第五十一話 俺はこの世界でも十分に幸せだけど
異世界に行くつもりなんてなかった。
麗奈と離れ離れになるなんて、考えただけで胸が苦しくなる。
俺はこの世界でも十分に幸せだから、異世界になんて行く必要はない。
俺のために、異世界に行く理由はない。
だけど、誰かのためであれば……話は別だ。
「――っ」
揺らいだ。
意思も、決意も、何もかもが……大きく、崩れた。
俺が行くことによって、救われる命がたくさんある。
英雄として、たくさんの不幸を救済できる可能性がある。
それなのに、この世界にいてもいいのだろうか。
俺がこの世界でのうのうと生きることで、失われる命があるのなら……行くべき、なのだろうか。
まずい。
感情が荒れている。
迷っていた。自分がどうすればいいか、一気に分からなくなった。
それくらい、フィオの一言は……俺に取ってあまりにも重かった。
「……卑怯で、ごめんなさい」
彼女もそれを自覚しているらしい。
申し訳なさそうに、再び目を伏せてしまった。
いつもなら、優しい言葉をかけてあげられただろう。「卑怯なんかじゃないよ」って言って、フィオの頭を撫でてあげたら、彼女の気持ちもいくらかマシになるかもしれない。
しかし、今の俺にそんなことができる余裕はなかった。
「運命の書には『英雄が魔王を倒し、争いは終焉を迎える』と記載されていたの。魔族との争いは膠着しているけれど、被害がゼロというわけではないわ。わたくしは、その命が救えるのなら……英雄を連れていくために、卑怯な手でも使わないといけない」
……いや。俺の慰めなんて、不要か。
フィオは愛らしい見た目だが、ちゃんとした王族なのだ。
民を救うために、彼女は俺に嫌われることを覚悟の上でこのカードを切った。
申し訳なさそうだが、言葉は力強く……そして俺の意思の弱さが、浮き彫りになっていた。
「――恥ずかしい話、わたくしのお父様である王は悪政を敷いて民を苦しめているの。それを打破するために、わたくし自身の功績も必要になる。もっと権力を持てば、お父様を止められる。だから、ミツキお兄さま……ごめんなさい。たくさんの命を救うために、異世界に来てほしいわ」
動揺する俺を見ても、フィオは容赦してくれなかった。
更なる情報を追加して、俺の意思を揺さぶっている。
「レイナお姉さまにも申し訳ないわ……でも、永遠の別れではないの。少し時間はかかるかもしれない。だけど、絶対にこの世界に戻れると保障するわ。ほんの少しだけ、離れ離れになるだけ。それだけで、多くの命が救える。ミツキお兄さま、どうか――お願いします」
そう言ってフィオは、深々と頭を下げた。
これ以上は何も言う必要がなくなったのだろう。数秒後には頭を上げて、以降は何も話さなくなった。
そして、俺も……何も言えなくなって、ずっと虚空をぼんやりと眺めていた。
(俺にしか、救えない命がある)
もし俺が異世界に行かなければ、見殺しにしたということになるのだろうか。
自分とは無縁の出来事だと割り切って、この世界で平穏に過ごせるのだろうか。
……分かっている。そんなこと、絶対に無理だ。
もう、無知のままでいられない。そのことを知ってしまった以上、俺はずっとこのことについて悩み、後悔して、生きていくことになるだろう。
この思いを背負って生きることが、できるのか?
麗奈に守られて生きてきた俺に、見殺しにするという罪を背負えるのか?
(そんなの――)
答えは、もうすでに出ている。
しかしそれを認めたら、あの子を悲しませることになる。
だから俺は、もう何も言えなかった――。