表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/53

シスター・マリアンヌ

 シスター・マリアンヌの朝は早い。

 日の出の時刻から、もう教会への奉仕作業が始まる。


 他のシスターたちと手分けをし、教会の入り口や礼拝堂の清掃に当たる。

 神の御許たる教会は、毎日清潔でなければならないのだ。

 しかしマリアンヌは、これらの清掃を苦とは思っていない。

 神のために場を清めるという意味以外に、綺麗な場所で働くことは気持ちがいいと考えているからだ。


 清掃が終われば、次に神父様や自分たちの食事の準備。

 質素な黒パンと豆のスープ。

 これもマリアンヌは、取り立てて不満はなかった。

 毎日きちんと食事にありつけることは幸せだと考えていた。

 実際、日々の食事に事欠く人々もいるという事実を、マリアンヌは知っていた。


「神よ、今日も我らに糧をお与えくださったことに感謝します」


 食事が終われば、教会を訪れる人々の相手をする。

 神に祈るため礼拝堂を訪問した信者を、祭壇まで誘導する。

 あるいは日々の不安から、話し相手を欲する信者と、ただ話をする。


 特に連続殺人が発生してから、治安の悪化を不安がる人々は、ここ数日で増加の一途を辿っている。

 いつ自分が首狩りと呼ばれる殺人鬼の手にかかるか、気が気でないのだ。

 マリアンヌも他のシスター同様、これに心を痛めている一人であるため、不安そうな信者たちの話を熱心に聞いていた。


「でよう、マリアンヌさんよう。憲兵たちはいつ首狩りとやらを捕まえてくれるのかねえ」

「はい……」

「みんな怖がってるんだよ。憲兵たちはおれたちの税金で飯食ってるってのに、何の役にも立ちゃしねえ」


 不安が不満を呼び、治安維持が適切に行われていないことに愚痴を零す信者も多い。

 けれど当然のことなのだ。

 誰だって怖い。

 マリアンヌだって怖い。

 だから、マリアンヌはそんな信者に優しく言葉をかける。


「わかります。皆さん怖がっています。実を申しますと、私も怖いです」

「そうだよなあ! マリアンヌさんよう、あんたはやっぱりわかってる」

「はい……。ただ、私は先日、憲兵さんとお話をする機会がありました」

「へえ」

「夜の警備に時間を取られ、あまり寝ていないそうです」

「……そうなのかい?」

「はい。その方は目の下にくまを作っていましたが、それでも毎日、夜の巡回をしてくださっているそうです」

「そうなのか……」


 マリアンヌは信者の目を見て、柔らかく頷く。


「憲兵さんも、私たちと同じく不安なのです。なぜなら私たちと変わらず、家に戻れば家族が待っている、普通の人間なのですから」

「……」

「不安ですが、ここはがんばりどころです。私たちも、私たちにできることをしましょう」

「……できることって?」

「そうですね。危ないところに近づかないこと。日が落ちたら外出しないこと。それに……」


 マリアンヌは、にこりと微笑む。


「ここは教会ですから、神様に祈ることでしょうか」


 そんなマリアンヌの微笑みと言葉に、信者もぎこちなく笑みを浮かべる。


「マリアンヌさんにゃ敵わねえなあ。どれ、ちょっくらおれも祈ってくるかね」

「はい」

「……また愚痴りに来てもいいかね?」

「はい、ぜひ」


 祭壇へと向かう信者の背を見て、マリアンヌはまた心を痛める。

 元々、この王都はリンガーダ王国で最も治安に優れた町だったのだ。

 一日も早くそんな王都に戻ってほしいと、マリアンヌは痛切に願った。




 教会では週に3度、孤児たちの勉強会が開催される。

 シスターたちが教師役を担当する。

 教える内容は主に、読み書きと算数だ。

 日によって違うが、おおよそ十数人の孤児たちが礼拝堂に集まってくる。


「マリアンヌせんせー! ここの引き算わかんない!」

「はい、ここはね……」

「マリアンヌせんせい! ここゼロより少なくなっちゃった!」

「あらあら。ここは……」

