第10話 美と愛情と④
契約成立から1週間後、中村は藤原の案内の下、高級ホテルの一室を訪れた。部屋は広々としていて、洗練されたインテリアが並ぶ。窓の外には夜景が広がり、ラグジュアリーな雰囲気が漂っていた。
「素敵な場所ね。まるでドラマの中にいるみたい」
中村は部屋を見回しながら、小さく息を呑んだ。豪華なシャンデリアと窓越しの夜景に目を奪われながらも、肩にはどこか緊張が残っていた。
織田はソファに座りながら答えた。
「私もそう思うわ。藤原さんがこの場所を確保してくれたのよ」
藤原に促され、高級ホテルのベッドにそれぞれ横になる二人。織田は少し緊張した様子だったが、その目には期待が浮かんでいた。一方、中村は腕を組んでいたものの、藤原の説明に耳を傾けていた。
「準備はいいですか?」
藤原が静かに尋ねる。
織田は深呼吸をし、指先を軽く震わせながら答えた。
「ええ、準備できています」
中村は不安を隠せない様子で答えた。
「はい、私も大丈夫です…」
藤原がタブレットを操作し始めると、織田の体が微かに震えた。次の瞬間、中村の体を借りた織田が目を開けた。その瞳には驚きと感動が宿っていた。
「これが……私?」
織田は、慣れない中村の体でよろけながら鏡の前に駆け寄り、自分の姿をじっと見つめた。透き通るような肌、引き締まった身体、輝く髪——若さと美しさに溢れる中村の体がそこに見えた。
「こんなに美しい体で生きるって、どんな気分なの……?」
織田は手を頬に当て、目を輝かせた。その仕草には、年齢を重ねた織田の中にあった純粋さが垣間見えた。
一方で中村は、自分の体が他人の手の中にあると感じる瞬間、言葉にできない恐怖と不安が心に湧き上がる。そして、身体が完全に自由ではないという現実がひしひしと迫る。
体が動く感覚が、まるで他人の手によって操作されているようで、心臓が高鳴る。自分の体がどんどん遠くなっていくような、言葉にできない恐怖が胸に広がる。
しかし、同時に、鏡の前に映る自分の姿を見て驚く。自分の体でありながら、鏡に映る表情が輝く少女のようで、まるで別人のように感じられた。
中村は複雑な気持ちになりながら謙遜するように脳内で織田に答えた。
「そこまでいうほど可愛くないですよ」
そして、数分後には元の体に戻された。
「どうでしたか?」藤原が尋ねる。
織田は興奮を抑えられない様子で答える。
「早くこの体で外に出たいわ。そのためならなんだって頑張れる!」
一方、中村は顔をこわばらせながら、
「3か月だけですもんね…なんとか頑張ります…」と答えた。
こうして織田のリハビリにも近い練習期間が始まった。
***
数日が経つと、織田の動きは驚くほど自然になっていた。しかし、慣れるほどに、中村自身の中で奇妙な違和感が膨らんでいく。手足を動かすたびに、自分が「そこにいない」ような感覚が広がっていくのだ。
「どうしても自分がここにいないみたいな感覚が拭えないわ」
織田は中村の手を眺めながらそう言った。中村の指先は、まるで自分のものではないかのように感じられた。
一方、中村もその感覚を強く感じていた。自分の体が他人に動かされているという現実を受け入れるのは、想像以上に難しい。しかし、体の中で感じる織田の存在が、何か新しい感覚をもたらしていた。
ある夜、夜景を眺めながら、織田が静かに口を開く。
「若い頃は、何でも手に入ると思ってたわ。時間も、愛も、成功も。でも、どんなに努力しても手からこぼれていくものがあるのよね」
中村は少し驚きながらも興味を持ち、問いかける。
「でも、織田さんは成功したじゃないですか。モデルやってたって聞いたし、資産家と結婚したんですよね?」
織田は苦笑しながらグラスを手に取る。
「そうね。でも、結局のところ、私は『手に入れたもの』よりも『失ったもの』ばかり覚えているの。あの頃は、もっと大胆に、もっと自由に生きればよかったのかもしれない。あなたはどう?」
中村は一瞬言葉を詰まらせた後、目を伏せて答える。
「私ですか?…私は、失うのが怖くて、最初から何も掴もうとしていないのかもしれません。自分に自信がないから、あきらめてるというか」
