リリエンテール VS クロネコ
クロネコは、何が起きたのか理解できなかった。
できなかったが、それが何者かは瞬時に判別できた。
いつものように裏口から家に忍び込み、居間で3人の家人を殺害した。
その瞬間、何の前触れもなく、この場に少女が姿を現したのだ。
ローブを靡かせた緑色の髪の少女。
何やら機嫌が悪いのか、クロネコをジト目で見据えている。
――魔法使い。
クロネコの肌が泡立った。
背筋を冷たいものが流れ落ちる。
解錠というささやかな魔法一つとはいえ、クロネコも魔法を操る身だ。
魔力の流れを感じ取ることはできる。
そしてクロネコの魔力が雨水の一滴だとすれば、目の前の少女はまるで、荒れ狂う暴風雨そのものだ。
これほどの魔力を身に纏っている存在など、魔法使い以外にあり得ない。
クロネコは即座に、手に持っていたナイフを少女へ投擲した。
鋭い音を立てて空中を走るナイフは、しかし少女の手前で見えない壁に弾かれ、床に落ちた。
魔法使いの防御手段である、魔法障壁。
目には見えないが、騎士が携える大盾のような形状らしい。
そしてその強度は、軍馬に乗った騎士のランスチャージすら弾き返す、鉄壁の守り。
魔法障壁の存在を知っていたクロネコは、ナイフの投擲が通用しないことをわかっていた。
それ以上に、彼の持ついかなる攻撃手段もこの障壁を突破できないことも。
だから彼はナイフを投擲した次の瞬間には、一目散に居間の出口へと駆け出していた。
少女――リリエンテールは、ここで一瞬、使う魔法の選択に迷った。
荒野で敵軍を吹き飛ばすなら、あるいは敵の砦を破壊するなら、何も考える必要はない。
しかしここは市街地。
下手に広域殲滅の魔法を放てば、近隣一帯が焦土と化す。
かといって、彼女は単体をピンポイントで狙い撃てる魔法など知らない。
となれば取れる選択肢は少ない。
リリエンテールは魔法を選定すると、口を開いた。
「クエーサー」
リリエンテールを中心に、高熱を伴った閃光が爆発した。
質量のある爆発ではないため、家屋が吹き飛ぶことはない。
だが凄まじい高熱の閃光。
家具や、床や、天井が、一瞬で黒ずみ、じゅっと焼ける音がした。
家人の遺体が、瞬く間に黒焦げになる。
結果的には、彼女が魔法の選択に迷ったことが、クロネコの命運を分けた。
閃光が居間を埋め尽くしたときには、クロネコはすでに居間から脱出していた。
裏口までの僅か数メートル。
クロネコは全力で廊下を駆け抜けた。
すぐ背後を高熱の光が追ってくる。
衣服が焼け、背中に熱を感じる。
クロネコは転がるように裏口から飛び出て、すぐさま扉を閉じた。
扉の裏側が焼ける音がし、木の焦げる臭いが鼻をついた。
クロネコは脇目も振らずに屋根に上り、そのまま屋根を伝ってその場から逃げ出した。
追いつかれれば、その時点で終わる。
焦燥感に駆られながら、クロネコはひたすらに走った。
不思議なことに、魔法使いの少女は追ってこなかった。
それでもクロネコは尾行を警戒し、大きく回り道をしてから宿へと帰還した。
「はっ、はっ……。はあ……」
部屋まで辿り着くと、クロネコは覆面を脱ぎ捨て、ベッドに身を投げ出した。
体力の温存を考えずに逃げたため、激しく息が乱れていた。
これほど全力疾走したのは久しぶりだった。
程なくして、追っ手もなく、どうやら自分は無事らしいとわかると、クロネコはようやく一息ついた。
そして先程の、魔法使いとの邂逅を思い返した。
最も身の毛がよだつ思いをしたのは、あの少女が忽然と姿を現したときだ。
クロネコは熟練の暗殺者だ。
当然、何者かが近づけば気配で察知できる。
にも拘らずあの少女は、気がついたときにはクロネコの目の前にいた。
いつ接近してきたのか、いつ居間に入り込んだのか、皆目見当がつかなかった。
暗殺者にとって、それは恐怖だ。
職業柄、知覚できずに誰かに接近を許すなど、あってはならないことだ。
ましてクロネコは手練れ。
気配を察知できずに、こうまで敵に接近されるなど、初めての経験だった。
――落ち着け。
クロネコは自分に言い聞かせる。
感情の制御は、暗殺者の必須技術だ。
恐怖も焦りも、事態を好転させることはない。
今夜はまだ3人しか殺していないが、今から再度出かけるのは愚の骨頂だ。
何より、次にあの魔法使いと遭遇して、生きて逃げられる自信はない。
クロネコはひとまず、今夜は休むことにした。
<用語解説>
ランスチャージ …… 騎士が馬に乗り、大きな槍を構えて突撃するアレ。ものすごい威力が出る。




