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イチゴ令嬢のベリーなる農家ライフ〜真実の愛を見つけた婚約者が破談にしてきたからこちらも好きに生きますね!王子の愛した宝石を作る手を愛おしく握ってくれる幸せがやってくるまで〜

作者: リーシャ

 朝露が葉を濡らす早朝、いつものようにイチゴのハウスへと向かうこの時間が好きだと、何度も感じた想いが胸に走った。

 土の匂い、甘く熟した果実の香り、ハウスを覆う白いビニールシートが朝日を反射してキラキラと輝き、穏やかな時間がいつも心を満たしてくれる。


「ロップルー様、今日のイチゴも素晴らしい出来栄えですな」


 ハウスの入り口で、農夫のクコルアがにこやかに挨拶をしてきた顔にはイチゴへの誇りが滲み出ている。

 嬉しくなって頷くとハウスの奥へと足を進めた。


「ええ、クコルア。特にこのルビーの涙は、色も艶も最高」


 指差したのは、宝石のように輝く真紅のイチゴだった。

 一つ一つが均等な大きさに育ち、完璧な形をしているこれは前世の記憶と植物学の知識を融合させて生み出した、品種。


 そう、記憶。貴族令嬢、ロップルー・ハイエレクトロとして生きるようになってから、もう十年になる今から三年前に突如として前世の記憶を思い出したそれは、忘れもしない第三王子ジャルコに婚約を破棄された日のこと。


「ロップルー、すまない。私は本当の愛を見つけてしまったんだ」


 ジャルコが差し出したのは二つ年下の伯爵令嬢、カーナカーナの手だった。

 己のように地味で控えめなタイプではなく、流行のドレスを身につけキラキラと輝く瞳を持つ社交界の華、という人らしい。


「ロップルー様、ごめんなさい。でも、ジャルコ様とは魂で繋がっているような気がするのです」


 カーナカーナが涙を流す演技をした様子に、周囲の貴族たちが同情の眼差しを向けてるのを見た。この場で怒りや悲しみを露わにすればさらに、嘲笑の的になることを知っていた。だから、静かに頭を下げるしかなく。


「かしこまりました。ジャルコ殿下のご多幸をお祈り申し上げます」


 その場を後にした瞬間、頭の中に電撃が走ったような衝撃が走ったら、前世の記憶が一気に蘇ってきたのだ。美術大学に進学するため、農業高校の美術部に通う普通の日常。


 農業高校と言っても絵画だけでなく、農産物をモチーフにした彫刻や収穫した野菜をデザインした料理など、多岐にわたるアート活動を行っていた。


 特に、果物や野菜を美しく見せるための農家の美術については、徹底的に学んだ。色彩、構図、光と影などの技術は絵画だけでなく植物を育てることにも、通じるものがある。


 農家の美術とは単に作物を栽培する技術ではないし、植物という生き物をいかに美しく完璧な形で育てるか、という芸術。

 土の成分を細かく調整し、水やりの量や時間を計算しつつ太陽の光を最大限に浴びせるために、ハウスの向きを調整するところまでやる。すべては、最高の芸術作品を生み出すためのプロセス。


 前世の記憶が蘇ったあとは、婚約破棄の悲しみよりも培った知識をこの世界でどう生かすか、というワクワク感でいっぱいになった。


 ハイエレクトロ侯爵家は代々続く名門貴族だが、領地はそれほど豊かではないせいか特に気候が不安定で、作物の収穫量が安定しないことが長年の悩みだ。婚約破棄後、実家に戻り声を張って父に懇願した。


「お父様、私にハイエレクトロ領の農業を任せてください。知識とこの世界の植物学を組み合わせれば必ず成功させてみせます」


 当然ながら最初は戸惑っていた。貴族令嬢が農作業に手を出すなど前代未聞のことだったから。

 しかし、相手からすれば謎の熱意に押され、渋々ながらも領地の一角を任せてくれた。そんなわけで、まず着手したのはイチゴの栽培。


 イチゴは例に漏れず高級な果物として知られているが、栽培が難しく収穫量が安定しないためごく一部の富裕層しか、口にすることができない幻の果実扱い。


 ここぞと貴族なので高いのを仕入れたあとは、前世で学んだ農家の美術を駆使しイチゴの栽培に挑んだ。

 土壌の改良、土のpH値を正確に測定し最適な栄養素を配合したオリジナルの土壌を作り上げると、次に温度と湿度の管理。

 ビニールハウスを建設し、日中は太陽の光を最大限に取り入れて夜は冷気を遮断するために、暖房を入れた。


 水やりでは水滴が直接葉にかからないよう、株元にゆっくりと水を供給するシステムを導入したときは最高の気分だったと振り返る。


 最難関でありながら最も重要なのが品種改良だったのだが、この異世界の常識的ないちごというものは甘味は強いが、形が不揃いだったり、非常に傷みやすかったりする欠点があった。