織田は中村の言葉に目を細める。
「自信なんて、誰も最初から持っていないわよ。手を伸ばす勇気があるかどうかよ」
「でも、手を伸ばしたとして、それがもし偽物だったら?努力しても失敗したら?」
織田は夜景を見つめたまま、静かに答える。
「偽物でもいいじゃない。結果がどうであれ、手を伸ばした瞬間には、自分の人生に嘘をついていないはずよ」
中村は織田の言葉について深く考えながら眠りについた。
数日が過ぎ、織田は少しずつ中村の体を使いこなすようになった。彼女はホテルの部屋を歩き回り、若い体がもたらす軽快さと美しさに感動していた。
「こんな体を手に入れると、何でもできる気がするわ。世界だって変えられるかもしれない」
織田は笑顔で言った。
織田がまるで自分の体のように幸せそうにしていることに、中村は良い感情を抱かなかった。
「3か月が経ったら、私の体に戻りますので。」
その度に中村は釘を刺すように織田に語りかけた。
織田は夢のような幸せな気持ちが冷め、現実に引き戻された。
***
ある日、織田は中村の体を借りて外出の許可を得た。高級ホテルのロビーに降り立ち、暖かい日差しの下で街を歩く。織田はその感覚に目を細めた。
「冬の光がこんなに暖かく感じるなんて……懐かしいわ。昔はこういう些細なことも感じる余裕があった気がする。」
織田は感慨深げに呟いた。
中村は織田と自分の体を気にかけ、笑顔を浮かべた。
「転ばないように慎重に歩いてくださいね。」
「慎重に……? あなたが普段、何気なくやっていることでも、私はすごく気を遣っているのよ。それがどれだけ大変かわかる?」
「わかります、すみません。でも、私の体なんだから、気をつけるのは当然じゃないですか」
中村は冷静に言った。
織田は咄嗟に謝る。
「あらごめんなさい。思わず感情的になっちゃったわ」
……部屋に戻り織田は中村に問いかける。
「中村さん、契約の時に借金があると言っていたけど……」
「ええ、少し。でも、今回のことで返せるんで大丈夫ですよ」
中村は柔らかく答える。
「最近ニュースで、ホストクラブの取り締まりとかやってるわよね。あなたもそんな理由なのかしら」
織田はなんとなく中村の事情を察していた。
織田は続ける。
「実は私、ホストクラブに行ったことないのよね。若い頃はこれでもモデルとかのお仕事をしたりして、そのまますぐに結婚しちゃったから遊んでる時間がなくって」
織田は少し恥ずかしそうに微笑みながら話し続けたが、その言葉の裏には過去の経験に対する未練が垣間見えるような気がした。
「それで、あなたのような経験をしたことがないから……少しだけ気を使うかもしれないけれど、でもできるだけ楽しくやりたいわ。」
その言葉に、中村は少し驚きつつも、心のどこかで織田の誠実さを感じ取った。
「ありがとうございます。実は少し興味あったんです」
中村は微笑んで答えた。
***
織田と中村の間に緊張感が漂う場面もあったが、練習が終わる頃には少しずつお互いを理解し合い始めていた。考え方や価値観の違いはあれど、二人は次第に互いを尊重するようになっていった。
「もう完全に自由に動けるようになってきてるわ」
織田がそう言うと、中村は微笑んで答えた。
「そうですね。せっかくの機会なので楽しめるとよいですね」
窓の外には、煌めく夜景が広がり、中村の体を借りた織田の姿がガラスに映り込む。その姿は確かに美しく、若さと希望に満ちていた。だが、それはどこか儚く、触れれば壊れそうなものにも見えた。
織田は自分の手のひらをじっと見つめながら微笑み、静かに呟いた。
「この2か月間で、私は何を掴めるのかしら……。それとも、何かをまた失うだけなのかもしれないわね」
中村は言葉を返さず、その視線をじっと見つめる。自分の体を借りた織田の姿に、中村自身の知らなかった側面を垣間見るような気がしていた。
二人の心には、それぞれ違う期待と不安が混じり合っていた。これから始まる日々が、互いにとってどんな意味を持つのか――その答えを知るには、まだ少し時間が必要だった。
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