カラスの終わらない一日・後編
時刻はもう昼過ぎ。
カラスは酒場を出た足で、王城のほうに向かっていた。
もちろん間者と会うためだ。
ここから王城までは少し歩く。
カラスは、先程のハゲタカとの会話を思い返し、自然とクロネコのことを考えていた。
彼は変人で狂人だが、では自分は、彼のどこを好意的に見ているのかということだ。
例えば、自分の仕事に対して非常に勤勉で、真摯に向き合っている部分は好感が持てる。
昨日の彼との会話を思い出す。
『何を読んでいるの?』
『シードン人間記。シードンという人間学者が著した本だ』
『人間学者……?』
『変わっているだろう。まあ変わり者すぎて、希少な本にも拘らず、誰にも目を留めてもらえないが』
『何が書いてあるのかしら』
『そうだな……。例えば彼は、第2章でこう言っている。”人間は能動的かつ指向性のある行動を取るとき、最も警戒とはかけ離れた状態に陥る。これは警戒を強めるほど、他方への警戒が弱くなるという、人間の特性が孕んだ矛盾といえる”』
『……どういうこと?』
『能動的とは、受身ではなく自分から行動するということ。指向性とは、特定の方向または対象ということだ』
『つまり……。特定の対象に対して、自分から行動を起こすとき、人間は警戒心が薄くなる?』
『そうだ。カラスは理解が早いな』
『ありがと。でもつまり、どういうこと?』
『暗殺のときに、この人間の特性はかなり役に立つ。カラスはすでに、この実例を目の当たりにしているはずだ』
『……もしかして、リリエンテールを暗殺したとき?』
『そうだ』
『奴は、能動的かつ指向性のある行動を取った。具体的には、カラスに対して魔法を使おうとした』
『つまり、そのとき』
『そうだ。カラス以外に対する警戒心が、最も低下した瞬間。言い換えれば、暗殺の成功率が最も高い瞬間だ。俺はそこを狙った』
『そうだったの。そんな駆け引きがあったなんて、まったく気づかなかったわ』
『まあそもそも、こんな人間記を読んでいる暗殺者なんて、俺以外に見たことはないがな』
そう、彼は勤勉なのだ。
そして自分の得物の手入れも欠かさない。
暗殺における下準備も入念だ。
職業こそ暗殺者だが、どちらかというとプロの技術職人に近い。
職人らしい気質も、確かに持っている。
カラスはそういう人間に敬意を表するし、好感を覚える。
それに、彼は確固たる信念と目的を持って、金を稼いでいる。
カラスはそうではない。
彼女が金を稼ぐのは必要だからであり、質のいい生活をしたいからだ。
だから彼女は、そんなクロネコに、僅かながら憧憬のような感情を抱いているのかもしれない。
そして彼について、これほど自然にいろいろなことを考えてしまう自分がいる。
まるで恋する女に類する感覚ではないかと、カラスは思う。
そもそも、そういう気持ちがあったからこそ、女らしいお洒落をして彼をデートになど誘ったのではないか。
「私、彼に惚れているのかもしれないわ」
独り言に答える者はいない。
曖昧な思いを口にしても、自分の気持ちに確証は持てないが、カラスはいったん考えることをやめた。
眼前に王城が近づいてきたのだ。
王城には正門があるが、無論、カラスがそこに近づくわけにはいかない。
城壁に沿って、城の側面に回りこむ。
正門からは国王や大臣、文官、騎士や衛兵などが出入りする。
しかしそれとは別に城の側面にも、侍女や料理人など下働きに属する人間のための通用口がある。
カラスが向かっているのはそちらだ。
程なくして、人気のない通用口の入り口まで辿り着く。
そこには侍女姿の女が、落ち着きなくきょろきょろしながら、一人で佇んでいた。
「ハンナ。ご機嫌よう」
軽く手を上げて、その侍女に近づくカラス。
「カーラ」