 いくつかの在来種を交配させ、繰り返して漸く新しい品種を生み出すことに成功したそれが、冒頭で述べたルビーの涙。

 驚くほど甘く、それでいて程よい酸味があり。口の中でとろけるような食感を持つ。

 形が完璧に整っており、傷みにくいという工芸品のようなイチゴのルビーの涙は、瞬く間に社交界の話題となった。


「ハイエレクトロ侯爵家の令嬢が、宝石のようなイチゴを作ったらしい」


「そのイチゴ、一口食べたら忘れられない味だそうだ」


「しかも、見た目が美しいから、贈答品に最適だ。喜ばれるに違いない!」


「予約待ちと言われたわ」


 最初は半信半疑だった貴族たちも、実際にルビーの涙を口にすると美味しさに舌を巻くことになる。

 王宮の晩餐会でもデザートとして提供されるようになり、作ったイチゴは瞬く間に王都中で知れ渡ることになった上に噂は、第三王子ジャルコと新たな婚約者となったカーナカーナの耳にも届いた。


「あの、ジャルコ様、ロップルー様が作ったというイチゴを……め、召し上がったことはありますか?」


 カーナカーナが何気ないふりをして尋ねたら、ジャルコは顔をくしゃりと曇らせた。


「ああ、先日。父上が晩餐会で出しておられた。確かに素晴らしい出来栄えだった」


「そう、でございますか。わ、わたくしも、一度でいいから食べてみたい、わ?どうでしょうか?」


 カーナカーナは無遠慮にジャルコにねだったからか、カーナカーナを喜ばせようと王子がどのツラ下げてな手紙を送ってきた。


 ロップルー、久しぶりだ。例のイチゴをいくつか分けてくれないか?少しでいい。


「少しでいいって、なんでしょうね〜。謝罪なし、と」


 手紙に書かれていた内容を読み、ゆるりと微笑んだ。


「お父様、ジャルコ殿下からのお手紙ですって」


 父に手紙を見せたら、父はかなり複雑な表情浮かべて悪態をつく。


「あのような男にわざわざイチゴを贈る必要はないだろう」


 怒る親に首を横に振った。


「いいえ、お父様。最高の宣伝の機会です。最高のイチゴを最高の形で差し上げなければ、農家の名が廃ります。それに、ふふ!秘策もありますから」


 最高の状態のルビーの涙を厳選し、美しい木箱に詰めたけれど。その木箱にはイチゴの美しさを最大限に引き出すための、描いた絵を添えた。

 一つの芸術作品となるものが、ジャルコとカーナカーナのもとに届く。


「ま、まあ、なんて美しい箱なの!すごい……」


 カーナカーナは箱の蓋を開けて、直ぐに感嘆の声を上げたてしまうほどのものがあり、中には宝石が敷き詰められたかのように完璧な形のイチゴが並んでいた。


「わあ、本当に美しいイチゴ。絵のようだわ〜」


 カーナカーナはうっとりとした表情でイチゴを眺めながらも、一つを手に取るとそっと口に運んだ。


「んっ!んん!……これは、本当に美味しい!甘いっ……え」


 目を丸くして驚いた彼女はこれまでに数々の高級な果物を口にしてきたが、このイチゴは次元が違っていた。


「どうだ?カーナカーナ。ロップルーはやはり素晴らしい女性だっただろう?」


 ジャルコは何故か自慢げな表情をしたので婚約者のカーナカーナは、その言葉にとても不機嫌になった。前婚約者を褒める無神経さと自慢げに語れる時は、もう過ぎているというのに。


