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シェアリングボディ  作者: 千羽 鶴美
第一章 運命の契約
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第18話 最後の一筆④

 その数日後、高橋と藤井の面談は、藤原が用意した高級ホテルの一室で行われた。煌びやかなシャンデリアが天井から光を落とし、壁には洗練された抽象画が並んでいる。窓の外には都会の夜景が広がり、その壮麗な風景は二人の心の葛藤をかき消すには至らない。


 高橋は重厚な木目の扉を押し開けると、目の前に広がる豪華な空間に一瞬気圧された。部屋の中央には、藤井が革張りの椅子に腰掛けていた。無言のまま彼を迎える藤井の鋭い眼差しが、緊張感をさらに高める。


「ようこそ、高橋君、はじめまして」

 藤井はゆっくりと口を開いた。その声は落ち着いていたが、どこか張り詰めた響きがあった。


「お邪魔します……」

 高橋は小さく礼をして指定された椅子に腰を下ろした。


 部屋の隅では藤原と中村が控えている。藤原は冷静な表情で二人を見つめ、中村は緊張する高橋を気遣うように寄り添っていた。


 藤井はテーブルに置かれた一枚の未完成のスケッチを手に取り、震える手で高橋に差し出した。

「これが、私が完成させたい作品だ」


 高橋はそれをじっと見つめた。絵にはまだラフな線しか描かれていなかったが、その中に藤井の執念が滲み出ている。


「これを……完成させるために、俺の身体が必要なんだな」

 高橋の声には迷いが混じっていた。


 藤井はその言葉に静かに頷いた。

「そうだ。私は年齢と病によって、かつてのように絵を描くことができなくなった。この作品は、私の人生の集大成となるものだ。だが、それを完成させるには、君の若く健康な身体が必要だ」


 高橋は視線を落とし、何かを思い出すように呟いた。

「俺も……昔は画家になりたかった……」


 藤井は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐにそれを隠し、静かに促した。

「画家を目指していたのか。どうして辞めた?」


 高橋は苦笑いを浮かべながら答えた。

「俺には才能がなかったんだ。美大には二浪もしたがだめだった。親にも見捨てられた。お金もなかったし、絵を描いても誰にも評価されなかった!……それで諦めた。今は借金まみれで、まともな生活をするのが精一杯だよ。でも、じいさんは違う。じいさんの絵は多くの人に評価されて、世界に影響を与えてきた。俺なんかとは違う!」


 その言葉に、藤井は険しい表情を浮かべた。

「違う?そんなことはない。私だって、何度も挫折を味わい、苦しんだ。絵が評価されることもあれば、まったく相手にされないこともあった。それでも描き続けるしかなかった。君はただ……途中で諦めただけだ」


 藤井の厳しい言葉に、高橋は反発しようとしたが、言葉が出てこない。


 沈黙が続いた後、藤井が再び口を開いた。

「だが、君が画家を志していたのならば、この契約はなおさら慎重に考えなければならない。君の身体を借りるということは、君の未来の可能性を奪うことになるかもしれないのだから」


 高橋は悔しそうに顔を歪めた。

「未来なんて……俺にはないよ!絵を諦めて、ギャンブルに逃げて、借金を作って。俺の人生はもう終わってる!でも、2000万円があればやり直せるかもしれない。そのためなら、俺の身体を使ってもらって構わない!」


 藤井はその言葉を聞き、テーブルの上で拳を握りしめた。

「君は本当にそれでいいのか?確かに私の作品は世界に評価されるかもしれない。だが、そのために君の命を削ることが正しいのか?私には答えが出せない」


 高橋は目を伏せ、静かに言った。

「でも……じいさんがこの絵を完成させたいように、俺にもどうしてもやり直したい人生がある。俺にとっては……それがすべてだよ」


 その言葉に、藤井はしばらく黙り込んだ。


 藤原がその沈黙を破るように口を開いた。

「高橋君。君の選択がどれだけ大きな覚悟を必要とするか、私も想像できるよ。でも、その覚悟があるなら、後悔のないよう全力で進んでほしい。私たちも君を支えるつもりだ。」


 中村もまた、高橋に優しく声をかけた。

「高橋さん……自分を責めないでくださいね。あなたが選んだ道は、必ず意味を持つものになるはずです。ここにいる全員がそう信じていますから」


 高橋は二人の言葉を聞いて少し考え、やがて強い口調で言い切った。

「俺はもう決めた。俺の身体が役立つなら、それでいい。俺はもう、自分の無力さに怯えるのは嫌だ!」


 藤井はその言葉を聞き、静かに目を閉じた。


「分かった。君の覚悟に応えよう。だが、私はこの作品を完成させた後、必ず君に何かを返すと誓う。それが私にできる唯一の贖罪だからだ」


 高橋は契約書にサインをした。ペンを置いた瞬間、心の中に渦巻いていた葛藤がわずかに和らいだ気がした。


 藤井もその様子を見て契約書にサインをした。

 そして、未完成のキャンバスを見つめながら呟いた。

「君の夢を諦めさせた世界に、私の絵がどんな意味を持つのか……見届ける覚悟だけはあるつもりだ」


 窓の外の夜景が二人の間に漂う緊張を包み込み、部屋には重い静寂が戻った。


***


 その様子をじっと見守っていた藤原が、静かに一歩前に出た。


「それでは、契約に基づき、お二人の首筋にICチップを埋め込む手術を行います。このチップは脳波を同期させ、お互いの身体の共有を可能にします。どうぞご安心ください。痛みはほとんどなく、処置も数分で終わります」

