第六十五話 ゼロ
「姫様! すぐに、魔法陣に向かえ!!」
もう、敬語を使う余裕すらないらしい。
セーラはそう叫んで、俺を地面に投げ捨てた。そのまま剣を構えて、麗奈と相対している。
向き合わないと、対抗できない。
そう言わんばかりに、切羽詰まった表情を浮かべていた。
「魔法陣はあと三十秒で限界だ」
ヘイムも、余裕のなさそうな声を発している。
魔法陣の維持に尽力しているのだろう。彼女もまた、苦しそうだった。
「レイナお姉さま……っ」
姫は未だ動揺している。
いきなり豹変した彼女を見て、明らかに戸惑っている。
その隙に、俺はコソコソと逃げようとしていたのだが。
「っ、ぁあああああ!!」
セーラが雄叫びを上げながら、とびかかってくる麗奈に一撃を放つ。
鞘付きの剣で、彼女の肩付近を狙って殴打した。
だが、麗奈も負けていない。
その剣を、あろうことか拳で迎え撃った。
『バキッ』
何かが、壊れる音。
それは、麗奈の拳でも、骨でもない。
セーラの剣が、真っ二つに折れる音だった。
「――っ!!」
それでも、彼女は強引に一撃を浴びせた。
折れた剣をそのまま振るったのである。流石の麗奈でもそれには対応できなかったようで、隣のビルに向かって吹き飛んでいった。
『ドゴン!!』
嘘だろ……建物が、麗奈が吹き飛ばされた衝撃で一気に崩れ落ちた。
だ、大丈夫だよな? 今の麗奈の状態なら怪我がないと思うが、さすがに心配になる。
……いや、彼女の心配をしている場合じゃないか。
「ミツキ殿、すまない……強引だが、そのまま行かせてもらう!」
ここが、最後にチャンスだと判断したのだろう。
少しずつ魔法陣から遠ざかっていた俺をセーラは捉えて、担ぎ上げた。
「あと十秒。みんな、急いで」
タイムリミットは、あとわずか。
麗奈の方を見てみると、彼女はビルの瓦礫を押しのけて出てきた。
すぐにでも、こちらに向かって来てくれるだろう。
「は、離せ!」
俺も、全力でもがいた。
少しでも、セーラの足が遅れることを祈って……必死に、手足をジタバタと動かした。
だが、覚醒前の麗奈で歯が立たなかった相手である。
俺の抵抗なんて、歯牙にもかけない。
「間に合え……!」
俺を担いで、魔法陣に向かって走り出す。
「あと五秒」
ヘイムが残り秒数を呟く。
魔法陣まではあと三メートルほど。
麗奈は、こちらに向かって跳んでいる。だが、間に合わない……!
「三、二……」
残り秒数、二。
もう、魔法陣は目の前。
あと数歩で、俺は転移する。
このままだと、まずい。
「麗奈……!」
「光喜くん……!」
必死に、手を伸ばした。
麗奈も、手を伸ばしてくれた。
だが、俺たちの手が届く前に――もう、セーラが到着してしまった。
あと一歩、前に進めば終わり。
ああ、もうダメだ。
そう、諦めかけた時だった。
「――セーラ、止まって」
フィオの一言が、時を止めた。
常日頃から、主の言葉を厳粛に守ってきたからだろう。
指示と同時に、セーラが一切の動きを止めたのである。
まだ、彼女の体が魔法陣に入っていない状態で、だ。
それが意味することとは、つまり。
「……ゼロ」
最後のカウントが終わる。
その瞬間、魔法陣の発光が消えて……。
「失敗だよ、姫。転移魔法は使えない」
ヘイムの、無機質な声が教えてくれた。
もう、異世界に転移する手段はない。
つまり、俺と麗奈の勝利である、と――。