第15話 最後の一筆①
藤井はかつて国際的に名を馳せた美術家だった。彼の作品は抽象と具象を織り交ぜ、儚げでありながら力強い生命感を宿していた。その独自のスタイルは、多くの美術評論家や愛好家を魅了し、一時は「現代美術の巨匠」とまで呼ばれていた。
だが、栄光の日々は長く続かなかった。加齢とともに視力が衰え、長年酷使してきた右手は震えるようになり、筆を取ることすらままならなくなった。藤井にとって、それは単なる身体的な衰えではなく、自身の存在価値そのものが揺らぐ出来事だった。
彼は何度も夜を明かしながら、これまでの人生を振り返った。無数のキャンバスに刻まれた筆跡、名声、喝采、そしてそれに伴う重圧。すべてが、一瞬の夢のように思えた。
***
藤井が暮らす古びたアトリエに、藤原が足を運んだのは久しぶりのことだった。アトリエの壁には、彼の過去の作品が雑然と掛けられ、その隙間には埃を被った道具や未完成のキャンバスが置かれている。かつての輝きは、もうそこにはなかった。
藤原は百貨店の外商として長年藤井と付き合いがあり、画材や美術書の調達から時折の相談事まで、さまざまな形でサポートしてきた。藤井の作品を誰よりも間近で見守ってきた藤原にとって、彼の現状を知ることは胸が痛む思いだった。
「先生、お久しぶりです」
藤原がアトリエの扉を開けると、藤井がちらりと顔を上げた。目元には深い皺が刻まれ、かつての鋭い眼差しはどこか曇っている。
「君か。随分と久しいな」
藤井の声は疲れ切っていたが、それでも懐かしそうな表情を浮かべた。その声には、どこか諦念の色が混じっていた。
「先生のことが気になって、様子を伺いに来ました。最近は、あまり筆を取られていないと聞きまして」
藤原はそう言いながら、そっとアトリエに足を踏み入れる。その後ろに続いたのは、中村という若い女性だった。
「おや、今日は客が多いな」
藤井が中村を見て笑顔になった。微かに笑みを浮かべる表情には、かつての温かみが僅かに残っていた。
「こちらは中村といいます。うちの新人です」
藤原は軽く紹介しながら、中村を藤井に向けた。
「藤井先生、はじめまして!」
中村が元気よく挨拶すると、藤井は彼女をじっと見つめた。若さが溢れるその姿が、どこか眩しそうに見えたのかもしれない。
二人が藤井の正面に腰を下ろすと、アトリエの静寂が再び戻ってきた。
***
しばらく世間話を交わした後、藤原が話題を切り出した。彼の声には、慎重さと躊躇いが混ざっていた。
「先生、以前からおっしゃっていた『永遠の形』ですが……あの作品はどうなっていますか?」
藤井は一瞬顔を曇らせた。彼の表情には、長年抱えてきた葛藤が如実に浮かび上がる。
「……あれは未完成のままだ。今の私には、仕上げる力が残っていない」
静かに答えるその声には、自身の無力さを受け入れた者の諦めが滲んでいた。
藤原は目線を伏せ、しばらく沈黙した後、静かに言葉を続けた。
「ですが、あれほど先生が情熱を注がれていた作品です。何かお手伝いできることがあればと思っているのですが」
藤井は苦笑いを浮かべた。その笑顔には、どこか自嘲的な色があった。
「ありがたいが、私の問題は誰かに解決できるようなものではないよ。見ての通り、老いと病がこの身体を蝕み、もう筆を取ることすらままならない」
彼の言葉には、かつての自分への痛烈な失望と、今の自分への諦念が交錯していた。
***
藤原は慎重に言葉を選びながら、次の提案を切り出した。その提案がどれだけ藤井の価値観を揺るがすか、彼には痛いほどわかっていたからだ。
「先生、一つお伺いしてもよろしいでしょうか。もし、今の身体の制約を超えて、絵を描くことができるとしたら……それでも『永遠の形』を完成させたいと思いますか?」
藤井は眉をひそめた。唐突な問いに、彼の心はざわついた。
「身体の制約を超えるだと? 何を言っている?」
藤原は一呼吸置き、ゆっくりと説明を始めた。
