのだ。

 少女は言葉少なく、ほとんどが相槌に唇を動かすばかり。けれど、その淡く色づいた唇は絶えず笑みを浮かべていて、少年はそれが嬉しくてまた、言葉を続ける。

「うん、皆もそう言ってた。花嫁さんは、とっても幸せなのよって。だから」

 自分の目にして来た光景を、そのまま伝えられないのがもどかしい。そんな少年の気持ちはぐ、と握られた小さくて傷だらけの拳に現れている。

 それがとても微笑ましくて、少女は白い指先を伸ばして両手でそっと、彼の手を包み込んだ。

「だから、あのね」

 少しだけ、頬を赤くした。

 少年は触れ合う手に勇気を貰ったかのように、伸び上がって少女のほうへと顔を近づける。内緒話をするように、距離が縮まって少女もまた、少年へと身体を傾けた。

 二人しかいない。

 月だけが見ている場所で。

「大きくなったら、俺がエレシャをお嫁さんにする。エレシャを幸せにしてあげる」

 子ども心に真剣な眼差しに、少女の藍の眼が驚いたように丸く見開かれた。それから、

「ありがとう、ユド。大好きよ」

 とても綺麗に、はにかんだように眉を下げて彼女は微笑む。

 その笑顔だけでどんな花嫁さんよりも綺麗だから、きっと彼女の白い姿は世界で一番美しい。いつか少女はきっと誰よりも、何よりも綺麗で幸せな花嫁になる。

 少年はそう、信じていた。



1.ヤギ飼いユド



 灰狼山脈は、王国シアシャールの北の果てに連なる、溶けることを知らない雪と氷の秘境である。

 遠く、王都から臨む尾根の姿がちょうど巨大な狼が横たわっているように見えることからその名で呼ばれ、いまだ誰も越えたことのない頂の先には人ならざるものが棲む魔の世界だといにしえより言い伝えられていた。シアシャールの始祖、英雄王がかつて世界を支配した魔王を封じたとも寝物語に歌われる山脈は今も、名残りのように王国と睨み合う。

「ほぅら、あまり遠くに行くんじゃあないぞ」

 点々と。

 灰狼山脈の中でもちょうど遥か地平に王宮を見据える山一つの中腹に、遠目にもかすかにわかるほどに広がる緑と、雪とは異なる白が思い思いに駆けているのが見える。麓の村からも、慣れた者が時折ようよう息を切らせて上って来るだけの草原に、青年が一人、数十頭のヤギを遊ばせていた。

 ヤギの鳴き声と、ざわりと葉擦れの音が聞こえる。峰を通り過ぎる冷たい風が髪を撫でて行くのを感じながら、青年は静かに瞼を閉じる。

 朝早くに起きて、ヤギたちの様子を見て、乳を搾る。餌は山肌に生えた草で充分で、搾った乳は夕暮れにチーズやバターに加工をして、食べきれないぶんは何日か置きに麓の村へと下ろした。

 代わりにパンや、着るものや。そんなものと交換をして、また山に戻る。村の人たちは彼に「一緒に暮らそう」と勧めるけれど、ヤギ飼いである彼はそれにはけして、頷かなかった。

「お前また、村長さんの誘いを断ったんだって? ユド」

 明るい日差しに照らされた中で不意に、閉じた瞼の向こうで影が差した。頭上で誰かの草を踏む足音が聞こえる、と同時に降って来た声が自分の名を呼ぶのに青年──ユドはゆっくりと目を開く。

「や、ライル」

「や、じゃない。話をそらすな」

「そらすも何も、いつだって俺の答えは一緒だって。そんなことは村長さんもお前もわかっているくせに」

 淡い紫の瞳に、上から覗き込んで来るライルの金の眼が交わった。きらきらと陽の光に反射する金色の髪が眩しくて、逃げるようにユドは身体を起こす。

 年はユドと変わらない、十七、八。ただ、麻の着古した上下に革紐の靴を身につけるだけの彼とは異なり、ライルの纏うのはいつだって下ろし立てのような上等の白だった。その詰襟には、王家の紋章が控えめに輝いている。

「大体、王宮騎士様ともあろうお方がわざわざこんなところに足を運んできて、言うのがそれか?」

 青々とした若草が、寝転んでいた髪に絡みつく。

 それを無造作に払いながら、ユドは小さな笑みを口元へと浮かべた。からかい混じりの表情でライルを見上げてやれば、彼はひょいと肩を竦めてユドの隣へと腰を下ろす。

「騎士だろうが何だろうが、幼馴染の心配をして何が悪い。それに、一応これも公務の一つだからな」

「ヤギ飼いに、家業の廃業を勧めることがか?」

「こんな、魔物だらけの場所でなく、安全な場所で暮らせと勧めているだけだ。放牧まで止めろとは、誰も言っていないだろう」

 白の制服に、王家の紋章は王宮騎士の何よりの証だ。ただの里帰りにそんなものは着てこないことは、ユドだって知っている。

 昔から生真面目で融通の利かなかったこの幼馴染が、それを着るようになってますます固くなった。王宮勤めとはそういうものなのか、彼には良くわからない。

(少なくとも、俺には向いていない)

 悪戯に髪を食む。仔ヤギの頭をそっと撫でやりながらユドはゆっくりと言葉を返す。

「こいつらにはここの草が一番なんだ。それに、魔物だって別にむやみやたらに人を襲うわけじゃない」

「お前はまた、そういうことを」

「魔物だって、野生の獣と同じだ。自分の棲み処を荒らされたりすれば牙を向いて当然だし、腹が減れば餌を探す。心得ていれば、街の人間が言うほど危険じゃない」

 山を越える、その向こうには魔物の大地がある。誰も、山脈を越えたことなどないのに疑うこともしないのは、ちょうど狼の耳の部分が魔王の眠るおとぎ話の石の城にも見えるからかもしれない。

「お前は、城に仕える気はないのかユド。お前の腕ならすぐに正騎士になれるのに」

「──今夜は、村に泊まるんだろう?」

 困ったように眉を下げて、そのまま幼馴染へと振り返れば聞き分けのない子どもを諭すような、そんなふうに映ったのかも知れない。ライルが、精悍な顔立ちに拗ねた色を滲ませて、身体を起こす。

