ウクライナ戦争に関する親ロシア的見解
Wikipediaのページ名で言うと、日本語版では「2022年ロシアのウクライナ侵攻」、英語版では「Russian invasion of Ukraine」と呼ばれている軍事的衝突すなわち戦争について、単にウクライナ戦と称し、親ロシア的な立場から自らの考えを述べたい。
世界の本質を見るのに良い題材だからだ。
今回の戦争は、主権国家であるウクライナの国土に対するロシア軍の侵略行為をきっかけとして欧米つまりNATOが巻き込まれたものだという主張があるが、どう控え目に見ても、客観的にはその当初から、NATOとロシアの間の代理戦争だったと思う。
とはいえ、主権国家に対する軍事侵略は国際法違反であるからロシアに全面的な非があるという主張があるが、国内法ですら恣意的に運用されているのに国際法はさらにそうであるから、国際法の規定のみによって国際政治の正邪を語ることは到底できず、その主張は成立しない。
結論から言えば、米国が意図的にウクライナ戦争を起こし、高度な管理のもとに戦争状態を今も維持していると思う。結果としてロシアは衰弱し、欧州がロシアと切り離されたが、それは米国の意図に沿っているのだろうと思う。
仮に、米国が意図的にウクライナ戦争を実行しているとすると、米中対立を視野に入れてウクライナ戦争を見なければならないだろう。
中国のGDPが米国のGDPを超えるだろうという予測がある。10年以内に超えるだろうという予測もある。100年後の予測によってだって国家は動く。GDPがすべてではないが、中国の存在感が急激に増加しつづけてきたのは事実だ。
さらに将来、中国の国力が極めて強大になれば、中国が米国を実効支配する可能性もある。例えば、米国が憲法修正第9条として核戦力をはじめとした武装を放棄させられ、全国の州に中国軍基地が置かれる可能性がある。そのとき、米国の市民の生活が幸福なものであるかはわからない。
少なくとも、中国の政権は、米国の市民の幸福よりも中国の市民の幸福を優先するだろう。
だから、戦争というものは、言わば経済戦争であれ、勝たねばならない。
だから、既存の超大国である米国は、米国の地位と覇権を維持しようと努力する。それは、水が高きから低きに流れるがごとく、自然なことだ。
そのように、今後の米中対立あるいは米中戦争を視野に入れたとき、米国からすればロシアは邪魔だ。
なにしろ、中国の国力が極めて強大になれば、米国がロシア全土を実効支配していてロシアがNATOに所属していたとしても、包囲した中国との戦いに勝利できるかはわからない。また、ロシアが現在の国土の主権を維持したまま中露でブロック化し、中国経済と中国軍に莫大な天然資源を供給しつづける状況も、可能ならば避けたい。
要するに、NATOの実力を今のうちに少しでも東側に伸長しておかなければ、負けるかもしれない。
あるいは、結果的に負けることは避けられないとしても、それまでの時間が減るだろう。
したがって、米国がウクライナ戦争を積極的に実施する動機など、当然にありうる。むしろ、あのときあまりに弱腰だったと反省することになるかもしれない。
そして、もし米中戦争が起きたら、どちらが勝つべきだろうか?
もちろん、そんな巨大な因果は人間の思惑を超えてはいるが、全人類の幸福に適う政権にほど価値や正義があるとは言える。
それは、漢族とアングロ・サクソン人のどちらが地上を統治すべきかということであり、道教とキリスト教のどちらが地上を統治すべきかということでもある。
私の個人的な歴史観で言うと、共産主義は人類思想の癌だと思う。切除して滅ぼしたほうが、結局は人類の幸福を守ることになると思う。
したがって、一度は熱心な共産主義に傾倒した東側の中国とロシアに、私は冷淡だ。
しかし一方で、近代史を通して人々を殺し実際に邪悪を行ってきたのは英国と米国だと思う。アングロ・サクソン人というのは一種の分裂病で、アングロ・サクソン人がする二枚舌は、他の人間の直観を超えている。偽善的な正当化を恥ずかしいと思わない精神性は、裏を返せば底なしの残忍さとして作用してきた。その偽善性には、キリスト教というカルト宗教が確かに大きく貢献している。彼ら彼女らは、正直や誠実という美徳と非常に遠い。
私は、人類の社会で正直や誠実が美徳とされる程度は、人類幸福の程度にただちに直結していると考える。
そのように、将来的な米中対立の高まりを見すえた上で、西側による人類統治こそが人類幸福にかなうと仮定するなら、大量の東スラヴ人が死に追いやられても、極めて残念だが避けられない犠牲なのだとして、割に合うと計算することもできる。