「ジャルコ様?まだ、ロップルー様を気にかけていらっしゃるのですか?」


「いや、そういうわけではない。ただ、こんなにも素晴らしい才能を持っていたとは知らなかった、というだけだ」


 しかし、ジャルコの言葉はどこか言い訳がましく聞こえたからカーナカーナは、内心とても面白くなかった。手に入れたのは王子の愛だけ。

 でも、婚約者から外されたはずの負け犬ロップルーはイチゴで、世界中の人から称賛されているという悔しさで唇を噛んだ。


 社交界の華として、常に注目を集めてきたのに今さらになってその注目は自分ではなく、ロップルーが作ったイチゴに向けられている。

 なんとかして、素晴らしすぎるイチゴを貶めようと考えたほどに追い詰められていく。


「ジャルコ様、このイチゴはきっと特殊な魔法か何かを使っているのよ。普通の農家があんな完璧なイチゴを作れるわけがないの。そうよ、そうに決まってる」


「はぁ?しかし、ロップルーは自らの手で育てていると言っていたぞ?」


「そ、それは、きっと嘘よ!彼女は自分を天才だと思わせたいのよ。これだから……負けた女は惨めよねぇ」


 そこからは、根も葉もない噂を流し始めたのだが……しかし、そんな噂はすぐに立ち消えになった。

 なぜなら、ハイエレクトロ領を訪れた周りの者たちがロップルーが実際に農作業をしている姿を、目撃していたからだ。


 泥まみれの服を着て、額に汗を浮かべながら一心不乱にイチゴの手入れをする姿は、高潔な貴族令嬢そのものだったと語られる。


「本当に素晴らしい方だ」


「イチゴは努力の結晶なのだな。丁寧に扱われるものを口にするのは、なんとも幸せだ」


 皆は、ロップルーの努力を知ると尊敬の念を深めていったのでカーナカーナの流した噂は、かえって評価を高める結果となった。

 名声や富には興味がなく、美味しいイチゴをたくさんの人に届けたい。

 学んだことをどこまで極めることができるか、挑戦してみたかっただけなのにルビーの涙の評判は隣国にも広まったらしい。


「ハイエレクトロ侯爵家のイチゴは、この世のものとは思えないほど美しいらしい」

「ぜひとも、我が国でも取り扱いたい」


 隣国の王家や大商人たちが、次々とハイエレクトロ領を訪れるようになったイチゴは、最高級の贈答品として、王族や富裕層の間で取引されるまでに人気になる。

 育てる傍ら、新たなビジネスも始めてみたらこれはこれで大人気になり、なにをしてもうまくいくようになった。


 イチゴを使ったジャムやタルト、イチゴの香りのする香水などすべて前世で学んだ知識と技術を融合させて、生み出されていく。特にその中でのイチゴの香水は、大ヒット商品となった。


「香水をつけると、イチゴ畑の中にいるみたいだわっ」


「うーん。甘酸っぱい香りが心を癒してくれるわよ。幸せ!」


 女性たちから絶賛され、ブランドが世界中に知れ渡るようになっていったその頃、ジャルコとカーナカーナの関係は冷え切っていた。

 王子の婚約者という立場に満足できず、ロップルーのように世界から注目されたいと願うようになったが、彼女にはそのような特出した才能は当然ない。


「ジャルコ様!なぜわたくしはっ、ロップルー様のように注目されないのですか!?」


 カーナカーナはよりにもよって無神経さ上位のジャルコに、不満をぶつけた。


「ん?それはな。お前には彼女のような才能がないからだ。そんなの、生まれた時からわかってただろう」


 カーナカーナをこれでもかと、冷たく突き放した。もう飽きていたので、機嫌を取る気持ちなど一ミリもない証となって降り注ぐ。


「え、あ、そんな!わ、わたくしだって社交界の華だったのよ!」


「はぁー?一体いつの話をしてる?お前の場合はもう過去の話だ。今、この国の華は俄然、ロップルーだが?流行に乗れない女に、王子妃は無理だな」


 ジャルコは嫌味を言うだけ言うと、カーナカーナに背を向けた途端に膝から崩れ落ち、泣き出した彼女は自分が手に入れたものが虚栄心を満たすだけの、空虚なものだったことに気づく。