「俺も久しぶりに村へ行くから、何か美味いものでも食おう」

「王宮騎士を荷物持ちにか」

 ぽん、とユドが白い肩を叩くと、軽い笑いがライルの口から零れた。

 いつだって堂々巡りのやりとりには、いつだってこうして幕を引くのが二人の間での常だった。だから、ぴゅーい、とヤギたちを招くように指笛を鳴らしたユドもまた、親友へと笑って返す。

「幼馴染、だからな」

 使えるものは使うんだよ、と冗句混じりに。



 灰狼山脈の麓にその村はある。シアシャールの最北の村には名前などなく、灰狼の村と告げればそれで済んでしまうほどの小さな小さな村だ。

 英雄王の守りも殆ど届かない村は貧しく、魔物のみならず野生の獣の被害も多いけれど、村に暮らす人々はその自然の営みの中で慎ましやかに暮らしている。

「夜の騎士?」

 村に唯一の古ぼけた酒場に、初老の男の声が響いた。

 叫んだわけでもないのに、腹の深くから生まれるような声は店の賑わいの中でも一際に耳に届く。

「何だそりゃあ、魔物の仲間か。長いことここに住んでいるが、そんなもん見たことも聞いたこともない」

「魔物の仲間と言えばそうだろうと思いますよ、サガン師匠。何でも全身黒の鎧姿、手にする剣の刃までも黒。狼の首へ辿り着く猛者を一刀に伏してしまうとか。背丈も鎧以外の姿も人間と変わらないものの、音もなく気配もなく。魔王の側近ではないか、と言われています」

「──随分と、詳しいんだな」

 娯楽のない村では、酒場が唯一の村人の楽しみだ。

 男も女も、老人も子どもも一日の仕事が終われば皆がここへと集まってくる。どのテーブルも客で埋め尽くされた中、カウンターの一角でユドとライル、そしてサガンが料理を突いている。

 サガンは二人の、剣の師匠だった。元は騎士だと言う白髪混じり、初老の雰囲気の男で、二人だけでなくもう長いこと、村の子どもたちに剣を教えている。

「目撃者が、多いからな。正確には、生存者か」

「狼の首と言やぁ、魔王の城まですぐだ。そんなところで魔物に剣を向けて無事とは、奇妙なもんだな」

 ふむ、とサガンは思案顔で顎をさする。ライルはと言えば深刻そうな面持ち、眉間へと皺を刻んで相槌に頷いた。「騎士」の顔をしている。

 ぼんやりと彼の横顔を眺めて、ユドはほとんど酒気のない果実酒を口へと運んだ。

「その、騎士、が。倒した後に問うそうですよ」

──引くか、引かぬか。

 引かなば斬る、と言うことらしい。

 実際、そこで彼に恐れをなして逃げたものは皆、生きて山を下りている。奇妙なことに、魔物一匹にすら出くわすことなく。

「騎士が、魔物にも言いつけてる、ってことか」

「俺はありえないと思っている、魔物にそんな知能があるだなんて。実際今夜も、それを確かめるために何人か山に長けた騎士が狼の首を目指しているんだ」

「それで、お前もここに来たのかい? ライル」

 ええ、とライルはサガンの問い掛けに素直に頷いた。

 ユドの山小屋にも、騎士服で訪れた理由はそういうこと、なのだろう。王宮からでは、この村を訪れるには道行きが心もとない。だから、出身者であるライルを連れて来た。

「本当は、山も一緒に登ったほうがとは言ったのですが、俺はまだ正騎士になって日が浅いので、と。それに、陛下に頼まれたこともありましたし」

 果実酒を一口、喉へと流し込んで言葉を切ったライルは、ちら、とユドへと視線を流す。

「ユドを、騎士に、と。サガン師匠の一番弟子ならばぜひ傍に召し抱えたいと」

「断る」

 昼間にしたのと同じ会話だ。

 しかし今度は、話をそらさずにユドは即座に答えを返す。静かに、果実酒の器をテーブルへと置いて、彼はそのまま腰を上げた。

 サガンへと紫の視線を向ければ、しかし彼らの師匠は知らぬ振りで食事の手を止めたりはしない。ユドは一つ吐息を零して、首を左右に振った。

「サガン師匠の一番弟子はお前だ。それに、俺は魔物は全て倒すべきだって言う、今の王宮の考え方には馴染めない。それはお前が一番に知っていることだろう?」

「そうだが、でも」

「出産が近いヤギがいるんだ。この話を続けるなら、俺は帰るよ」

 堂々巡りは、昼間で充分に互いにわかっている。ライルとしても、職務なのだから国王に請われれば従わないわけにはいかない。しかしユドにはそのつもりはなかったし、生まれ育った小屋を離れない、理由もあった。

(それを言えばもっと、喧嘩になるんだろうな)

 だから彼は、誰にも言わない。

 早くに死んだ両親の残してくれたヤギを言い訳にするのは心苦しくても、ライルが騎士の誇りと忠誠を守るように、ユドにも何に変えても守りたいものが、あった。



 夜の騎士は、月明かりのない、深い霧の中を一人雪を踏んで歩く。

 傍らには馬ほどの大きさの、毛並み艶やかな黒の狼が寄り添っており、一人と一匹は王の強すぎる魔力から溢れ出た淡い白の霧を纏いながら山を登る。

 懲りずに人間が、狼の首を目指している。山に暮らす魔物たちがそう騒いでいたのは数刻前、既に腹を越えて背に近づいていると騎士が駆けつけた時には彼らもいきり立っていた。少ない木々や草を踏み荒らし、静寂の霧を炎が散らす。異形を殺した数が栄誉とばかりに剣を振るわれて腹を立てないものなどないだろう。

「──近いな」

 どれくらい、歩いたろうか。

 見上げるすぐ間近に、狼の耳を仰ぐ。森が開けて岩肌の覗く斜面へと足を踏み出した時、遠くに彼は人の声と足音を聞いた。

 山にそう慣れていないのだろう、疲労に支配されて足を引きずるような革の靴音と、まだ新しい血の匂いとが風に乗って届く。獣のほうが騎士よりも敏く、既に金色の眼をそちらへと向けて低く、喉奥で唸り声を上げていた。