ほっと安堵の様子を見せ、ハンナと呼ばれた侍女が顔を上げる。
カーラとは、城内の間者に対して使っているカラスの偽名だ。
王城付きの侍女は、城内の各所で要人の世話をしているため、王城内の情報は自然と彼女らの耳に入ってくる。
間者にはうってつけの人材だった。
「どうしたの? 落ち着かない様子だけれど」
「い、いえ……」
首を傾げるカラス。
いつもと違い、ハンナはそわそわしているように見える。
肩を小刻みに震わせ、カラスの様子を窺っている。
そんな彼女を見て、カラスは訝しげに眉根を寄せる。
「まあいいわ。まず、注意してほしいことがあるのだけれど、最近――」
カラスはぎょっとした。
ハンナが唐突に、彼女にしがみついてきたのだ。
「ど、どうしたの? いったい……」
「つ、捕まえました!」
まるで悲鳴のような、切迫したハンナの声。
それを聞いて、カラスが事態を把握したときには、すでに遅かった。
勝手口から、十数人の衛兵がばらばらと飛び出してきたのだ。
衛兵たちはそれぞれ剣を構え、カラスとハンナを包囲した。
「動くな!」
カラスは己の失敗を悟った。
懐柔されたのか脅されたのかは知らないが、ハンナはすでに寝返っていたのだ。
「邪魔」
カラスに振り払われたハンナは、地面に倒れ込んだ。
しかし数十人の衛兵に囲まれている。
クロネコならともかく、カラスにはこの人数を突破するほどの戦闘力はない。
「……」
カラスの頬を、一筋の汗が伝った。
逃げられないとなれば、決断しなければならない。
キャルステン暗殺者ギルドの情報員には、厳しく教え込まれている鉄則がある。
――捕縛されたら自害しろ。
情報の漏洩は、暗殺者ギルドにとって死活問題だ。
だから、とりわけ戦闘能力の低い情報員にとって、この鉄則は遵守しなければならないものだ。
無論カラスも例外ではない。
手持ちのバッグの中には、一振りのナイフを忍ばせてある。
今ならば自害は容易い。
だが。
カラスは考える。
彼女とて人間だ。
死にたくはない。
やりたいことは、まだまだたくさんある。
では、死なずに済む可能性はあるか。
自力での突破は不可能。
となれば生きて帰れる可能性は、外部からの救援しかない。
捕まった彼女を、救い出してくれる存在はいるか。
まず、同じ情報員のハゲタカはどうか。
否だ。
彼女が捕まったことはすぐに伝わるだろうが、同じ情報員だからこそ、ハゲタカは彼女が自害するものと思うだろう。
暗殺者ギルドの鉄則は、ギルド員にとって絶対なのだから。
では――残りはもう一人しかいないが――クロネコはどうか。
彼ももちろん、情報員は捕まったら自害するという鉄則は知っている。
だから普通に考えれば、助けに来るはずがない。
そうでなくとも、彼は感情に左右されて判断を誤るような人間ではない。
カラスを助けるため、王城に乗り込むことのリスクとリターンを比較すれば、釣り合いが取れていないことはすぐにわかる。
順当に考えれば、クロネコも助けには来ない。
当然だ。
でも、とカラスは思う。
彼女は傍目に見ても、ある程度、好意的な態度でクロネコに接してきた。
もちろん彼は、だからといって人情で判断を間違えるほど甘い人間ではない。
ただし、もし彼が、カラスの期待通りに思考してくれるなら。
もし彼が、彼女の打算まで読み取ったうえで、結論を下してくれるなら――。
身勝手な期待であることはわかっている。
それでも、こんなところで死にたくはない。
一縷の望みがあるのなら、往生際が悪くてもそれに縋りたい。
カラスは苦渋の表情を浮かべながら、両手を挙げた。
「抵抗はしないわ」
彼女は両腕を捕まれ、速やかに城内へと連行された。
向かう先は、衛兵隊の詰め所だろう。
そして、そこで情報を吐かなければ地下牢の出番だ。