 そして、自分が捨てたものがどれほど価値のあるものだったのかを、ようやく理解したときには全て失っていた。



 イチゴ畑でのんびりとイチゴを育てていると時折、ジャルコやカーナカーナの噂が耳に入ってくるがどうでもいいことだなと思う。

 広いイチゴ畑、素晴らしいイチゴたちを心から愛してくれる人たちがいるだけで人生は満たされている。


 今日も、夕暮れ時の西の空がオレンジ色に染まり、イチゴの葉が爛爛と光を浴びてさらに美しく輝く。


「綺麗……」


 ポケットから、一つだけルビーの涙を取り出してから口に運んだ味は甘くて少し酸っぱい、自分の人生のよう。過去の苦い経験も今の幸せな日々も、すべてが人生を彩る大切な要素となりこれからも、自分の道をゆっくりと美しく歩んでいこう。

 


 冬の訪れとともに、イチゴ畑は静寂に包まれるけれどハウスの中は暖房が穏やかに効いて、外の寒さとは別世界だ。イチゴがゆっくりと甘みを蓄えているこの時期は、一つ一つの実により一層の愛情を注ぐ時間となる。


「見てください、ロップルー様。今日のイチゴは、さらに甘みが増したようですな」


 従業員の農夫、クコルアが赤く色づいたイチゴを手に取り嬉しそうに言った内容に頷き、同じくイチゴを一口食べた。口の中に広がる芳醇な香りと、舌の上でとろけるような甘さは完璧な出来栄えだと訴えてくる。


「この時期のイチゴは、凝縮された宝石のように一つ一つが時間をかけて育まれた宝物になる」


 二人が無言でイチゴの出来栄えを確かめ合った静かな時間が、心を穏やかにしてくれる。最近は、遠く離れた隣国からもイチゴを求めて商人がやってくるようになったけれど、彼らはなんと王都の商会を通すのではなく直接、ハイエレクトロ領まで足を運んでくれるのだ。


「ロップルー様、このたびは私たちの国でもイチゴを販売する許可をいただき、誠にありがとうございます。こんなにも素晴らしいイチゴは本当に初めて見ました」


 隣国の商人が深々と頭を下げる仕草を見ながら静かに微笑むのは、営業スタイルの一貫。


「ようこそ、いらっしゃいました。イチゴは特別な魔法で作られたわけではありません。愛情と手間をかけて、植物が持つ本来の美しさを引き出しただけです」


 商人はこの言葉に感銘を受けたらしく、持ってきた袋いっぱいの金貨を差し出したが、それを受け取らなかった。


「金貨は必要ありません。イチゴの代金は栽培に必要な肥料や暖房の費用に充てさせていただければ、それで十分です」


 商人は驚いた表情で見た。


「し、しかし、それでは」


「お金儲けのためにイチゴを作っているわけではありません。作ったイチゴを、心から美味しいと思ってくれる人たちに届けたいだけ、なのです」


 さらに感銘を受けた彼は、丁寧に頭を下げてから黄金のようにイチゴを大切に抱えて、帰っていった。隣国でも美味しいと誰かが言ってくれたら嬉しいな、と農夫たちとそのあとも笑いあった日。


 一人、書斎で植物学の古書を読んでいたのは知識と植物学を融合させるため。もっと効率的な栽培方法や新しい品種を生み出せるかもしれない。なんて、そんなことを考えていると軽快なノックの音が聞こえた。


「ロップルー、遅くまで何を読んでいるんだい?」


 父だった相手は、そばまで椅子を引くと静かに座る。椅子を自分で引くといった庶民的なやり方は、娘として心を温かくするには十分だ。


「植物学の古書ですよお父様。もっと美味しいイチゴを作るためのヒントを探しています」


 父は手元を覗き込み、優しい眼差しを向けた。


「お前は、本当にイチゴが好きなのだな。以前はあんなに社交界にすらそこまで興味がなかったのに」


「お父様。社交界よりもイチゴ畑の方が、ずっと心が落ち着きます。ここでは誰とも比べられることなく、ただ、自分の好きなことを好きなだけできるのですから」


 父親はしんみりとした寂しそうな表情をしたが、すぐにひまわりのような笑顔になった。


「そうだな。お前が幸せならそれでいい。あの婚約破棄はお前が本当にやりたいことを見つけるための、良いきっかけに……なったのかもしれないな」


 父の言葉に静かに頷いたように、あの時の悔しさや悲しみは今となっては遠い昔の、出来事のように思える。あの出来事がなければ、今のように心から満たされた日々を送ることはできなかっただろう。パチっと暖炉が燃える部屋には優しい温度と空気が漂っている。