「ファティ、落ち着いて。飛びかかったりするなよ」

『わかっている、お前こそしくじるな』

「大丈夫」

 人ならざる声が鼓膜を震わせて、騎士は仮面の下で微苦笑を零す。  

 しかしはっきりと、人の声が内容まで聞こえる距離まで近づくと彼は手を腰に佩いた剣の柄へと滑らせた。岩と、夜の闇とにファティと呼んだ獣を隠し、すらりと鞘から剣を抜き放つ。

 月明かりはなく、霧で当然のように視界は悪い。その中にあって、人間の持つ炎だけがここにいる、と知らせるようにぼんやりと揺れていた。騎士は気配なく、足音なく、静かに炎へと歩み寄り、

「誰だッ!」

 まずは炎を、切り落とす。

 灯りに頼り、暗い森や山を駆けたこともない。騎士が慌てたように声を上げるのに、騎士は声もなく笑った。これならば、名声目当ての冒険者のほうがよほど、腹が据わっている。

 騎士は炎の熱をわずかに移した刃を、人間の首筋へと押し当てた。人間は二人、とりあえずと手近のほうへ視線を向けたら、詰襟の端に金色に光る紋章が見えた。

(ああ、)

 良く見たことがある。とは内心でだけ思う。

「誰だ、とはこちらの台詞だな人間。我らが同胞の血の匂いを纏い、よくも我らが王の膝元にまで堂々とやってこれたものだ」

 騎士の、闇に慣れた目にははっきりと人間の姿が見て取れる。

 研ぎ澄まされた嗅覚は魔物には劣るものの、しっかりと血生臭さを感じ取る。人のものでも、獣のものでもない、魔物の血を、この人間たちは帯びている。

「お、王だと…? 魔物の分際で、笑わせてくれる。この大地の王はシアシャールの王、貴様らの王とやらを封じた英雄王の正統なる末裔ただお一人だ!」

「人の王に魔は仕えぬ。悪いことは言わない、早急にもと来た道を帰るならば、山を降りるまでの命の保障くらいはしてやろう」

「笑止! 魔物の言うことなど誰が聞くか。貴様など、我ら王宮の精鋭騎士に掛かればひとたまりもないっ」

「ひとたまりもない、か。ならば、」

 仮面の下で、騎士の深い紫の双眸が細くなった。

 闇に目も慣れていないだろうに、矜持だけは高い。口々に声高に叫ぶ騎士たちは、人数の優位もあれば強気であった。ここまで、幾匹かの魔物を殺したことも自信となっていたのかもしれない。しかし、そんなものは騎士にとっては何の意味もなさない。

「命を奪った対価、貰うこととしよう」

 ひ、と。小さく鳴ったのは人間の喉だ。

 騎士の剣が、添えた喉元からわずかに閃く。命が二つ、消えるにはそれだけで充分だった。どさりと重い荷物のくず折れる音が聞こえた時にはもう、騎士は人間のほうなど見てはいない。

「身体は、人間たちに返しておやり。──ファティ」

『相変わらず、我ら以上に容赦がないなお前は』

 人間の血に寄って来た、小さな魔物たちに柔らかな声を掛ける。

 騎士は岩場から姿を現した狼の背に、剣を収めて軽やかに飛び乗った。心得ている、狼も彼を振り落としたりはせずにく、と笑う。

『さて、帰るとするか。我らの姫がお前を待っている』

「……ああ、そうだな」

 帰ろう、と騎士が頷く。

 それを合図として、狼が力強く地を蹴り一陣の風のよう、駆け出した。



2.朝焼けの騎士と宵闇の姫



「おかえりなさい!」

 ファティがふわり、風と霧とを孕んで城のバルコニーへと降り立った瞬間、明るい少女の声が重い金属の音ともに一人と一匹を出迎えた。

 銀色の長い髪を狼の首筋に埋めて、労わるように少女は長い鼻筋へと口付けを落とす。ファティは嬉しそうに金眼を細め、騎士はそれを眺めながらやはり軽やかに獣の背から身を滑らせる。

「ただいま、戻りました。姫」

「もう、その呼び方は止めてといつも言っているのに。わかっていてやっているでしょ」

「まさか、俺がそんなことをするとでも」

 ファティから離れたエレシャは、ドレスの裾を翻して騎士の前に立つ。変わらず、少女が歩くたびに足元からじゃらりと重い音がしたけれど、それを誰が気にすることもない。

 いつの間にか、見下ろしていたはずが見上げるようになってしまった。頭一つ以上背の高い彼の、顔を隠す仮面へと彼女は手を伸ばすと纏う鎧と同じ黒髪が流れ、仮面の下で淡い紫の双眸が楽しげに笑っていた。

「だってユドは、意地悪だもの。昔はあんなに可愛かったのに」

「子どもなんて皆、そういうものだよ。それとも、今の俺じゃあ、エレシャは花嫁さんにはなってくれない?」

「小さなユドじゃ、もっと私はお嫁さんにはなれないわ」

 ユドは、エレシャの細い腰へと腕を回して軽々と彼女を横に抱き上げる。そこに王宮騎士を一瞬で斬り捨てた夜の騎士の面影はなく、二人微笑み合う姿はただ、若い恋人たちの優しい逢瀬以外の何ものでもない。

 紫と藍の瞳を重ねる二人をからかうように、ファティが柔らかな身体で包み込む。エレシャが落ちないようにと、自分の首へと両腕を絡めるのを確かめてから、ユドはゆっくりと城の中へと歩き出した。

「ユドもファティも、怪我はない? 人間の血の匂いが、混じっている」

 城の中は薄暗く、山の中以上に霧が深く立ち込めている。山の中に溢れる霧はこの城から流れ出たものであり、今、ユドの腕の中にいる。少女から零れ落ちているものであった。

 一歩一歩、歩くたびに案内をするように燭台に青い炎が灯る。時折、魔物たちが姿を見せてはユドとエレシャへと恭しく頭を垂れた。

「どちらも、怪我をしていないよ。血の匂いは、王宮騎士たちのものだ」

「王宮騎士──人間の王が、兵を差し向けたの」

「差し向けたというほど大勢じゃあない。噂の夜の騎士の正体を確かめに来た、と言うところかな」

『お前が夜の騎士、とは人間とは異なものだ』

 狭い石造りの階段を、ゆっくりと下りて行く。

 暫くの階下を下りたところで見えた扉を、ファティが鼻先で押し開いた。暗く、仄かに青い光を帯びた広間がそこには広がっている。赤い天鵞絨の絨毯が真っ直ぐに伸びた、先にある深紅の玉座へとユドはエレシャを座らせた。そうして自分は、彼女の足元へと静かに跪く。

