神よ
クロネコは、奇遇という言葉の意味を実感していた。
侵入した小さな家。
居間と思われる部屋にいた2人。
女と、恐らくはその母親。
そして女のほうには見覚えがあった。
つい昨日、教会で言葉を交わしたマリアンヌとかいうシスターだ。
2人とも、真っ青な顔で小刻みに震えていた。
無理もない。
この侵入者が巷で噂の殺人鬼であると、すぐに理解したはずだ。
今、2人の頭は恐怖の2文字で埋め尽くされていることだろう。
と、母親のほうが、歯をカチカチいわせながら身を乗り出してきた。
「こ、この子だけは! マリアンヌだけは、どうか、お助けください。わ、私はどうなってもいいですから……!」
「お母さん……!?」
見上げた精神力と言っていいだろう。
この状況で、このセリフを口にできる者は多くはあるまい。
母親は我が子の身を守るように、マリアンヌに覆い被さった。
「お、お母さん、ダメ……。早く逃げて……」
「この子だけは、この子だけは! いい子なんです……! こんな病気の私を、迷惑な素振りも見せずに、ずっと……。心の優しい子なんです!」
母親は青い顔をしながら、必死になって懇願した。
自分が死ぬのはいい。
自分はこの子の人生において、足手まといだ。
だが、マリアンヌは幸せにならないといけない。
これほど心の優しいマリアンヌが、こんなところで死んではいけないのだ。
そんな2人を見下ろしながら、クロネコは逡巡していた。
そして殺しの対象を前にして、自分が逡巡したという事実に驚いていた。
なぜ逡巡したのか。
理由はすぐに思い当たった。
このマリアンヌというシスターは、孤児に勉強を教えるという奉仕作業に従事している。
将来、クロネコが土地を得て、学校を建てたとき。
仮にこのマリアンヌが、その学校の教師となったなら。
適しているだろう。
孤児や浮浪児に勉強を教える教師役として、恐らくは適正のある人材となるだろう。
もちろんマリアンヌが、クロネコの建てた学校の教師となる可能性は限りなく低い。
低いが、それでも得がたい人材として惜しいのだ。
孤児や浮浪児に、積極的に勉強を教えたいと思うほどの善人は、それだけで貴重だ。
要するに、もったいない。
ではどうするか。
まず母親のほうは、自分はどうなってもいいからと言った。
だから2人に近づき、母親の喉をナイフで切り裂いた。
母親は悲鳴を上げる暇もなく、マリアンヌの服を鮮血で真っ赤に染めた。
「あ……」
マリアンヌが目を見開く。
動かなくなった母親を抱きしめ、全身を震わせている。
目には涙が浮かんでいる。
「か、神よ……」
マリアンヌが口を開く。
クロネコは、このシスターが神に助けを求めるのかと思ったが、そうではなかった。
「お、お母さんが……。お母さんが、安らかに、眠れますように……」
母のためだった。
天寿を全うできなかった哀れな母のために、マリアンヌは涙を流しながら祈りを捧げていた。
真に心の清らかな人間だ、とクロネコは思った。
こういう人間こそ、世の中には必要なのだとも。
そう思いながら、クロネコはマリアンヌの喉も掻っ切った。
マリアンヌの身体が、静かに、母親と折り重なるように倒れた。
教師役として貴重な人材だが、そもそもまだ未来の話だ。
それに人材など、探せばいくらでもいるものだ。
また世の中に必要な人間かどうかなど、それこそクロネコにとってはどうでもいい。
暗殺の対象から外す理由になど、なり得なかった。
2人の屍を見下ろしながら、クロネコの心には取り立てて、何の感慨も湧かなかった。
ただ、数秒ほど無為な時間を過ごしたと思っただけだった。
クロネコは侵入したときと同様、裏口から外に出ると、すぐさま屋根へ上った。
身を低くし、屋根を伝って移動しながら、次の獲物となる民家を探す。
外出禁止令のせいで通行人がいないため、クロネコは民家に直接、侵入する方法に切り替えていた。
空き家に侵入しては馬鹿らしいので、灯りの漏れている家がいい。
また部屋数が少ないほうが手間がないため、大きすぎない家ならなおいい。
目星をつけた家の裏口に、無音で降り立つ。
当然ながら鍵がかかっている。
しかし鍵開けに時間を費やせば、巡回の兵隊に発見される恐れがある。
その点、クロネコには大きな武器があった。
クロネコは過去に、魔法使いと会ったことがある。
その際に一つの魔法を習った。
クロネコには魔法の才能などなかったし、魔力もせいぜい人並みだった。
だから魔法使いにはなれなかったが、それでも修行の末、たった一つだけささやかな魔法を習得した。
「解錠」
地味だが、暗殺者にとっては何にも替えがたい魔法は、期待通りの効果を発揮した。
鍵の開いた裏口から、そっと屋内に忍び込む。
耳を澄ませるまでもなく、居間と思しき部屋から家族団欒の声が聞こえてくる。
クロネコは足音を立てずに廊下を歩き、居間の扉を開けた。
「なっ、だ、誰――」
父親と、母親だろう。
クロネコがナイフを2度振るうと、夫婦は倒れて動かなくなった。
「ふえっ……」
子供が泣き出す前に、彼はもう一度、ナイフを振るった。
3つの物言わぬ躯が出来上がった。
この家にもう人の気配が存在しないことを確認し、彼はまた裏口から外に出た。
クロネコの魔力は人並みしかないため、解錠程度の小さな魔法であっても、日に数度しか行使できない。
この夜、彼は3軒の家に忍び込み、合計8人を殺した。




