第六十三話 幸せの在処
ようやく俺は、異世界に行く覚悟を決めた。
そんな俺を、麗奈は笑顔で送り出してくれるみたいだ。
「今日見た映画みたいな異世界生活なら、きっと楽しいと思う。せっかく行くんだから、お土産話はたくさん聞かせてね?」
「……うん、もちろん」
「体調には気を付けるんだよ? 夜更かしはあんまりしないで、ごはんもちゃんと食べるようにね」
「……うん、そうする」
「光喜くん……ちゃんと、帰ってきてね?」
「……うん、すぐに帰ってくるよ」
ちゃんと、約束した。
これが今生の別れにはならないと、麗奈と約束する。
できるだけ早く、この世界に帰ってくる。そう伝えると、麗奈は少しだけ安堵してくれたみたいだ。
「信じてる。光喜くんの、わたしへの愛情を」
「……ああ、信じてくれ。俺の、麗奈への愛情を」
大好きという気持ちは、ずっと変わらない。
過去も、現在も、そして……異世界に行った未来においても、きっと不変だ。これから何が起きるか分からないが、それだけは絶対的に変わらないものである。
普段は迷ってばかりだが、麗奈への愛情だけは迷わなかった。
即座に頷くと、麗奈は先ほどよりも優しい笑みを浮かべて……それから最後に、こう言ってくれた。
「――いってらっしゃい」
「――いってきます」
その言葉を最後に、俺は麗奈に背を向けた。
もう、迷いはない。異世界に行く。そして英雄としての責務を果たして、帰ってくる。
そう、決めたのだ。
「……転移魔法の準備は完了したよ」
ちょうど、ヘイムは詠唱を終えたらしい。
彼女の足元には、大きな魔法陣が展開していた。幾何学的な紋様が発光している。あの中に入れば、異世界に転移できるのだろう。
「展開時間は三分くらい。早めに入って」
「セーラ、もう警戒は解いていいわ」
「……はい」
三人も、魔法陣に向かって歩き出している。
俺もそれに続いて、足を進めた。
片足が、魔法陣に入る。
あと一歩で、俺は異世界に行くことになる。
……その時だった。
「あーあ。最後くらい、光喜くんの大好きなオムライス……作ってあげたかったなぁ」
――麗奈の声が、聞こえた。
分かっている。これは、俺に話しかけたものじゃない。ただの独り言で、ぼやいているだけだ。
声も小さくて、異世界の三人には聞こえていないのだろう。レイナを警戒する様子は微塵もない。
だが、長年一緒に過ごしていた俺は……彼女のことを心から愛している俺には、ちゃんと聞こえた。
(オムライス、か)
たしかに、食べたかったなぁ。
麗奈からは子供っぽいと言われてからかわれていたが……俺は、麗奈の作るオムライスが大好きだ。
それが、しばらく食べられないなんて。
(帰ってきたら、作ってくれって言おう)
そう思って、振り向いた。
その一言を残して去ろうと、思っていたのだが……彼女を見た時に、息が止まった。
(あれ? 麗奈……泣いている?)
麗奈の目から、涙が流れていた。
魔法で動きが制限されているので、拭うことができないのだろう。涙が、頬を伝って顎から滴り落ちている。
そっか。俺に後ろめたさを感じさせないように……さっきは必死にこらえていたんだ。
でも、俺が背を向けて安心したのだろう。気が緩んで、涙が抑えられなかったんだ。
(初めて、見た)
麗奈の涙を、俺は見たことがない。
子供の頃ですら、彼女は泣かなかった。
いつだって、俺のそばで笑ってくれていた。
その涙を見て、俺は――言いようのない感情が、こみあげてきた。
(……なんで、泣かせてるんだよ)
俺は今、麗奈を傷つけている。
彼女に、辛い思いをさせている。
そのことを、強く自覚した。
(英雄になる責務? 救えるはずの命? それも大事だ。でも……麗奈よりも優先して、守るべきものなのか?)
疑念が、渦巻く。
麗奈を傷つけることの方が、俺は……辛い。
(いや、待て。俺は本当に、英雄になれるのか? 今、魔族との争いは膠着していると言ってたよな? だったら、俺が行くことによって……争いが、始まるのだとしたら――開戦したら、多くの命が失われるってことでもあるよな?)
そもそもの話。
仮に俺が英雄になれる力があったとして、多数の命が救えるのは事実だろう。
だが、俺が異世界に行くことによって、失われる命も増える可能性があることにも気付いてしまった。
(俺がきっかけで、戦争が始まるかもしれない。そのリスクがあるのに……麗奈を傷つけてまで、行ってもいいのか?)
本当に、異世界に行くことが正しいことなのか。
異世界は、俺に取って幸せになれる場所なのか。
その答えは――否、だ。
幸せは『異世界』じゃなくて、すぐそばにある。
「……ミツキお兄さま?」
「ミツキ。早くして。魔力が切れたら、大変なことになる」
「ミツキ殿、何を……っ!?」
三人の意識が、こちらに向いた瞬間。
俺は、魔法陣に背を向けて走り出した。
「異世界には、行かない!」
それが、俺の決断だ。
申し訳ないが幸せは異世界にない。
だって、俺にとっての幸せは……麗奈なのだから――。