「ユドの目は、綺麗な朝焼けの色なのにね」

「人間は、俺の顔を知らないから仕方がない。知らせる必要もないことだけれど」

「ユドも──人間だわ」

 エレシャの藍色の瞳が、寂しげに揺れた。

「人間には魔物と呼ばれ、魔物には人間と言われる。か」

『そしていずれは魔王の伴侶か。数奇だな』

「全くだ」

 ユドと同じようにエレシャの足元に侍ったファティが、可笑しそうに笑う。ユドはそれに相槌を打ちながら、ファティの喉元をそうと撫でてやる。

「それにしても、人間の王は……忘れてしまったのかしら」

 瞼を伏せると、銀色の睫毛が白いエレシャの頬に影を差す。ぽつり、と呟いて彼女が自身の足首へと手を伸ばして触れる。レースに縁取られた豪奢な裾を少し、持ち上げると覗く細い足には、酷く不釣合いな鎖が巻き付いていた。鎖は彼女を縛り捕らえ、しかし虚空へとその先は消えていて目で追うことは出来ない。

「それとも、どうして私が目覚めてしまったのか。その理由さえわからないほど、長い年月が流れたということなのかしら」

「エレシャ」

 冷たく硬い鎖を、撫でるエレシャの指先にユドが掌を重ねる。自分の温もりを伝えるように、しっかりと小さな掌を捕まえて胸元へと引き寄せた。

 彼の動きに惹かれたように顔を上げたエレシャは、そのまま。まるで強くユドに手を引かれたというふうに、玉座から彼の胸元へと身を寄せて首筋へと顔を埋める。銀糸の髪が漆黒の鎧に散って、きらきらと光って流れ落ちる。

「私は“彼”が世界を魔物も人もない世界にすると約束をしたから、彼が手を差し伸べてくれたから約束の代価に人を憎むことを止めたのに。ただ、この城の中に囚われて残りの時を静かに過ごすことを約束したのに」

『人間の王は、わかってはいない。何故我らが人間を喰らうのか。何故姫が眠りから覚めてしまったのかも。全て、全てが』

 ユドは、腕の中にすっぽりと納まってしまう少女の細い肩をそっと抱き締めた。柔らかなレースの襟から覗く首筋など今にも折れてしまいそうな彼女を、誰が遠い昔話の魔王だと思うだろう。人々を恐怖へ陥れ、英雄王に討たれた魔王が、けれどこんなにも世界を思い、魔物たちに慕われている。

(人間は、これを見て何を思うのだろう)

 魔物に、魔王に人と同じ心などないと笑うだろうか。

 それでもやっぱり、エレシャを恐れるだろうか。

「人は、言葉の通じない、自分たちとは形の違うものを恐れるから。だけど、エレシャ、俺は君との約束を守る。きっと、きっと……英雄王の約束を覚えている人間もいるはずだ」

「ユド」

「俺には、エレシャを護り、傍にいることしか出来ないけど。俺は、確かに知っているから」

 エレシャと魔物を守るために人を傷つける刃を振るうことが正しいとは、ユドは思ってはいない。彼がサガンから教わったのは、身を守る剣だ。人を殺す剣ではない。

 大事な人を守りたいから、と言うそれは理由にはならない。だからもう、自分はサガンの弟子ではないと、少なくともユドはそう、決めている。

「君が誰よりも優しいことを、知っているから」

 


 父も祖父も曽祖父も、ユドの家は代々灰狼山脈の中腹に小屋を構えるヤギ飼いだった。

 母は早くに死に、父は麓の村にチーズを運ぶ途中に魔物に襲われた。両親の顔はぼんやりとしか覚えておらず、育ててくれた祖父も彼が十になる前に病で亡くなった。ひとりぼっちになったこと。それ自体はとても寂しかったけれど、麓の村にはライルやサガンがいて、ヤギたちには懐かれていたから、ユドはそれで充分だった。

 エレシャと出会ったのは、祖父が亡くなってすぐの頃だ。

 雨の日に、生まれて間もない仔ヤギが一匹迷子になった。それを探して山脈の深くへと生まれて初めて足を踏み入れた。

「山には恐ろしい魔物と魔王がいる。だからけして入ってはいけないよ」

 祖父にも、村の大人たちにも散々言われていたことだったが、魔物は何故かユドを襲ったりはしなかった。子どもの足でどう歩いたのか、月が沈んで朝日が昇る頃、彼は魔王の城の入口に立っていた。

「……誰か、いるの」

 ユドの背丈よりもずっと大きな扉は、小さな人か獣ひとり通れるくらいに開いていた。その先に人の声と、ヤギの聞き慣れた鳴き声が聞こえて、恐怖よりも好奇心が勝る。

「あら。お前の飼い主かしら……随分と可愛らしいヤギ飼いさんね」

 薄暗い城の中に、ぼんやりとヤギの白い体が浮かび上がる。その傍らに、ヤギの鼻先を撫でて笑う。銀色の少女がしゃがみ込んでいた。

 少女はすぐにユドに気づき、藍色の眼を彼へと向けた。いらっしゃい、とそっと手招く仕草が少年の知っているどの女の人とも違っていて、どきりと心臓が跳ねる。

「私は、エレシャ。あなたのお名前は? ヤギ飼いさん」

 花開くように、微笑む少女に、ユドは恥ずかしくて何も答えられなかった。

──今にして思えば、それはユドの初恋だったのだろう。



 にわかに麓の村が騒がしくなったのは、ライルが村へ留まるようになって五日目のことだった。

 あの日、ライルが上官である騎士を見送った翌朝、彼らは意気揚々と戦果を語ることもなく、物言わぬ亡骸となって村の傍に捨て置かれているのを発見された。ただ、剣の一太刀で倒されたらしい様子に村の人々も流石に怯え、ライル一人と言え騎士であれば暫く留まって欲しい。彼は村長にそう懇願されて文を、王都に向けて認めた。