 年が明けて、春が訪れたるとイチゴの花が咲き始め、ハウスの中は甘い香りで満たされミツバチたちが忙しそうに花から花へと飛び回った。


「今年も、素晴らしいイチゴが実りそうですな」


 農夫クコルアが満開の花を眺める。


「ええ。今年もたくさんの人にこのイチゴの美味しさを届けたい」


 満面の笑みで答えた日、領地の子供たちがイチゴ畑の見学にやってきた。彼らは目をキラキラと輝かせながら、イチゴのハウスの中を歩き回っては騒ぐ。


「わあ、本当に宝石みたいだ!」


「こんなに甘い匂いがするなんて、知らなかった!」


「食べたいなぁ」


 子供たちの歓声がハウスの中に響き渡るのを聞きつつ、もちろんイチゴの摘み取りを体験させてあげた。イチゴ狩りなんて、イチゴ農家のイベントの醍醐味だから張り切るしかない。


「優しく触ってあげてね。傷つけないように、大切に摘んでね」


 子供たちは真剣な表情で言葉を聞き、一つ一つ丁寧にイチゴを摘んでいく様子を遠くから眺めている人物がいた。第三王子ジャルコと婚約者が馬車を降りて、遠目から様子を窺い、カーナカーナは王子の隣で悔しそうに唇を噛みしめていたのだ。


「どうして?どうして、ロップルー様はあんなにも幸せそうなの?」


 呟きにジャルコは何も答えず、子供たちに囲まれていて屈託のない笑顔を見せる姿を、静かに見つめる。


 王子の愛や社交界の名声には何の興味も持たずひたすらに、自分が心から愛するイチゴとイチゴを愛してくれる人に囲まれて、穏やかに生きている姿は以前よりもずっと美しく、輝いて見えた。


「ロップルー……」


 ジャルコが静かに名を呼んだ視線に、気づかないふりをした。過去の存在だからこそ彼らとの人生は、交わることも関わることのない新しい道を進んでいることを示唆している。


 夕暮れになると、子供たちが摘んだイチゴを大切に抱えて帰っていく姿を見送る。


「ロップルー様、ありがとうございました!」


「また来るね!」


「ええ、また来てね」


 子供たちの元気な声が心を温かくしてくれるのを感じながら、再び一人になったイチゴ畑で夕日を眺めた。


 冬の終わり、春の兆しが見え始めた頃、ハウスの奥で小さなイチゴの苗と向き合っていた。品種改良の次のステップとして、前世の知識と植物学をさらに深く融合させ、誰も見たことのないような新しいイチゴを創り出そうとしている最中。


「今度は、どんなイチゴを作るのですか?」


 クコルアが興味深そうに手元を覗き込んだ。


「まだ秘密、クコルア。これは甘さだけじゃなくて香りも、色もすべてが完璧な絵画のようなイチゴしようと思ってて」


 クコルアは目を丸くして感心した。


「絵画のようなイチゴ!ロップルー様は本当にすごいお方ですな」


 思わず、ふふっと笑う自分がこんな形で役立つとは思わなかった。イチゴの色彩をどう組み合わせるか、花の形をどう美しく見せるかと考える様は、キャンバスに絵を描く作業そのもの。


 午後、王都から一人の男がイチゴ畑を訪ねてきたが、見慣れない顔だなと思っていると相手は緊張した面持ちで、深々と頭を下げた。


「突然の訪問をお許しください。私は隣国セリウス王国の王子、トリストプと申します。以前、貴方のイチゴを拝見し、美しさと味にすっかり魅了されてしまいました。ここまでつい、我慢できなくて馳せ参じてしまいまして」


 驚いた……隣国の王子が、わざわざこんな辺境の地までやってくるとは思わなかったから。


「ようこそ、いらっしゃいました。遠いところからよくお越しくださいました」


 トリストプ王子は顔を赤くした。


「実は、貴方のイチゴだけでなく、貴方ご自身にもお会いしたいと願っておりました。社交界では美しいイチゴを作り出したのは、妖精のような女性だ、と噂になっておりますから気になってしまい」


