網にかかった魚
18日目の午後。
カラスはいつもより、少し早い時間にやってきた。
「魔法使いが動くわ」
「何?」
カラスの情報を聞き、クロネコは渋い顔をした。
いつか出てくるという予感はあったが、それでも動かなければいいという淡い期待もしていたのだ。
「たぶん今夜から出動してくるわ」
「今夜からか……」
昨晩は何も問題なかった。
警備や巡回の目をかいくぐり、順調に数人、暗殺することができた。
「まあ……。こうなれば、遭遇しないことを祈るしかない」
「というより、魔法使いは一人よ。この広い王都でたった一人に遭遇する確率なんて、相当低いでしょ?」
「ああ。よほど運が悪くない限り、かち合うことはないだろう」
魔法使いの中には、人を探知する魔法を扱う者もいる。
クロネコはそれを知っていたが、彼の顔は割れていないため、探知の魔法は心配しなくていいと考えていた。
「でも、仮に遭遇したらどうするの?」
「逃げるしかない。逃してくれるかどうかはわからないが」
「戦うって考えはないのね」
「魔法使いと戦って勝てる可能性は、ゼロだからな」
クロネコは、慢心が命取りになることをよく知っていた。
最強の暗殺者といえども、魔法使いと戦闘になれば勝機はない。
かつて魔法使いに教えを乞うていた彼としては、魔法使いの実力は身に染みていたので、できれば近づくことすら避けたいと思っていた。
「さて、俺はそろそろ出る」
「気をつけてね」
「ああ」
カラスはいつものように優雅な物腰で扉を閉じて、部屋から出て行った。
それを見送り、クロネコも準備を始めた。
◆ ◆ ◆
王城の四隅には、高く見晴らしのいい物見の塔が立っている。
塔の屋上は、柵こそあるが全方位に開けており、文字通り王都中を一望できる造りになっている。
そこにはいつも物見の兵が一人いるが、今日はその他に2人いた。
魔法使いらしくローブを纏ったリリエンテールと、グスタフ大臣である。
時刻はすでに日没だ。
これから王都は、夜の闇に包まれていく。
リリエンテールは足元に羊皮紙を広げ、その上に乗る。
その様子を、やや緊張した表情のグスタフ大臣が眺めている。
「大丈夫だろうな」
「大丈夫」
大臣とは対照的に、リリエンテールは平然としたものだ。
事実、この魔法使いの少女は僅かの緊張も感じていなかった。
元より感情の起伏が少ない性分だが、それだけではない。
魔法使いは、ひとたび戦争となれば大量の兵を殺戮する存在である。
強力な範囲魔法で、何百もの兵をまとめて吹き飛ばすのだ。
例に漏れずリリエンテールも、過去に駆り出された戦争で、大量の兵を殺して回っている。
文字通りの戦場を体験している彼女は、戦闘に臆することも、人を殺すことの躊躇もない。
「グスタフ様」
「何じゃ」
「長くなるから戻っていい」
「……確かにそうじゃな」
羊皮紙に描かれた魔方陣に乗ったリリエンテールは、すでに魔法を発動させている。
生命反応の喪失を探知する魔法。
それを王都中に張り巡らせている。
だが、魚がいつ網にかかるかはわからない。
夜は長いのだ。
「では、あとは任せるぞ。リリエンテール」
「ん」
何の気負いも感じさせない少女の様子に、グスタフ大臣は安心して物見の塔を降りた。
戦闘で魔法使いに勝てる人間は、存在しない。
首狩りの凶行も今夜で終わるだろう。
夜風が吹く。
リリエンテールは緑色の髪を靡かせながら、王都を俯瞰する。
すでに日は落ち、町には夜の帳が下りている。
警備の兵隊のものであろう松明の灯火が、各所にぽつぽつと見られるが、それ以外の灯りはほとんどない。
この半月ほどで、夜の王都はすっかり様変わりした。
以前は歓楽街を中心に賑やかだったが、今では町全体が闇に怯えているかのように静かだ。
リリエンテールはどちらかといえば静かな雰囲気を好むが、それでも今の王都は少し寂しく思えた。
「あ――あの、魔法使い殿」
物見の兵が、どこか緊張した声で話しかけてきた。
同じ王城にいても普段は姿を見ることすらない、戦争における最終兵器が目の前にいることで、肩に力が入っているようだ。
「リリエンテールでいい」
「……で、では、リリエンテール殿。私は、このままでよいのでしょうか?」
「いつも通りにしてて」
「はっ」
物見の兵も、リリエンテールと同じように王都を見下ろす。
しかし見張りとは本来、暇なものだ。
今夜は自分以外に人がいるとあって、物見の兵は何か話をしたそうに見えた。
「何?」
「はっ。いえ、リリエンテール殿は、ここから町並みの細かい部分まで見えるのかと思いまして」
「見えない」
「……そ、そうですよね」
リリエンテールは別に、視力に優れているわけではない。
肉眼で何が見えるかと問われれば、夜の闇の中に、立ち並ぶ家屋の屋根が見える程度だ。
塔の屋上は風が強い。
ローブを揺らしながら、リリエンテールは魔法を維持し続けた。
退屈さは苦にならない。
長時間、じっと魔力を維持し続けるのは、魔法の修行でよくやっている。
日が落ちて何時間か経過したが、彼女は欠伸一つ漏らすことはない。
ただ表情に変化はないが、彼女はちょっとだけ申し訳ない気分になっていた。
物見の兵がすっかり恐縮しているのだ。
もしかすると、先程の対応は少々つっけんどんだったかもしれない。
とはいえ、どうしよう。
「チーズケーキ」
「はっ?」
唐突に言葉を発したリリエンテールに、物見の兵はぽかんとした。
「好き?」
「え、ええ……。はい、好きですが」
リリエンテールは手を差し出した。
「は?」
「握手」
「は、はあ……」
物見の兵は、恐る恐る彼女に近づき、その手を握った。
小さくて柔らかい。
当然だが、少女の手だ。
「私も好きだから、仲間」
緑色の髪をふわふわさせながら、リリエンテールは小さく笑んだ。
彼女は仲間を発見できて、満足していた。
そんな魔法使いの少女を見て、物見の兵は微笑ましくなり、釣られて笑った。
戦争の最終兵器だろうが、同じ人間なのだ。
物見の兵はいつの間にか肩から力が抜けていた。
ふと。
リリエンテールは、町のある一角に視線を向けた。
生命反応の喪失を感知したのだ。
それも3つ同時。
「見つけた」
「はっ?」
場所を正確に特定できた以上、ここに留まる理由はない。
疑問を返す物見の兵に構わず、リリエンテールは口を開いた。
「タキオン」
瞬間転移の魔法を発動させ、リリエンテールは塔の屋上から姿を消した。