 その文の返事が届いたのである。

「陛下が、決断された」

 村人の好機の目を避けるように。あるいは今一度ユドに請うつもりだったのかもしれない。ユドのヤギ小屋で王家の紋章の入った文を読み終えたライルはそう、深い溜息を吐いた。

 丁寧に文を畳んで懐へとしまう親友を横目に、ユドは手製のチーズを一切れ気のない素振りで口へと放り込む。

「陛下直々の親書とは、お前も出世したものだな」

「覚えはめでたいかもしれないけれど、残念ながらこれは陛下からの親書じゃあない。騎士隊長閣下からのものだ」

「どちらにしろ、俺には雲の上の方々だ」

「茶化すなよ、ユド。それより」

 ユドの放ったチーズを受け取って、一口を齧ることで一呼吸を置く。

「陛下は──魔王の城討伐を決意された。それも、早急に」

「──…何で、また」

 他に誰がいるわけでもないのに、ライルが声を顰めた。小屋はさほど広いわけでもなく、充分に声は届くのにテーブル越しのユドへと上体を傾けて顔を寄せる。その顔はあまりにも真剣でいて、ましてライルは冗談などを言える男ではない。

 ごくり。

 チーズを飲み込んだばかりの喉がやけに渇いて、ユドの喉は水を求めるように大きく上下に震えた。

「魔物の被害と、王国の結界が弱くなって来ていることが原因だろうな。王都のまじない師や神官はそれを魔王の目覚めの兆候だと言っているし、ここに来て騎士にも被害が及んだ。魔王の実在はともかく、山脈の魔物を一掃出来れば民の不安は解消される」

 今この国の王は若い。

 実権を握っているとは言っても、先代からの老臣たちの中には若き王を軽んじる風潮もある。それを、見返してやりたい焦りもあるのだろう。

「シアシャールの結界が弱くなっているのは魔王のせいじゃない。魔物たちだって、生きて行く以上の殺生なんかしやしない。家族や仲間を殺されて怒るのは、何も人間だけに許された感情じゃない」

「ユ……」

「王は、この国の興りを忘れたのか。英雄王の約束の意味を学ばなかったのか。人間以外をこの大地の命と思わないならそんなものはかつての魔王と変わらない」

「ユド!」

「──っ、」

 ライルに鋭く名を呼ばれて、ユドは我に返った。

 どれだけ力を篭めていたのか、きつく握った拳がまっしろに血の気を失い、爪先が掌へと食い込んでいた。指をゆっくりと解いていくと、徐々に肌は血色を取り戻し、じんわりと爪の痛みが滲んで広がる。

「悪い。少し熱くなり過ぎた」

 同時に、頭に上った血も一息に冷めて行った。

「だけど、本当に。俺はそんなことで解決するとは思わない。そんなものは魔物の怒りを煽るだけだ、きっと」

「そんなことは、やってみないとわからない。陛下だって、かの英雄王の末裔たるお方だ、魔を滅する血を引いていらっしゃるよ」

 人間がシアシャールを、王を守りたいと思うようにただ、魔物とてあの少女を守りたいだけなのだ。あの少女の、最後の眠りを邪魔したくはないだけなのだ。

 それがわかれば、魔物とて怖くはないのに。それがわかったから、英雄王と魔王は「約束」を交わしたのに。

「ならば俺は、やっぱり今の国王とは相容れないのかもしれない」

 どんなに幼馴染が請おうとも、人の王のためには剣を振るえない。ユドの願いは人間のものではなく、魔物のそれにとても、近い。

 後はもう、日暮れに鳥が高く低く歌うまでユドとライル、二人の間には気まずいままの沈黙だけが流れていた。



3.暮れる空 沈む月



 少女は、生れ落ちたその時から既に魔の王だった。

 小さな器に有り余る魔力は溢れ出し、世界を満たし、暗闇の世界に人々は少女とその同胞たる異形の生き物を憎み恐れた。

 少女は、生れ落ちたその時から既に魔の王だった。

 故にどうして、そこにあるだけで自分が憎まれるのかがわからなかった。

 その力は世界だけでなく、少女自身をも蝕む強大な力であったのに。

 被害者こそは自分だと、差し伸べる手を拒まれるなら憎んでしまえと。

 絶望した少女に差した一つ目の光は、厳しくも温かな光だった。後に英雄王と呼ばれる光と、少女は一つの約束を交わした。光と少女の願いは、確かに同じものだった。

 目覚めた少女に差した二つ目の光は、穏やかで優しい光だった。叶えられなかった約束に嘆いた少女が見つけた、それは約束の形にとても似ていた。

 だから、その手を離せなかった。

 彼を、不幸にしてしまうとわかっていても。

(今も、その手を離せないでいる)



 夜明けを待って、灰狼山脈は狼の耳に向けて進軍を開始する。

 若き王の号令の下、小さな村には王宮騎士が溢れ返っていた。老獪な、魔物との戦いに馴れた者もいればまだ、見習いから上がりたての者もいる。揃いの白い鎧を身に纏い、磨き上げられた剣を帯び、真紅の王旗を青空に閃かせる。

「サガン師匠」

 その、純白の一団から一人、ライルが村人の中にサガンを見つけて駆けて来た。幾人かの、見知った顔に挨拶などしていたサガンは、弟子の姿に一つ頷いて返す。

「随分と立派ななりだな、先鋒部隊だって」

「ただの案内役です。この中で山に一番詳しいのは、俺ですから。それより」

 金色の髪を揺らして、青年は頭を左右に振った。

 そう多くもない村人たちで出来上がった人だかりの中に、誰かを探すように視線を彷徨わせる。それで、サガンにはライルが誰を探しているのかはすぐに知れて、ひょいと彼は肩を竦めて見せた。

「ユドなら、昨日から見ていないぞ。昨日も、カノンのところに顔を出していたみたいだが、酒場には来なかった」

「……小屋にもいないんです。ヤギも一匹もいなくなっていて、すっかり全部きれいに片付いていて」

「陛下はまだ、諦めていないのか」

 サガンの一番弟子を、騎士に迎えたい。何度もライルを通して告げられている王の願いを、サガンも知らないわけではない。そして当然のように、ユドが何と答えているかも知っている。剣の師匠としては騎士にするために教えたわけではないから、ライルのようそれを志すことは嬉しいと思うものの、逆にそれを拒むこともまた良し、だと考えている。