 思わず赤面して照れてしまったのは、社交界の噂など縁のない話だと思っていたから、思わぬ賛辞に苦笑する。


「あはは、わたしはただの農家です。どうぞ中へ。今、一番甘いイチゴをお出ししますよ」


 トリストプをハウスの中へ案内すると、ハウスの中の光景に感嘆の声を上げる。


「な、これは!宝石の庭園のようだ!紅い宝石のようだ……ああ、美しい」


 ハウスの中には、赤く輝くイチゴたちが規則正しく並んでおり一つ一つが丁寧に手入れされ、美しく輝いている。一番甘く熟した品種のルビーの涙を摘み、トリストプに差し出せば丁寧に受け取ると、一口食べた。


「う、わ……!」


 トリストプは目を見開いて絶句し、涙を流した。気持ちはわからなくもないと、心の中で頷く。


「絶対にこれは、人生で一番美味しいイチゴです。わかります。貴方のイチゴに対する深い愛情がこの味に込められているのが分かります」


 褒め言葉に胸が熱くなっていき、努力がこうして誰かの心に届いていることが、何よりも嬉しい。


 トリストプ王子はそれからも、たびたびイチゴ畑を訪れるようになったあとは、王族の身分を隠して訪ねてきては一人のイチゴ愛好家として、他愛のない話をしてくる。


「ロップルー様は、本当にイチゴがお好きなのですね」


「ええ。イチゴは大切な家族のようなものです」


「貴方のように、自分の好きなことにこれほど情熱を注げる方に初めてお会いしました。話していると心が洗われます」


 いつしか王子の威厳を脱ぎ捨て、一人の素朴な青年として普通に接してくれるようになった。イチゴ畑を照らす夕日の空はオレンジ色と紫色に染まりイチゴの葉が光を反射して、幻想的に輝く。


「ロップルー様」


 トリストプが名を呼ぶ。


「ご自分の人生をご自分の力で、本当に豊かにされている。私まで心が満たされていくのを感じます。穏やかなのに元気がもらえる」


  手を差し出された。


「もしよろしければ、イチゴ畑のようにこの先も一緒に歩んでいただけませんか?」


 驚いて顔を見つめた相手の目は、真剣だった。王族として、地位や社交界での名声など何もないのに彼は農家になった令嬢という人間を見て、プロポーズしてくれたのだと考えてみる。

 イチゴ畑を離れることはできないから、この人と一緒ならきっとイチゴ畑を守りながら穏やかな人生を送れるだろうかと、差し出した手を取った。


「わたしのイチゴ畑でよろしければ、喜んでご一緒します」


「え!は、はいっ!幸せにします!」


 心から嬉しそうな笑顔を見せた数週間後、トリストプ王子との婚約が発表された報はたちまち王都に広まり、ジャルコとカーナカーナの耳にも入った。


「はぁあ!?ロップルーが、隣国の王子と、こここ、婚約うう?!」


 ジャルコは信じられない、という表情をしてカーナカーナは悔しさと嫉妬で、顔を歪ませた。


「どうして!どうして、あの人はっ、私たちが捨てたものなのに、なのに……次から次へと素晴らしいものを手に入れていくのよ!ズルい!」


 カーナカーナはキイイと、ヒステリックに叫んだ。


「彼女が自分の力で、自分の人生を切り拓いたから、か」


 ジャルコはボソッと言ったが、彼はもうカーナカーナをなだめる気力もなかった。だらりと手を下げて、報告を飲み込むしかない。


「我々は価値に気づけなかった。捨てたのは単なる婚約者ではなかった……!世界を豊かにできる、素晴らしい才能を持った一人の女性だったのだ」


 ジャルコが窓の外を見つめた視線の先には、美しいイチゴの絵が飾られていた。それは、元婚約者が彼に贈ったイチゴの絵だった。



 絵の送り主は相変わらずイチゴ畑でのんびりと過ごし、トリストプは公務の合間を縫って毎日毎日、律儀に訪れてくれる。イチゴの苗の手入れを手伝ってくれたり、一緒に新しい品種の名前を考えたりと渾身的だ。


