第17話 最後の一筆③
繁華街のネオンが揺らめく夜。人混みの中、ひときわ目を引く美しい女性が、パチンコ屋の外でじっと立っていた。中村はシンプルな白いワンピースに身を包み、その端正な顔立ちと柔らかな雰囲気で通行人の視線を集めていた。しかし、彼女の目はパチンコ屋の出口だけに向けられている。
ガラス扉が開き、店内の喧騒と共に一人の男性が姿を現した。25歳の高橋。疲れた表情を浮かべながらも、どこか荒んだ雰囲気をまとった男だった。
藤原からの情報によれば、高橋はかつて芸術家を志し、美大を目指していた。しかし結果は振るわず、2年間の浪人生活を送ることに。その末、両親の信頼を失い、ついには勘当を言い渡されたという。それ以来、堕落した生活に身を落とし、日々をただ惰性で過ごしている――そんな男だった。
***
中村は軽く深呼吸すると、すっと彼に近づいた。
「高橋さんですよね?」
突然の声に高橋は驚き、眉をひそめて振り返る。驚くような美人だったことで高橋は二度驚く。
「……あんた、誰?」
怪訝そうに目を細める高橋に、中村は微笑みながら名乗った。
「初めまして、中村といいます。少しだけ、お話ししたいことがあるんです」
その柔らかな声と親しげな笑顔に、高橋の警戒心がやや薄れる。
「話?俺、そんな暇じゃねぇんだけど」
そう言いながらも、高橋の視線は中村に向けられ続けている。
「でも、2000万円の話なら聞いてみたくありませんか?」
中村は核心を突くように問いかけた。その言葉に、高橋の足が止まる。
「……2000万?何だそれ、詐欺か?」
高橋は半ば呆れたように笑ったが、その目には興味がにじんでいた。
「いえ、そんなことはありません。ただ、ここで話すには少し内容が特殊すぎます。近くのカフェで、落ち着いてお話ししませんか?」
中村の控えめな提案に、高橋はしばらく考え込む様子を見せたが、やがて面白そうだという顔で頷いた。
「いいよ。話だけ聞いてやる」
***
二人は近くの静かなカフェに入り、隅の席に腰を下ろした。中村はまず軽い雑談を交わしながら、少しずつ高橋との距離を縮めていった。そして、タイミングを見計らって本題を切り出した。
「高橋さん、今の生活に満足していますか?」
中村の問いに、高橋は苦笑いを浮かべた。
「満足?そんなわけねぇだろ。借金はあるし、仕事もクビになったばっかだ。パチンコくらいしか楽しみがないって感じだな」
その言葉に、中村は真剣な表情でうなずいた。
「そんな高橋さんに、特別なお仕事をご提案したいんです。それも、一度やれば2000万円の報酬が得られるお仕事です」
「2000万……本当かよ?」
高橋は目を丸くして中村を見つめた。
「本当です。ただし、リスクもあります。そのことも含めて、正直にお話ししますね」
高橋は少し身を乗り出し、興味津々といった様子で中村の言葉を待った。
「簡単に言うと、あなたの身体を一定期間お預かりし、特定の方に利用していただくというお仕事です。その間、あなたは報酬を受け取る権利が生まれ、2000万円が保証されます」
「身体を貸す……?どういうことだよ、それ」
高橋の表情には困惑が浮かぶ。
「例えば、高橋さんのような健康な身体を必要としている人がいるとします。その方の目的に応じて、あなたの身体が活用される仕組みです。その期間中、あなた自身は身体を動かすことはできませんが、意識は身体の利用者と同居する形になります」
「それだけで2000万ももらえるのか?」
「はい。ただし、リスクがあります。その一つが、寿命が短くなる可能性があることです」
その言葉に、高橋の顔が少し強張った。
「寿命が……短くなる?」
「はい。これはあくまで可能性の話ですが、医学的には脳や細胞への影響から寿命が縮む可能性があるとされています。具体的な年月などは分かりません」
中村は高橋の様子を見ながら続ける。
