6.一人目の生徒
初出勤からさらに一週間と少し。
何度か授業見学と模擬授業を繰り返しているうちに、あっという間に四月になり、新年度がやってくる。
この時期は、マギスの学び舎にとってはかきいれ時である。
新年度の授業が始まると、難易度がぐんと上がるのでそのぶん勉強についていけない子が増える。そんな学生たちをサポートするために、マギスの講師たちは身を粉にして働くことになる。
猫の手も借りたいそんな状況の中で、私もついに、先生として誰かに魔法を教えることとなった。
初めての生徒との邂逅を前に、私はガチガチに緊張していた。
何度も模擬授業の練習台になってくれたクロウ先生からはお墨付きをもらっている。
それに、塾長曰く「ルーナ君が教えやすそうな子を選んだから心配はいらない」……らしい。
二人のことを信頼していないわけではないが、初めてのことはどうしても不安で、さっきから心臓がうるさい。
「ルーナちゃん、右の手と足が同時に出てるよ」
たまたま廊下で出会ったミリカ先生にそう笑われたけど、しかたないと思う。
意識すれば意識するほど手足の動かし方がわからなくなったので、もう諦めてぎこちない歩き方のまま、私はマギスの学び舎のエントランスに向かった。
私が担当するのは、この春から新しく塾に通い始める学生だ。
そういう子たちはエントランスのソファに座って、自分の担当の先生が迎えにくるのを待っているのだ。
五、六人の学生がまばらに座っている中から、事前に聞いていた特徴を頼りに、目当ての女生徒に声をかける。
「こんにちは。あなたがイレーネちゃん?」
黒い髪をおさげにしてメガネをかけた、文学少女的な出で立ち。
魔法学校の四年生だという彼女は、ソファで真剣な眼差しをして教科書を読んでいた。私の呼びかけに、パッと顔を上げる。
「はい。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げる、淡々としたイレーネちゃんの様子は、私よりずっと大人っぽくて緊張が増した。
「あ、えっと……あなたの授業を担当します、ルーナと言います! と、とりあえず教室にいこっか」
上擦ってしまった私の声を気にも留めない様子で、イレーネちゃんは頷いて立ち上がった。
「道順、ややこしいけど次からは時間までにこの教室に来てね。場所がわからなければ私を探すか、この講師札をかけている人に聞いたら連れてきてくれるから」
「わかりました」
私も、他の先生たちも首にかけている、名前入りのストラップがマギスの講師である証だ。
イレーネちゃんにそれを見せながら、私は教室の扉を開ける。
他の授業で、座席はかなり埋まっていた。人気の壁沿いの席はもう全て使われている。
私とイレーネちゃんは、しかたなく教室の真ん中に置かれた机の一つを選んで、席についた。
座るやいなや、イレーネちゃんはカバンを開けて教科書を取り出そうとする。
私はそれに待ったをかけた。
「ストップ。マギスは初めてだよね? 最初の日は、通知表と実践魔法の確認から始めるから、教科書は使わないの」
「あ……」
私の言葉に驚いたような様子で、イレーネちゃんは教科書をカバンの中に再び戻す。
そこで彼女が困ったような顔を一瞬浮かべたのを見逃さなかった私は、ハッとした。
緊張しているのは、自分だけじゃない。初めての場所で右も左もわからないイレーネちゃんの方が、ずっと不安なはずだ。
私は気を取り直して、再度言葉をかける。できるだけ明るい声を意識して。
「ごめんね。質問があったらまた後で聞かせて! でもまずは、私がイレーネちゃんのことを知りたいの」
「……はい」
少しだけ、イレーネちゃんの表情が和らいだのを感じた。私もほっと胸を撫で下ろす。
そして、イレーネちゃんが改めてカバンから取り出してくれた通知表を受け取る。
断りを入れて中を開くと、よく見慣れた表が顔を出す。私も学生時代に通知表は恨めしい思いを抱きながら見たからよく覚えているのだ。
魔法理論、実践魔法、数学、歴史、古代語……魔法に関係するものからしないものまで、さまざまな教科の成績が四段階評価でつけられている。
イレーネちゃんの通知表は、ほとんどが学生時代の私の逆だった。
例外もあるが、実践魔法など実技の科目は評価が高く、実技のない科目、つまり座学の点数だけで決まる科目は低い。
どうして理論ができないのに実技はできるんだろう、と不思議に思うくらい。
……言葉にしたらクロウ先生の二の舞なので、決して口にはしないけれど。
ふむふむ、と頷きながら通知表をじっくり見ていると、イレーネちゃんの方から恥ずかしそうに口を開いた。
「私、魔法は何もかも感覚派で……数学とか、感覚で問題が解ける科目はできるんだけど、歴史とか理論は本当にダメなんです」
「そっかあ。じゃあ、苦手をなくさなきゃだね」
「はい。教科書はたくさん読んでるんですけど……」
重そうなカバンをぽんぽん叩きながら、少しだけ悔しそうにイレーネちゃんは言った。
寮と学校の移動だけでも教科書を全て持ち歩くのは重いだろうに、そうしているところに彼女の真面目さが窺える。
今すぐにでも座学に移りたいところだが、私も先生として初心者。
つい数日前に教わったばかりの、初回授業の流れを崩すわけにはいかない。
イレーネちゃんの自信なさげな気分を晴らすためにも、私は立ち上がって提案する。
「一応、実践魔法がどれくらいできるかも見てもいいかな? 地下に演習場があってね、その案内もしたいから」
「……はい、わかりました」
イレーネちゃんも座学の授業を受けたいみたいだったけれど、一応了承してくれた。
マギスの演習場は広いし、設備もふんだんにある。
きっと、足を踏み入れるのは無駄にならない。何か今後に活かせることが見つかるはずだ。
そう力説しながら、私はイレーネちゃんとともに席を立った。