 藤原が穏やかな口調で説明する中、テーブルの上には医療用の小型ケースが開かれた。そこには整然と並ぶ器具と、銀色に輝く極小のICチップが収められている。


 高橋は少し驚いた表情を浮かべた。

「え、ここでやるのか?」


 藤井も目を細めたが、特に反論することなく黙ってうなずいた。


「時間を無駄にしないためです」

 藤原が静かに説明する。

「それに、こういった技術は最もリラックスできる空間で行うのが望ましい。安心してください、医療機器も全て最高級のものです」


 高橋は藤原をじっと見つめていた。


「それでは、始めましょう」


 藤原は手際よく医療用グローブを装着し、専用の注射器を手に取った。


「まず、これがICチップです」

 彼は親指と人差し指でつまめるほどの小さな装置を見せた。それは爪ほどの大きさで、滑らかな金属の輝きを放っている。


「これはお二人の意識と身体をリンクさせるためのものです。首筋の皮下に埋め込みます。痛みはほとんどありません。麻酔もこの場で施しますのでご安心を」


 高橋は緊張で肩を強張らせながらも、椅子の背もたれに身を預けた。

「こういうの、初めてなんですけど、本当に大丈夫なんだよな……?」


 藤井は冷静な顔つきで、軽く息をついた。

「君が怖がるなら、私が先にやる。」

 そう言ってシャツの襟を軽く緩め、首筋を差し出した。


 藤原は微笑みを浮かべながら、藤井の首筋に冷たい麻酔スプレーを吹きかけた。

「では、先生から始めます」


 器具を使った細かい動きが数十秒ほど続いた後、藤原は器具を引き抜き、優しくガーゼを押し当てた。

「はい、終わりました。ほとんどわからなかったでしょう?」


 藤井は首を軽く触れながらうなずいた。

「驚くほどだな」


 次は高橋の番だった。藤井の淡々とした様子を見て少し安心したのか、深呼吸をして藤原の指示に従った。

「少しひんやりしますが、すぐ終わりますよ」


 同じようにチップが埋め込まれ、藤原は処置を終えたことを告げた。

「これで準備完了です。お二人の身体は、これから必要に応じて意識を交換することができます。」


 ***


 処置が終わり、藤原が道具を片付け始めると、部屋には静寂が訪れた。


 高橋は自分の首筋に軽く触れ、どこか不思議な気持ちで呟いた。

「これで、本当に俺たちは繋がったってこととだよな……?」


 藤井は少し黙った後、鋭い視線で高橋を見据えた。

「繋がった、というよりも――お互いの責任を背負ったということだ」


 その言葉に高橋は一瞬たじろいだが、すぐに苦笑を浮かべた。

「責任、か……。俺なんかにそんな大層なものを持てるのか、正直わからないけどな」


 藤井は首筋に触れながら、遠くを見つめるように言った。

「君がこれから直面する現実は、君の想像を超えるかもしれない。だが、これはお前が選んだことだ。軽々しい気持ちで片付けられるものではない」


「……そうだな」

 高橋は少し俯きながら答えたが、その声にはどこか覚悟がにじんでいた。


 そのやり取りを見守っていた藤原は、二人の間に漂う張り詰めた空気を和らげるように口を開いた。

「さて、これでお二人は技術的にも準備が整いました。あとは実際に入れ替えを行う日を待つだけです」


 中村は微笑みながら、二人の間に紅茶のカップを差し出した。

「契約と手術、お疲れ様でした。少しリラックスして、これからの計画について話し合いましょう」


 カップを受け取りながら、高橋はふと藤井の顔を見た。その表情には、どこか寂しさと決意が混ざり合っているように見えた。


「じいさん……本当に俺でよかったのか?」


 唐突な問いに藤井は少し驚いたようだったが、すぐに静かに答えた。

「君だからこそだ。私の夢を託すには、君のように何かを諦めた経験を持つ者が必要だった」


 高橋はその言葉を噛み締めるように受け取り、再び首筋に触れた。そこに埋め込まれた小さなチップは、たった今、自分の人生が大きく変わったことを象徴しているようだった。


 藤井は真剣な表情でつぶやく。

「君の勇気を無駄にしない作品を描いてみせる」


 その時、二人の間には言葉では表せない何かが流れていた。互いの立場の違い、経験の違い、それでも同じ運命を背負うことになった者同士の不思議な絆。


 藤原と中村は穏やかに見守りながらカップを傾け、窓の外に広がる夜景に視線を向けた。そこには、未来への希望と不安が混ざり合った光が、きらめいていた。

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