【純白のシャトルを見つめる】
竹取物語の翁とかぐや姫は産まれる時代を間違えたのだと。高校時代、古文の先生は言った。
いくら手を伸ばしたところで、何も届きやしないその時代から幾百、幾千の時が流れ。
気がつけばそこは、大枚をはたけばいつでも赴くことのできる、人類最高峰の観光スポットへと変わっていた。
何せそこは、この地球という惑星を、上から隅々まで鑑賞することのできる、ただ一つの土地なのだから。
「第5ターミナル…。産まれて初めて生で見たな」
羽田空港第5ターミナル。
月面と地球とを繋ぐ、正に人類進化の象徴。
一日に一本、我々日本便は、月面に向かって華々しく飛び上がる。それを毎日。
きっと100年前の人間ですら、そんな事は想像すらしていなかったであろう。
【地球は青かった】なんていう名言も、最早そう感慨深いものでもない。
「まあ…そう考えれば、あの二人が生まれたタイミングも決して悪いものじゃあなかったのかもな」
この時代にでも生まれようものなら。
月に帰るという、決して届かないあの悲恋の苦しみと切なさは向こうの彼方へと消え去ってしまう。
20万。
この金額を高いと思うか低いと思うかは人それぞれだとして、あの感動は、少なからず現金20万円の価値しかなくなってしまう。
しかし、これも言ってしまえば読み手側の問題。
やはり当人達にとっては、月にすぐに行ける。そんな時代のほうが良いのだろう。
「…俺はさっきから何を一人で考えているんだ」
正直、浮かれている。
この一泊二日の旅行?において、俺は一週間前から念入りに準備を始め、他の客に舐められないよう、キャリーバッグすら新調した。
宇宙空間になれる為、多少なりとも鍛えておこうとジムにも通い始めた。
その他体調管理など、修学旅行を間近に控える学生の比ではないほどに、俺は今日という日を心待ちにしていた。
そうでもなければ、こんな空港の中央でキャリーバッグ片手に竹取物語のifについてなど考えまい。
【本日の月面行きシャトル、間もなく入場ゲートが開きます。発車時刻まで暫くございますので、お早めのご入場をよろしくお願い致します】
「…お、もうそんな時間か」
余計な思考は一旦他所へ置く。
キャリーバッグを握り締め、生唾を飲む。
少し震える足を前へ進め、俺はシャトルの入場ゲートへと進んだ。
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「入場できて良かった…」
本当に何事も無かった。
普段の俺であれば、会社同様、こういう時は何かやらかしているものだが、今日はそんなコトも無かった。
「…これで逆に不安になってしまうのは、流石によくないところだな。うん。自重しよう」
不安をなだめ、席につく。
幸い窓際の椅子だったので、滑走路を眺めているうち、この不安は段々と期待感に変容していった。
室内は、航空機の内部とあまり大差ない造り。
歴史の授業なんかで見る物々しい雰囲気とは随分と差がある。
20万円。とは言ったものの、しかしそれに加えて、このチケットは倍率が凄まじい。
毎日発射しているとはいえ、しかしそれでも一日一本。
宇宙を生で見たい人間など腐るほど存在するわけで、そうなってしまえば、たとえこの価格が100万円であったとしても、チケットの入手というのは困難を極める。
そんなチケットをタダで譲ってしまうというのだから、やはりあの二人は、人間としての器が大きすぎる。
たまたま手に入った。なんて言っていたが、そんなたまたまは、道端にロト○の一等が誰に取られることもなく堂々と落ちているようなものだ(自分のものでないロト○の賞金を受け取るのは犯罪です)。
まあ、つまりありえないという事なのだが。
「…そんな嘘、つかなくても良いんだけどなあ」
優しさが染みる。
二人の為にも、この経験を通して自分の趣味を見つけてみせよう。
【間もなく、離陸準備時刻5分前となります】
「もうそんな時間か…」
「ちょぉぉぉぉっと待ってエエエ!!!」
船内アナウンスを遮るように、可愛らしくもけたたましい叫び声が、船内を駆け巡る。
「あの…すみません…乗り遅れました…あの…」
「…えーっと…。秋奈さん…ですか?」
「はい!すみません…チケットのメールどこにしまっちゃってたのか分かんなくなってて…!」
「大丈夫ですよ。では確認させて頂きますね」
なるほど。まあどんな時にもこんな人は居る。
寧ろ、普段であれば僕がこの位置に居ただろう。
前の座席でよく見えないが、そんなやり取りが行われた所でその女は船内を軽いスキップで闊歩し始め、そして止まった。
「…ん?」
「あ、私隣のものです!いやあうるさくしちゃってごめんなさい!」
紅く染まった艷やかな髪。
見目麗しいとはこの事を言うのだろうという、きれいに整った顔。
何よりも、その太陽のような笑顔は、俺の顔を一瞬にして真っ赤に染め上げた。
「え、あ!いえ…その…大丈夫なんで…隣…どうぞ」
あまりの恥ずかしさに、思わず顔を背けてしまう。
「どうも〜!いやあ…私もびっくりしました〜!まさかこんなにも鮮やかに遅刻しちゃうなんて!あの〜分かります?楽しみにしてる事に限って遅刻しちゃう!みたいな!昨日もちゃんとぐっすり眠ったんですけどねえ〜!あ、わたし秋奈 美空って言うんですけど!」
「…竹下 直男です」
聞いていれば分かる。この人は今とんでもなく興奮しているのであろう。
口数の減らないこの秋奈という女性に対して、俺はもう顔を合わすどころか身体すら背けてしまう。
「いやあやっぱり緊張しますよね!分かります分かります!竹下さん凄い震えてますもん!私も緊張するなあ〜!あ、竹下さんって月に行くの初めてなんですか?私初めてなんですよ〜!」
「…そう、ですね」
もうやめて!振り返らなくても分かる!周りの視線が!痛い!
彼女の声は小さくなるどころか話せば話すほどその広がりを増していく。
恐ろしいのは、この人、何故か話すたびに身体をこちらに近づけて来るのだ。
いや聞こえてるから!
なんて言えるはずもなく。
俺は波に揺れるわかめのように、ただその状況に身を任せる。
それから離陸までの事は、よく覚えていない。
ただ1つ言えるのは、もう飛び上がって月に付くまでの間。俺は月面の事なんて、本当にどうでも良かったのだという事だ。