「新しいイチゴは君の笑顔のようだ。名前は、ロップルーの微笑みはどう?」


 優しく微笑む彼に寄り添い、二人でひたりと夕日に照らされたイチゴ畑を眺めた。


 あの日の婚約破棄は悲劇ではなく、本当に大切なものを見つけるための幸せな転機だったと、父の言葉がふと、心に響いたのはきっと幸せだからだろう。


 婚約の発表から数ヶ月が経った日常は、以前と何も変わらないまま朝は太陽と共に起き、イチゴのハウスへと向かう中でトリストプも公務のない日は必ずここへ来て、イチゴの世話をしてくれる。


「イチゴの葉、少し黄色くなっていないか?」


 トリストプが真剣な顔で葉を観察している指先は、以前は剣や書物を持っていたはずだが、今では土や葉の感触を慈しむように触れている。


「大丈夫ですトリストプ様。これは新しい品種の特性で、甘みが増している証拠ですから」


 心配そうな表情が面白くて、つい笑ってしまった。


「そうなのか!まだまだ勉強不足だな」


 照れたように笑う顔は、王族の威厳も今ではすっかり影を潜め、表情はとても穏やかだと笑い合っていた日、王都から一通の手紙が届いた。差出人は第三王子ジャルコからの手紙でありそこには、一言だけ書かれている。


『おめでとう』


 手紙を読み、それだけで心の底から祝福してくれていることを伝えてきた。カーナカーナからはやはり手紙が届かなかったことで、彼女がどれほど恨んでいるか、どれほど自分が空虚なものを追い求めてきたかを、自覚している証拠だろうと判断する。


 今、何を思っているのかなんてもう分からないし、知りたいとも思わなかった。この人生に、彼女の存在は必要ないのだから。


 夏になり、イチゴは最盛期を迎えた。二人は新しい品種のイチゴの収穫を始めた。ロップルーの微笑みと王子に名付けられた品種の実は、花のように美しく完璧な形をしている。

一口食べると甘酸っぱい香りが口いっぱいに広がり、その味は食べた人を笑顔にする魔法を持つ。


「ロップルー、本当に素晴らしい。君の言う通り絵画のようだね」


 トリストプが幸せそうに微笑んだくらい、ロップルーの微笑みはあっという間に王都中で話題になった。

しかし、今回は社交界での名声のためではないのでイチゴは、ブランドを通じて街の果物屋にも並べられ、誰もが味を楽しむことができるように考えて作られている。


「本当に美味しい!これなら、子供も喜んで食べてくれるわ」


「病気の母に食べさせたら、久しぶりに笑顔を見せてくれたんだよね」


 そんな声が届くようになった。求めていたのは名声でもお金でもないし、作ったイチゴが誰かを幸せにすることというだけ、それだけだ。



 結婚式は華やかな王宮ではなく、こちらの希望でこのハイエレクトロ領のイチゴ畑で行われることになった。参列者は本当に大切な人たちだけ。家族や、クコルアのような支えてくれた農夫たち、トリストプの家族と心から祝福してくれる友人たち。


 イチゴの花で編んだ花冠を被り、白いドレスを着てトリストプの隣に立った。周りには真っ赤なイチゴが実り、甘い香りが風に乗って運ばれてくる中で誓いの言葉を交わした後、トリストプは新しい指輪をはめる。ルビーでできた、イチゴの形をした指輪だ。


「ロップルー、イチゴのように私の人生を、世界を豊かにしてくれた。ありがとう」


 胸がいっぱいになり涙を流した結婚後、トリストプと共にイチゴ畑で穏やかな日々を送り、共にイチゴ畑を子供たちの教育の場にしようと計画している。


「子供たちに土に触れることの喜び、植物を育てることの楽しさを伝えたいのです。私にできる一番の社会貢献です」


 トリストプは頷いてくれた。二人で、イチゴ畑を散歩する時に繋ぐ手は泥や傷で少し荒れているが、トリストプは愛おしむように握ってくれる。


「世界で一番美しい手だ」


 心からの幸せを感じながら、出会いが結びつけてくれた結末を心地よい風が教えてくれる。


「私も、あなたの手が好き」


 剣を握る手がイチゴを優しく摘む時の、宝物のように扱ってくれるこの人を好きになってよかったと思う。二人が分つまで思い続けるのだろうなと、自然と浮かぶことに目を細めた。

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