「実は、『シェアリングボディ』という技術がございます。他人の身体を一定期間お借りし、自分の意思で活動することができる技術です」
この言葉が、この場の空気を一変させた。藤井の目が驚きで見開かれる。
「他人の身体を借りる……? それは本当に可能なのか?」
藤原は冷静な表情を崩さず、真っ直ぐに藤井の視線を受け止めた。
「はい、可能です。この技術は、もともとは医療目的で、昏睡状態や身体麻痺を抱える患者に新たな生活の可能性を提供するものとして開発されました。しかし、倫理的な観点から、国は厳しく規制するとともに、情報の公開についても固く制限されています」
藤井は腕を組み、眉間にシワを寄せた。国の規制が厳しいという言葉に重みを感じたのか、しばし考え込む様子を見せる。
「国は……そんな技術を認めるわけにはいかないだろうな」
藤原は頷き、淡々と続けた。
「そうですね。ですから、このことは内密にお願いします」
藤井は考え込むように天井を見上げた。アトリエの薄暗い照明が彼の顔を照らし、浮かび上がる深いしわが彼の人生の苦悩を物語る。しばらくの沈黙が場を包み込んだ後、彼は大きく息を吸い込み、藤原をじっと見つめた。
「……本当にできるんだな?」
藤原は頷き、その視線を真っ直ぐに返した。
「はい、できます。費用は2億円。そのうち、身体の提供者には2000万円が支払われます。契約期間は3か月です。そのうちの1か月は身体を動かすための練習期間にあてられ、残りの2か月間が本稼働期間となります」
藤井は息をつき、椅子の背もたれに深く体を預けた。
「2億か……極秘技術なだけあってそこそこ値はするんだな。まあ、払えない額ではない。練習期間ってのは、何をするんだ?」
「練習期間とは、身体を動かすために必要な訓練等を行う時間です。他人の身体になるので、筋力や感覚が異なり、初めは歩くことすらままならないことが多いんです。先生の場合は、作品を描くための微細な訓練なども必要になると考えられます」
藤井は椅子の肘掛けに手を乗せ、軽く指先で叩きながら小さく唸った。
「なるほど、そういうものなんだな。そうすると実際に動かせる期間は2か月か……仮に100%の力で描けたとして、作品が完成するか微妙な期間だな。期間を伸ばしたりはできないのか?」
藤原の表情が少しだけ曇った。
「申し訳ございません。期間の延長は認められていません。身体の提供者への負担を考慮し、契約期間を厳密に限定しています」
「負担?それはどんなものだ?」
藤井は身を乗り出し、藤原を睨むように問いかけた。
藤原は一瞬言葉を選ぶように沈黙し、それから静かに答えた。
「依頼者……今回で言うと先生のお身体の方は契約期間中、寝たように過ごすことになるため、筋力が低下するリスクがございます。一方で、身体の提供者には脳や細胞への負担があり、寿命が縮まる可能性もあるとされています」
その言葉を聞いた途端、藤井の表情が険しくなり、勢いよく立ち上がった。椅子がわずかに軋む音がアトリエに響く。
「……何だと?そんな危険を他人に押し付けてまで、自分の夢を追いかけるだと?冗談じゃない!」
藤井は激しく二人を睨みつけ、声を震わせながら続けた。
「お前たちは一体何を考えているんだ!他人の命を犠牲にして、自分の作品の道具にしろと?許される話ではない!」
その言葉にアトリエの空気が一段と重くなる。藤原は藤井の激しい怒りに動じることなく、静かに視線を伏せた。
「先生、我々はこの技術が誰かの夢を支えるためのものだと信じています。ただ、先生の仰る通り、提供者への負担はあります。それでも、提供者の中にはその選択を進んで選ぶ方もいらっしゃるのです」
藤井は顔を歪め、大きなため息をついた。
「馬鹿げている!」
その叫びがアトリエの壁に反響した。中村が静かに視線を上げ、口を開いた。
「藤井先生……私は、提供者を経験しました」
藤井は驚き、中村を見つめた。