(ただ、)

 サガンは、山の中腹へと視線を向けた。

 朝霧に紛れて、道も途中で途切れ小屋など見えるはずもない。幼い頃に両親を亡くしてもずっと、たった一人で生きて来た少年は、今何処にいるのだろうか。目の前にいる、金色の弟子とはまた違う。深い決意をずっと自分の胸の中に秘めているような子どもだった。

 ふう、と溜息を零してサガンはライルへと視線を戻す。

「あいつは陛下の、人間の騎士にはならんだろうな」

「俺も、言われました。陛下の考えとは相容れない。シアシャールの混乱は魔王のせいじゃない、と」

「そう、か。なあ、ライル」

 ぽん、と。サガンはライルの、自分よりも少しだけ高い位置にある肩を叩く。不思議そうに、青を瞬かせる弟子のさまに、師匠は小さな笑いを浮かべて肩を揺らした。

「正直、俺もこの戦い、陛下のほうに正義があるとは思えん。陛下は、いや、人間は世界の約束を忘れてしまってる。約束を破られて、向こうだけが守る義理はなかろう」

「世界の、約束……?」

「若いもんは、忘れちまってるんだろうなぁ。だから、魔王は怒っているのかもしれん。だが、俺は人間が魔物を恐れる。その気持ちも充分にわかっているつもりだ」

 恐れを消すには、両者には違いがありすぎたし、そのための歩みよりもこの長い時間、してこなかったのだ。

 何もなく、ただどちらも変わりないと言える者はきっと、この国にはまだ稀有なのだろう。

「だから、きちんと話を聞いてやれ。きちんと向き合ってやれ。そこから何が生まれるのか、どうするのかは俺のような年寄りの知ったこっちゃあない。お前や陛下や……ユドみたいな若いもんが考えていくもんだ」

「師匠、それは」

「ほら、そろそろ出発だろう」

 遠く、雑踏の中から誰かがライルを呼ぶ声がする。

「それじゃあ、行って来ます」

 彼は、サガンへと深く頭を垂れて駆け足で踵を返す。

 皆が同じ出で立ちの騎士団の中へと紛れてしまえばもう、サガンにもライルがどこにいるのかはわからない。

 出立を告げる笛の音が、朗々と、まるで狼の遠吠えのように小さな村と、朝霧の山脈とにこだまして消える。遠く、山々にも、届いているのだろうか。獣たちの吼える、鳴き声がかすかに聞こえた気がした。



 目覚めと、まどろみとの間にエレシャはいる。

 とろとろと、自分の中から溢れて零れ落ちる魔力は彼女の命と同じだった。命はエレシャが形作られた時から既に終りへと向かっていて、人間が刃を向けずともいつかは何もせずに魔王はこの大地から消えるはずだった。その時間はとても長く、たくさんの時間を生きられない人間には我慢がならなかった。

 それは、エレシャにもわかっている。

「──…綺麗、ね」

 重い身体を、長椅子に横たえる。

 エレシャの目の前に、ふわり、純白のレースが広がった。魔王の城は暗く闇色に溢れていて、混じりけのない白は柔らかな光を抱くようで何だか眩しかった。

「カノンに、借りて来たんだ。俺の大事なひとに、着せてあげたいってそう、頼んで」

「私に似合うかしら」

「きっと。エレシャの銀の髪とお揃いで、とっても綺麗だ」

 ユドは、壊れ物を扱うように広げたドレスを、伸ばされる少女の指先へ届けてやる。身体へと宛がってみれば、細腕が大事そうに衣装を抱き締めた。

 その姿に、傍に控えていたファティが鼻先で姿見を押しやって主の姿が映るようにする。花嫁の純白よりも、なお白い。エレシャの顔色が際立って少し、ユドは浮かべた笑みの眉を下げた。

「私、やっとユドのお嫁さんになれるのね」

「約束したろう? エレシャを幸せな花嫁さんにするって。あの頃の俺はまだ子どもだったけど、今ならエレシャを、この手で守ることが出来る」

「ユドはいつだって、私を守ってくれているわ」

 エレシャはゆっくりと、身体を起こす。

 ユドは、それを助けるように彼女の背へと腕を回し、そのままいつものように軽い身体を抱き上げた。そうしてバルコニーから広がる景色は彼の瞳と同じ、朝焼けの紫に染まっている。

 静かな山間に、今日はあちらこちらと、獣たちの声が響く。見下ろす大地は雲と霧に覆われて何かを見つけることは出来ないけれど、白い、人の王の騎士の一団がユドには見えるような気がしていた。

「皆は……逃げたかしら」

「伝えられるだけは夕べ、山の向こうへ行くようにと告げた。王を守るために引かないと、聞き分けのないのが多くて苦労をしたよ。城の中にはまだ少し、残っているけどそれは仕方がないね」

「優しい子、ばかり」

 私なんかのために、とはエレシャは言わない。

 不甲斐ない王ではあるけれど、皆には生きていて欲しいけれど、王を守りたいと思ってくれる、その魔物たちの気持ちを無碍にはしたくはない。魔王のために命を落とすな、ではなく、人の手になど掛かって死ぬな。それが正しいのかも、知れなかった。

「だから、ユドも」

 逞しい腕の中で、エレシャはそっとユドを見上げた。

 凛として真っ直ぐな、彼の全てが彼女は好きだった。自分が突き放して手放せば、彼までもが自分のように闇色に身を包むことはなかっただろう。わかっていても、そうは出来なかったのはエレシャの我儘だ。

 ユドにしても、彼女がいくら突き放したところで城へ来ることをやめたりはしなかっただろう。ここへ来てはいけない、と。幼い彼にエレシャは何度も繰り返しそう告げていた。

「無事で、戻って来て」

「必ず、帰って来るよ」

 彼女の視線に気づいたユドが、応えるようにこちらを見やる。

 互いの眼差しが交われば、自然とユドは身体を屈め、エレシャは少しだけ伸び上がった。そうして、どちらからともなく触れるだけの、キスをする。


──約束、しよう。



4.世界の約束



 王宮騎士の行軍は、慣れぬ山道を行くという以外、魔物にも獣にも、小動物の一匹にすら出会わぬほどに何事もないものだった。

 鬱蒼と生い茂る木々の中、徐々に濃くなって行く霧はそれこそが目的地へと近づいている証でもあり、自分たちの他に気配のない山道は却って不気味さを増して途中、進むことを諦める者も少なくはない。魔王の存在の有無はさておき、かつての英雄王の再来の瞬間を見ることが出来るかもしれない。そんな興奮だけが、騎士たちの背を押し続けた。