しかし、だったらそう言えばいい。
病院に爆弾が落とされて幼い子供が殺されたからロシア側が悪ですよ、といった主張を声高に繰り返すことは、欺瞞的なプロパガンダでしかない。国境を侵略した側が一方的に悪だという主張も同じだ。物事の実相から話題をそらす偽善であり、その時点でただちに邪悪だ。その邪悪を認識できず与する者達は、知能的に愚かだ。
嘘やごまかしはいけないものだという主体的な心理作用が人々のうちで弱くなっていくことを意味するから、人類幸福に負に作用する。
ごまかしたほうが得だとしてもごまかしてはいけないし、絶対にばれないとしても嘘をつくべきではない。そう認識するだけの知能を人類が失っていくことを意味する。
もし正直の美徳が失われ偽善が社会を覆ったならば、人間は人間同士虐げ合うようになる。生まれた環境に恵まれた人々が、生まれた環境に恵まれない人々を、自己責任論に言い換えてどこまでも苦しめるようになる。そのとき、偽善に覆われた社会では、実在する山ほどの苦しみは認知すらされない。
米国は中東で山ほど人殺しをしてきた。多くの国々を徹底的に荒廃させた。民主主義の美名のもとにクーデター政権を打ち立ててきた。そこには石油利権も深く関与しており、世界史はパワーゲームにほかならない。
日本もまた核爆弾を落とされ、武装解除され軍事基地を置かれ、周辺諸国が核兵器を保有してなお核兵器を保有することを許されない。なおかつそのことが、戦前に圧政を敷いていた独裁的な軍事政権の支配から自由と民主主義のもとへと民衆を解放してくれた、米国の善意にもとづく歴史的な進歩だと教えられて、市民の大多数はその進歩的歴史観を心から信じている。核爆弾で同族の女子供を焼き殺してくれてどうもありがとう、と心から思っている。それが、パワーゲームに付随する思想闘争の自然な結末なのだ。
戦争を良い国と悪い国の戦いと見なして、例えば日本に核爆弾を落としたことには十分な正当性があると米国人の大多数は信じているし、もちろん信じたがる。しかし、戦争を良い国と悪い国の間の現象だと捉えること自体が、幼稚で危険なことだ。
そして、ロシアのプーチン大統領は気違いだとまで言われている。
ウクライナに侵攻したプーチン大統領は馬鹿だと思う心理と、ハワイの真珠湾に攻撃した旧日本軍は馬鹿だと思う心理は同じだ。
倫理感の欠落した、保身のために強いものに寄り添うだけの処世術に堕落した大衆が、生き残ったものの側に正義を言いたがり、勝てば官軍負ければ賊軍の論理によって、弱者や敗者の行動の裏にあった合理性や必然性を軽視し、その知的能力を矮小化する。どんな状況に置かれても、人間が熟慮して正しく判断できれば、きっと活路は得られると信じたがる心理バイアスに由来している。
邪悪な権力者の独断によってこそ不幸は起こるのだと事態を矮小化する。権力が悪で市民は善だという構図に引き込まれて、各々の良心という美徳を失念し、共産主義的な近代的市民主義にまで堕落する。
現実には、プーチン大統領はロシア人の利益を合理的に代表しているし、歴史上、国家なるものの振る舞いが個人の独断によって左右された事実はない。北朝鮮の金正恩総書記の一族による外交や核保有にだって北朝鮮としての合理性が認められる。それなのに、超大国のメインストリームの外側にいる者達はみな、精神異常のならず者のごとく宣伝される。そのために民衆は、世界情勢や世界史の事実がまったく認知できなくなっている。それは危険なことだ。
世界情勢の推移に個人なんて関係ない。あると思うなら、そう思う者の脳内が漫画レベルの認知能力なだけだ。しかし、世間の言論の圧倒的大多数は、漫画レベルの認識によっている。つまりプロパガンダを前提にした上でコミュニケーションしているのだから、合理的な判断など起こらない。
また、虐待されて育ち、社会の底辺でひたすら虐げられて生きてきた者が、殺人事件などを犯せば、犯罪行為は決して許されるものではないが犯人には同情すべき側面もある、と言われる。
同様に、ロシアの立場に同情すべき側面があったとしても主権国家に対する侵略行為は国際法に違反しているから絶対悪だよね、と言われる。
しかし一般に、違法だから絶対悪だとは言えないし、むしろその考えは普遍的な絶対悪だ。なぜなら、倫理的な論点は法的な正当性に優越するからだ。なぜなら、そう見なすのでなければ、既存体制の権力に何らかの不当性があるとき、それを是正することはできないからだ。なお、近代法理がもとづく正当性については、功利主義またはジョン・ロールズの正義論などによって定義されている。そこでは、生まれた環境の格差によって不遇な人々が虐げられることが倫理的に否定されている。