「でも、それ以上に2000万円という大きな金額が手に入ります。それをどう考えるかは、高橋さん次第です」
高橋はしばらく黙り込んだ。そして、ふと苦笑しながら頭をかいた。
「……正直、リスクが怖くないって言ったら嘘だ。でも、2000万ってのは……マジでデカいな」
中村は微笑みながら、高橋の目を見つめた。
「焦らなくても問題ありません。じっくり考えた上でご決断ください」
高橋はその言葉に、真剣な表情でうなずいた。
「……わかった。もう少し時間がほしい」
その言葉を聞き、中村は内心ほっとしながらも、外には出さず、落ち着いた声で返事をした。
「ありがとうございます。また後日連絡を差し上げます」
***
その夜、藤原に報告の電話を入れた中村は、手応えを感じていた。
「先輩、高橋さん、かなり食いついてます。次に進めそうです」
「そうか。引き続き慎重に進めろ。頼んだぞ」
「了解です!慎重に進めていきます!」
***
高橋はその夜、街外れの安アパートの部屋で一人、テーブルに広げた書類を見つめていた。カフェで中村に渡されたそれには、すべてが明記されている――シェアリングボディの仕組み、期間、報酬額、そしてリスク。
「3か月で、2000万……」
高橋は何度目か分からないほどその数字を繰り返した。
けれども、その金額の大きさ以上に、寿命が縮む可能性が頭を離れない。
「寿命って、どれくらいだよ……数年?それとも10年か?」
真っ暗な部屋に、ため息交じりの独り言が響く。高橋は煙草に火をつけ、目を閉じた。
(リスクも何も関係ねぇじゃないか。どうせこのまま生きてたって……)
心の奥底から湧き上がるのは、未来への絶望と後悔だった。
親の期待を裏切り、夢は失い、借金だけが残る今の生活。こんな人生に価値があるのか?
「だったら、この身体を売るくらいなんでもねぇだろ……」
そう言い聞かせながらも、心の中にはかすかな不安が残る。だが、考えれば考えるほど、2000万円の重みがそれを押し流していく。
ふと、テーブルに積まれた未払い請求書の中から、実家の住所が書かれた一枚の封筒が目に留まった。借金の督促状だ。
「親父とお袋、こんなの見たらどう思うんだろうな……」
高橋は苦笑した。親に捨てられた自分が、こんな時だけ親のことを思い出すとは。
だが、その時、胸の奥で何かが弾ける音がした。
(――金があれば、すべてが変わるんじゃないか?)
2000万円あれば借金を返し、少しはマシな生活を始められる。親に返済して謝れば、少しは認めてもらえるかもしれない。
「そうだよな……結局、金だ」
高橋は机に身を乗り出し、書類に目を通した。すべてを確認した後、深呼吸する。
その瞬間、中村の言葉が脳裏に浮かんだ。
「依頼者の方は、高橋さんと直接お会いしたいと希望されています。決定はその場で構いません」
カフェで中村はそう言っていた。
「本当にあなたが適任かどうか、依頼者自身も確かめたいそうです。そのために、まずはこの書類に目を通していただきたくて」
その時は形式的な手続きだと思っていたが、今はその「直接会う」という言葉がやけに引っかかる。
「直接って……どんな奴なんだ?」
考え込むほどに、興味と不安がない交ぜになる。けれど、同時に思う。
(――会ったところで何だってんだ。どうせ俺の身体を借りるだけだろ)
高橋は再び書類を見つめる。
「……わかったよ。直接話して、それで決める」
高橋の顔には、決意とも諦めとも取れる複雑な表情が浮かんでいた。
その夜、高橋は中村に電話をかけ、決断を伝える。
「中村さん、俺……やるよ」
中村はその言葉に小さく息をついた様子で、穏やかに答えた。
「ありがとうございます。では、依頼者の方との面談をセッティングしますね。それが終われば正式な契約に進めます」
「わかった。あとは頼む」
電話を切り、静まり返った部屋で高橋は一人、目を閉じた。