「マリアンヌせんせー! 今日もびじん!」

「ふふっ、ありがとう」


 孤児たちは明るい。

 皆、自分たちの境遇を理解はしているが、過度に悲観しない心の強さを持っていた。

 逆にそうでなければ生きてはいけないとも言えた。

 自分のことをただ可哀想ぶっているだけでは、食べ物も得られず野垂れ死にしていくだけなのだ。


 マリアンヌも、孤児たちに勉強を教えるこの時間が好きだった。

 子とは未来そのものだ。

 それは親のない孤児であっても変わらない。

 そんな孤児たちの将来が、少しでも明るいものになってほしいという願いから、マリアンヌは積極的に勉強会の教師役を買って出ていた。


「神様、ご飯ありがとう!」

「違うでしょう。さあ、一緒にもう一度」

「はーい! 神様、今日の糧をお与えくださったことに感謝します」


 勉強会のあとは、孤児たちにささやかな食事が提供される。

 神父やシスターと同じ黒パンと豆のスープだが、勉強の後の食事とあっていつも好評だ。

 孤児たちの楽しそうな姿に、マリアンヌも自然と笑みが零れる。




 そうして一日の終わり。

 日没前の帰宅の時間となったとき、マリアンヌはようやく一人の信者として祭壇の前に立つ。

 このとき初めて、彼女は自分のために祈りを捧げる。


「早くお母さんの病気が、よくなりますように……」


 厳密には自分のための祈りではなく、同居している母のためだ。

 母は病気がちで身体が弱く、働きに出ることができない。

 教会から支給される僅かな給金で、食事や生活用品、薬代などを賄っている状態だ。

 幸い、死去した父が小さな家を遺してくれたため、住む場所に困ることはなかった。


「さて、帰ろう。お母さんに夕食を作らないと」


 日没後は外出が禁止されている。

 マリアンヌは日が沈む前に、急ぎ足で家路に着いた。


「ただいま」


 この王都では一般的な、石造りの小さな家。

 マリアンヌが帰宅すると、老いた母親が出迎える。


「おかえり、マリアンヌ」

「お母さん、居間でゆっくりしてていいのに」


 母親の小さな背に手を添えて、一緒に居間まで戻る。


「今日はどうだったかい?」

「いつも通りよ。すぐにご飯を作るから、待っててね」

「マリアンヌ、いつも済まないねえ……」

「何を言っているの。お母さんは何も心配しないで」


 夕食も質素な野菜のスープだ。

 マリアンヌに不満はなかったが、母にはもっと栄養のつくものを食べさせたいと思っていた。


「お母さん、ごめんね。もっとお肉とか手に入れば……」

「私よりマリアンヌのことが心配だよ。もっとたくさん食べないと」

「私はいいの。お母さんが早く元気になってくれることが、一番なんだから」

「マリアンヌ……」


 我が子ながら心の綺麗な子に育った。

 そう思い、母親は目を潤ませた。

 そして自分が働きに出られないせいで、マリアンヌに苦労させていることが不憫でならなかった。


 年頃は少し過ぎてしまったかもしれないが、マリアンヌは贔屓目に見ても美人だ。

 せめて幸せな結婚をさせてやりたいと、母親は常々思っていた。


「それでね、お母さん。今日はみんなに算数を教えていたんだけれど……」


 マリアンヌは、身体が弱い母親が罪悪感を抱えていることを知っていた。

 しかし、自分のためにそんな罪悪感など感じてほしくはなかった。

 だから居間でのんびり会話をしているときも、努めて明るく振舞うようにしていた。

 せめて母親の存在が、自分にとって迷惑ではないと思ってもらえるように。


 ふと、風を感じてマリアンヌは顔を上げた。

 ここは室内で、窓は閉まっている。


「おかしいな。戸締りはきちんとしたはずなのに……」


 居間の入り口に視線を向けるマリアンヌ。

 今しがたまで、誰もいなかったはずのその場所。


 そこに、黒い覆面の男が立っていた――。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