しかし、違法なら絶対悪だという論理は、麻薬のように甘美でもある。なぜなら、倫理的な美徳を喪失した利己主義者は、長い物には巻かれる権威主義者でもあり、既存の体制のもとで獲得した既存の利益を保身しようとするからだ。
例えば、児童虐待のありようによっては、子が親を殺しても倫理的には正当だ。一方で、多くの児童虐待は法のもとに罰せられることなく実現されている。したがって、合法的な非道など山ほど実在するし、そのことを十分妥当に認知するためには、違法だが正当な行為が存在する事実に自覚的でなければならない。「決して許されるものではないが」とは、保身の心理から湧き出す欺瞞の言葉でしかない。
それらの意味で、今回のウクライナ戦について、日本を含む西側のメディアは、あまりにもプロパガンダに覆われていると思う。
そして実際には、NATO側からウクライナに対しては莫大な武器や物資、金や情報が与えられている。米軍が有するような高度な情報は、軍事的な関係に死活的に影響する。
日本の近代史で言えば、日中戦争から第二次世界大戦の終戦までの長期間にわたり、援蔣ルートによって底なしの代理戦争を経験している。現在の自衛隊の全力をもってしても、もしNATOが背後から支援したなら、沖縄の独立すら決して防ぐことはできない。
また、第二次世界大戦でソビエト連邦は、米国のレンドリース法によって莫大な量の軍事物資を与えられている。ソビエト連邦が独力でナチスドイツを撃退したかのような歴史観は、まったくのファンタジーだ。
世界はまったく、言わばユダヤ系の世界的巨大資本の手のひらの上で、貧しい者同士で殺し合いをさせられてきたのである。日中戦も独ソ戦も軍事バランスから言えば、まったくの代理戦争だった。日本の日露戦争の勝利も日英同盟に深く立脚していて、まったく自力ではない。
自分の利益のために代理戦争ができる人達は、他人の命なんてなんとも思ってない。
しかし、人間が人間同士、武器を手にとって殺し合うということは、とても悲惨な光景だ。
ロシア人もウクライナ人も、一人一人が幸福な人生に値するし、ましてや東スラヴ人という同じ民族の兄弟同士だ。それが、アングロ・サクソン人やユダヤ人の利益のために殺し合うなら、世界情勢として健康とは思われない。
軍事物資の莫大な支援があれば、いつでもどこでも戦争なんて起こせる。支配され搾取されることに不満をいだいている人々など、どこにでもいる。パワーバランスにしたがって誰だって我慢してるだけだ。自衛戦争が絶対正義ならば、権力者は好きなだけ人を殺して世界を修正できることになる。
だから、国際法による侵略戦争の規定を論じるより、代理戦争としてのパワーバランスを見たほうが真実に迫れる。
戦争を起こさなくても、経済的な範囲でだって、国を非常に衰退させることはできる。日本のGDPが30年間停止させられたようにである。
NATOが東に拡大することは、経済バランスから見て一種の必然だ。しかし、NATOの中枢にはそれを制御する明確な実権があった。ウクライナがNATO加盟を求めても、当面にわたってそれをつっぱねる態度を明確に示す選択肢もあった。
そして、ウクライナ東部にNATOの実権が伸長することは、ロシアにとってのキューバ危機を意味するから、開戦についてはロシアにとっての合理性と必然性があった。
米国は、相対的にロシアを緩やかに衰退させるためには、戦争を起こさない選択肢もあった。しかし米国は、何らかの利益の確保を急ぐ選択を行い、若者をはじめとする大量の現地人を殺害する道を選んだ。
それは、米国または米国の中枢にとっては利益なのだろう。しかし、米国の植民地として搾取されつづけている日本の奴隷達が、西側のプロパガンダに全面的に迎合して、ロシア軍の脆弱をあざ笑い、東側を見下して満足しているのは滑稽だ。
日本が今、再び米国と戦ったなら、今のウクライナのロシア軍以上に戦えるとでも言うのだろうか? 再び原爆を落とされてただちに制圧されるだけだ。だからこそ、彼ら彼女らは真実と正義について考えることをやめた。権威主義と利己主義とに魂を売った。それは、悪魔への堕落だ。
金銭という権力によって、日本人は日本人としての連帯を奪われ、我欲に生きる傀儡として、生きたまま殺された。
それは、近代をとおして、世界中で起きてきたことだ。
ユダヤ人やアングロ・サクソン人とて、その最初の被害者なのだ。