心の楽譜
彼はいつもピアノを弾いていた
私は陰でこっそり聴いていた
彼の奏でるピアノの音には
彼の心が映っていた
それはまるで魔法のように
私の心に響き渡って
いろんな感情を私にくれた
譜面台に楽譜はなかった
彼の心が楽譜だった
その日は楽しい曲だった
軽やかで明るい曲だった
弾いている彼は楽しげで
聴いている私まで楽しくなった
その日は穏やかな曲だった
ゆったりとした温かい曲だった
弾いている彼は優しい顔をしていて
聴いている私まで優しい気持ちになった
その日は激しい曲だった
重くて荒々しい曲だった
弾いている彼は怒りに満ちていて
聴いている私まで怒りっぽくなった
その日は寂しい曲だった
とても清らかで
でもどこかせつない曲だった
弾いている彼は涙を流していて
聴いている私まで泣きたくなった
その日はピアノの音がしなかった
私が部屋に入ると
そこにいるはずの彼はいなかった
譜面台の上に紙切れを見つけて
そこに書かれた文字を見て
私ははっとした
――僕は遠くへ旅立ちます
今まで聴いてくれてありがとう――
彼が奏でた曲に込められた彼の感情は
このことを私に伝えるためだったんだと
その時はじめて気が付いた
私はピアノの蓋を開いた
心に沸き立つ感情を
今まで彼にもらった感情を
一つ残らず詰め込んで
そこにいるはずのない彼へ向けて
私はその曲を奏でた
私の心の楽譜に刻まれた
楽しくて
穏やかで
激しくて
寂しい
お別れの曲だった