「人間は何を、望むんだろう。この先に」

 夜の騎士。ユドは傾き始める日とともに人の気配の近づくのを、その身に確かに感じている。時折、魔物たちが侵入者の位置を知らせてくれ、若き王と金色の騎士のいることも既に彼には知れていた。

 魔王の城を背後に頂き、冷たい風吹きすさぶ荒野にファティを伴って膝を着く。仮面の下、瞼を閉じてじっと、白い騎士団の訪れを待った。

「夜の騎士……!」

 どれくらいの、時が経ったのか。

 聞き慣れた声が風を切り、聞いたこともないほどに厳しい色を伴って彼を呼ぶのに、ユドは目を開き、緩慢な動作で顔を持ち上げた。日暮れの闇の中にぼんやりと白が浮かび、王の紋章を描いた旗が翻る。栗毛の馬が一頭、若い青年を乗せて先頭に立つ。その、手綱を握っている幼馴染の姿に知らず、彼は笑みを零していた。

「約束を忘れし人の王よ」

 威嚇するように唸る、フェティの首筋を窘めるように触れた後にユドは腰を上げた。風に掻き消されないよう、ゆっくりと、明瞭に言葉を紡ぐ。

「我ら、刃を向けられない限り争いの意思はない。それは、ここに至る道で証立てをしたつもりだ。今すぐに──引き返しては貰えないだろうか」

「あ、争いの意思はないだと? 我々の仲間を殺したことを忘れたというのか。そもそも、人間が魔物と何を約束するというのだ!」

 震える声は、争いの場に立ったことがないためだろう。初めて見た、自分と大差ない年頃の王の返答につい、失望の吐息の零れるのをユドは隠せなかった。

 ちらり、王の傍らのライルを見ればその表情が妙に強張って見える。

(ああ、気づいたんだろうか)

 ずっと、時間を一緒に過ごして来た幼馴染だ。どれだけ口調を変えたとしても、気づかないはずはない。きっと自分がライルの立場でもそうだ。ユドは、被る仮面の縁を撫でてまた口を開く。

「何故、人の国を守る結界が弱まったのか。何故、永い眠りから我らの王が目覚めたのか。今、はっきりとわかった、人の王よ」

 若い、王だ。

 先代が流行り病で突として亡くなって後を継がざるを得なくなった。学ぶべき帝王学も、伝えるべき慣習も知らないまま玉座に着いたのかもしれない。しかし、そこから先。学ぶ機会は幾らでもあったろう。

「全て──あなたのせいだ」

 きっぱりと、言い切った次の瞬間。

『ユド!』

 鋭い切っ先が、漆黒の仮面へと伸びて弾き飛ばす。

 ユドが横へ飛びずさるのとファティが声を上げるのとはほとんど同時で、ざ、と岩肌と靴底とに砂埃を巻き上げて彼はとっさに体勢を立て直した。右の頬に軽い痛みを感じているのは、刃が掠ったせいかも知れない。

「不意打ちとは不躾だな……ライル」

「どうして!」

 乾いた音を立てて、仮面が大地へと落ちる。

 良く磨かれた剣先をユドへと、否、夜の騎士へと向けたのはライルだった。隠された顔が覗き、名を呼ばれたことで疑念が確信に変わる。それでもまだ、信じられないというようにライルは大きく頭を振った。

「どうして? どうして俺が夜の騎士かって? それともどうして、この世界の破綻があの王のせいだって訊きたいのか」

 ライルの動揺とは反対に、ユドは酷く落ち着いていた。ライルがここへ来るとわかった時点で既に自分の正体の暴かれることは覚悟をしていたし、彼が刃を向けて来るだろうこともわかっていた。それが例え、ユドだと知ってもライルはきっと、引くことはしないだろうとも。

 だから、ユドも静かに腰に帯びた剣を抜いた。

「もう一度、言う。今すぐここから引き返してくれないか、ライル。俺はどうしても、彼女のところにお前たちを連れて行くわけにはいかない」

「彼女、だと?」

「そう、彼女。俺の最愛のひと。たった一人、もうずっと長い間、英雄王との約束を信じて眠っていた魔の姫。愚かな王が約束を忘れ、功を焦った結果目覚めてしまった優しい魔王」

 空腹を満たす以上には襲わない。

 人の世界には深く関わらない。

 魔物だけがずっとずっと、その約束を守って来たこの山脈は魔物たちの楽園だった。勝手に恐れた人間たちが、そんな約束など存在しないと言わんばかりに踏みにじったから魔物たちも牙を剥いただけだ。

 漆黒の刃が、ユドの手の中で鈍く光る。対峙する二人の構えは正面に剣を構えた同じ型で、次の一手は違えども予測をつけることは容易かった。彼らは、同じ剣を学んでいる。

「魔王に、誑かされたのかユド。だから人間でなく、魔王の味方をするのか。いくら約束をされたって、人間を喰らう魔物を恐れないわけがないだろう!」

「人が、家畜を食らうのと大差ないことだ。ヤギや羊や、豚を可愛がりながら食べ頃まで育ったら夕のご馳走にする。魔物だって、それと同じだ。腹が満たされていればそれ以上、喜びのために殺したりはしない」

 二人は、睨み合ったまま一歩も動かなかった。

 他の騎士たちは若いライルを助けなければと思いはするものの、二人の邪魔を許さぬというよう吼える大きな狼を恐れて動けない。争いの経験さえない、稽古で剣を握った程度の王ならば尚更に、だった。