「……君が?」
「はい。その時、私が提供した身体は、ある人の大切な夢だった『若く美しい時間』を実現するために使われました。その結果、その人は夢を叶え、私は報酬を受け取りました」
藤井は唇を噛みしめた。中村の言葉は彼の中に渦巻く葛藤をさらに掻き立てた。
「だが……だが、もし君がその選択を後悔していたらどうする?命が縮んだことで、あと何十年もあったはずの未来が奪われたら?」
中村は真剣な目で藤井を見つめた。
「私の選択には後悔がありません。それに、私が提供した身体が誰かの人生を変える一助となったことは、私自身の生きる意味にもなったんです。」
中村は続ける。
「確かに寿命が縮まる可能性の話は事前に伺いました。当時の私はそれでも報酬である2000万円の方が魅力的でその選択をしました。何度でも言いますが、私には後悔はありません」
藤井は椅子に座り直し、重く沈んだ声でつぶやいた。
「他人の命を削ってまで……そんなことが本当に許されるのか?」
藤原は静かに藤井の顔を見つめた。
「先生、提供者の方も自ら選択されているんです。無理やりではありません。そして、その選択によって救われる方もいるのです」
藤井は目を伏せ、何かを噛みしめるように息を吐いた。
「それでも、提供者が失うものは計り知れないだろう……。君たちはその責任をどう感じているんだ?」
藤原はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「私たちは、夢を追い続けることに価値があると信じています。そして、提供者の選択もまた、彼らにとっての新しい可能性なのです」
「可能性……か」
藤井の声は苦しげだった。頭を抱えたまま、彼の視線はぼんやりとアトリエの片隅に置かれた未完成のキャンバスに向けられていた。
(あの作品は、私の人生の全てだ。この一筆を描くために、生きてきたと言ってもいい。だが……そのために他人を犠牲にするなど、本当に正しいことなのか?)
彼はかつて、若い画学生にこう語ったことを思い出した。
「芸術は、生命の力だ。その力を奪うことで得たものに、本当の価値などあるのだろうか?」
その時の自分の言葉が、今になって鋭く胸に突き刺さる。
中村が再び口を開いた。
「先生、私が提供者として選んだ理由の一つは、自分の身体が誰かの夢のために役立つということでした。確かに負担はあります。でも、それが意味のあるものだと信じています」
藤井は中村の真剣な表情をじっと見つめた。その言葉は、彼の心を少しだけ動かしたようだった。しかし、すぐにまた顔を歪める。
「もし、その選択が間違いだったらどうする?寿命が縮むことが現実になった時、君は何を思う?」
中村は一瞬ためらったが、力強く答えた。
「私には後悔はありません。あの選択があったからこそ、私は今ここにいて、自分の人生を少しだけ前に進めることができたのです」
藤井は頭を抱えたまま再び沈黙した。過去の栄光、苦悩の日々、そして未完成のキャンバス――それらが次々と彼の脳裏に浮かび上がる。
(私は本当に、ここまでしてこの絵を完成させるべきなのか?それとも、このまま未完成のまま人生を終えるべきなのか?)
アトリエには静寂が訪れ、藤井の内なる葛藤が重く空気を支配した。時間がどれほど経ったか分からない。やがて藤井はそっと顔を上げ、震える手で眼鏡を外した。
「……身体を提供してくれる人に直接会って話をしてから返事をすることはできるか?」
藤原は静かに頷く。
「はい、可能です。身体の提供者は20代の男性から先生の希望に合った方を選定致します。直接本人の意志を確認してからのお返事でも問題ありません」
「わかった。また連絡をくれ」
彼の目には、決意と痛みが入り混じっていた。藤原と中村は深く頷き、藤井の決断を静かに受け止めた。
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