「どうしても城へ行きたいなら、俺を殺すと良いよ、ライル。お前は一度も、俺に勝ったことはなかったけれど」

 ユドの、淡い紫の瞳がわずかに濃度を増したかに見えた。

 軽く、地を蹴る足音がした刹那に、動いていたのはユドのほうだった。構えた剣を横へと流し、身を低くしてライルとの距離を一息に縮めると下から上へ、剣を振り上げる。

「ライルは、人を殺したことがあるんだろうか」

「──ッ」

 構えた剣で、ライルが剣戟を防いだのは無意識だった。そのまま、ユドの剣を弾いて彼はしかし、振り抜いて無防備になったユドの懐へ切りつけることは出来ずに半歩、下がる。

「俺を殺さなければ、城へは行けない。城へ行ったところで、彼女が死んだところでシアシャールの結界は元には戻らない」

「黙れ……っ」

 幼馴染だから剣を振るえないのか、人を殺めることが怖いのか。どちらも、なのかもしれないとユドは思う。騎士は魔物を殺すことはあっても、民を殺すことはない。

「黙れ、ユド──!」

 ライルの踵が、大きな岩に当たって止まる。転倒すれば次の一手をユドは緩めないだろうし、踏み止まっても同じことだった。

 国を守るためならこの手を汚しても良いと誓った。大事な人たちを守るための盾になろうと心に決めた。なのに今、ライルは守りたかったはずの友人と戦っている。

 不意に、霧が晴れた気が、した。

「ああ、」

 剣を握った掌に、肉を断つ鈍い感触が伝わった。

 小さく喉から零れた声は何処か安堵を含んだようで、笑う、その顔は昨日までと何も変わらない。からり、と金属音を立てて剣が落ち、大地へと身体を蹲らせたのは、

「ユ、ド」

『触るな!』

 王宮騎士の銀色の刃が、黒い背から生えている。じわりと大地を染める赤にライルが手を伸ばしたけれど、低く強い、獣の方向と大きな体躯にそれを阻まれた。

 振り下ろされた刃から身を守ろうと、とっさに前へと突き出した剣がユドの黒い鎧を、その身体ごと貫いたのだった。

 ファティが、ユドの顔を覗き込むように鼻先を潜らせる。

「どうして、どうしてだ、ユド」

「──、は。勝ったのに、なんて顔をしてるんだライル」

「お前が俺に負けるはず、ないだろう」

「……俺は、本当は。遠い昔の約束なんてどうでも、良かったから、かな。エレシャが……彼女が幸せでいてくれることが、俺には何よりも、大事だった」

 だから、もう良いんだ。

 ユドの声は、音にはならなかった。血に濡れた手で、ファティの身体に触れるとそれで心得た獣は、自らも汚れることを厭わずに器用に彼の身体を自身の背へと持ち上げる。拍子、ユドの腹から剣が抜け落ちたが、誰もそれを拾うことはしない。

「それでも、世界の約束の叶えられることだけが、エレシャの願いだった。魔物、も……魔王ももう、この世界から消えてしまうけれど。世界の秩序が、変わった後──人間がどうなるかなんて、俺にだってわかりやしないけど」

『これ以上、我らの地と我らの最後を踏み荒らすな』

 途切れたユドの言葉を、ファティが引き継ぐ。

 その意味するところなど、問わずとももうライルにはわかっていた。

 魔王よりも、世界よりも何よりも、幼馴染と、ユドと二度と言葉も剣も交わすことがないことがわかっていた。

 びょう、と吹いた風に視界が開け、いつの間にか大地を覆う深い霧の晴れていたことを誰もが知る。その、ずっと、ずっと高み。遥か地上からは獣の耳に見える場所に古い城があることを、人々は初めて知った。



終幕



 王の玉座を抱く間に、ユドはそうと下ろされた。

 ファティの背にあってだいぶ血の気を失っていたらしく、ぐらりと傾いだ身体をまた、獣に支えられて苦笑う。負った傷は深く、魔物のような回復力もない人間であるユドにはすぐに傷を塞ぐような芸当は出来ない。包帯も薬草も、どうせもう、役には立たないだろう。

 霧の晴れたあの時、あの瞬間にユドはもう守るべきものはないと。大切な友人に剣を振るわずに良いのだと知った。同時に、自分が在るべき理由ももう、ここにはないのだとも。

「あいつには、悪いことをしたかな」

 幼馴染の手に掛かってなら死んでも良い、と言うのは格好をつけすぎた理由だ。そんな悲壮な覚悟があったわけではない。

 どうして、と驚いたライルの顔を思い出して小さくユドは笑う。その口元から、緋色がぽたり、と零れ落ちた。

 一歩、一歩、身を引きずるようにして前へと進む。

 視線は真っ直ぐを見据え、掌を差し伸べる。

「エレシャ、」

 呼んだ声が、きちんと形になったのかはわからない。

 ファティに引きずられるような姿で向かう玉座には、純白の花嫁が待っている。その足にはもう彼女を縛る鎖はなく、命を削る強大な魔力も零れ落ちてはいなかった。

 ただ、花婿の迎えを待つように幸せそうに微笑んだまま、少女は眠っている。

「少し、遅くなってしまったね。約束をまた破られたって……君は泣くかな、それとも」

 黒い鎧の掌は、血と土とに汚れていてユドは少しだけ躊躇う。けれど、二人交わした約束を思い出せば一歩、ファティの助けから離れて彼は玉座への階段を上った。

「しょうがないわね、って……許してくれるかな。俺の花嫁」

 長い長い年月は、幸せだったかと訊ねても返る答えはない。人と何も変わらずに、冷え切ったその白い手を取って抱き寄せると、ユドはそれだけで酷い疲れを感じて玉座の足元へ腰を下ろした。

「俺は君を、少しは幸せにして……あげられたかな」

 世界の約束は、果たされないままだ。

 魔王のいなくなった世界に、魔物は生きられない。魔物のいなくなった世界で、人間たちがどんな世界を作って行くのかは、ユドにはわからなかった。

 ただ、人間に魔物だと罵られても愛しいひとがいた。守りたいものがあった。だから彼は、それで良かった。

 腕の中で、エレシャは微笑んでいる。

 それだけで、ユドは幸せだった。

 別れた時と変わらないその綺麗な笑顔に、ほう、と彼は吐息を零した。瞼は重く、間近にある彼女の顔さえぼやけて見えて、もっと、まだ、見つめていたいと唇を寄せる。

「大好きだよ、エレシャ」

 それは残りわずかの熱をわけあうような冷たい、キスだった。


──ありがとう、大好きよユド。


 いつかの声が、微笑んでいた。

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