シスター・マリアンヌ
シスター・マリアンヌの朝は早い。
日の出の時刻から、もう教会への奉仕作業が始まる。
他のシスターたちと手分けをし、教会の入り口や礼拝堂の清掃に当たる。
神の御許たる教会は、毎日清潔でなければならないのだ。
しかしマリアンヌは、これらの清掃を苦とは思っていない。
神のために場を清めるという意味以外に、綺麗な場所で働くことは気持ちがいいと考えているからだ。
清掃が終われば、次に神父様や自分たちの食事の準備。
質素な黒パンと豆のスープ。
これもマリアンヌは、取り立てて不満はなかった。
毎日きちんと食事にありつけることは幸せだと考えていた。
実際、日々の食事に事欠く人々もいるという事実を、マリアンヌは知っていた。
「神よ、今日も我らに糧をお与えくださったことに感謝します」
食事が終われば、教会を訪れる人々の相手をする。
神に祈るため礼拝堂を訪問した信者を、祭壇まで誘導する。
あるいは日々の不安から、話し相手を欲する信者と、ただ話をする。
特に連続殺人が発生してから、治安の悪化を不安がる人々は、ここ数日で増加の一途を辿っている。
いつ自分が首狩りと呼ばれる殺人鬼の手にかかるか、気が気でないのだ。
マリアンヌも他のシスター同様、これに心を痛めている一人であるため、不安そうな信者たちの話を熱心に聞いていた。
「でよう、マリアンヌさんよう。憲兵たちはいつ首狩りとやらを捕まえてくれるのかねえ」
「はい……」
「みんな怖がってるんだよ。憲兵たちはおれたちの税金で飯食ってるってのに、何の役にも立ちゃしねえ」
不安が不満を呼び、治安維持が適切に行われていないことに愚痴を零す信者も多い。
けれど当然のことなのだ。
誰だって怖い。
マリアンヌだって怖い。
だから、マリアンヌはそんな信者に優しく言葉をかける。
「わかります。皆さん怖がっています。実を申しますと、私も怖いです」
「そうだよなあ! マリアンヌさんよう、あんたはやっぱりわかってる」
「はい……。ただ、私は先日、憲兵さんとお話をする機会がありました」
「へえ」
「夜の警備に時間を取られ、あまり寝ていないそうです」
「……そうなのかい?」
「はい。その方は目の下にくまを作っていましたが、それでも毎日、夜の巡回をしてくださっているそうです」
「そうなのか……」
マリアンヌは信者の目を見て、柔らかく頷く。
「憲兵さんも、私たちと同じく不安なのです。なぜなら私たちと変わらず、家に戻れば家族が待っている、普通の人間なのですから」
「……」
「不安ですが、ここはがんばりどころです。私たちも、私たちにできることをしましょう」
「……できることって?」
「そうですね。危ないところに近づかないこと。日が落ちたら外出しないこと。それに……」
マリアンヌは、にこりと微笑む。
「ここは教会ですから、神様に祈ることでしょうか」
そんなマリアンヌの微笑みと言葉に、信者もぎこちなく笑みを浮かべる。
「マリアンヌさんにゃ敵わねえなあ。どれ、ちょっくらおれも祈ってくるかね」
「はい」
「……また愚痴りに来てもいいかね?」
「はい、ぜひ」
祭壇へと向かう信者の背を見て、マリアンヌはまた心を痛める。
元々、この王都はリンガーダ王国で最も治安に優れた町だったのだ。
一日も早くそんな王都に戻ってほしいと、マリアンヌは痛切に願った。
教会では週に3度、孤児たちの勉強会が開催される。
シスターたちが教師役を担当する。
教える内容は主に、読み書きと算数だ。
日によって違うが、おおよそ十数人の孤児たちが礼拝堂に集まってくる。
「マリアンヌせんせー! ここの引き算わかんない!」
「はい、ここはね……」
「マリアンヌせんせい! ここゼロより少なくなっちゃった!」
「あらあら。ここは……」
「マリアンヌせんせー! 今日もびじん!」
「ふふっ、ありがとう」
孤児たちは明るい。
皆、自分たちの境遇を理解はしているが、過度に悲観しない心の強さを持っていた。
逆にそうでなければ生きてはいけないとも言えた。
自分のことをただ可哀想ぶっているだけでは、食べ物も得られず野垂れ死にしていくだけなのだ。
マリアンヌも、孤児たちに勉強を教えるこの時間が好きだった。
子とは未来そのものだ。
それは親のない孤児であっても変わらない。
そんな孤児たちの将来が、少しでも明るいものになってほしいという願いから、マリアンヌは積極的に勉強会の教師役を買って出ていた。
「神様、ご飯ありがとう!」
「違うでしょう。さあ、一緒にもう一度」
「はーい! 神様、今日の糧をお与えくださったことに感謝します」
勉強会のあとは、孤児たちにささやかな食事が提供される。
神父やシスターと同じ黒パンと豆のスープだが、勉強の後の食事とあっていつも好評だ。
孤児たちの楽しそうな姿に、マリアンヌも自然と笑みが零れる。
そうして一日の終わり。
日没前の帰宅の時間となったとき、マリアンヌはようやく一人の信者として祭壇の前に立つ。
このとき初めて、彼女は自分のために祈りを捧げる。
「早くお母さんの病気が、よくなりますように……」
厳密には自分のための祈りではなく、同居している母のためだ。
母は病気がちで身体が弱く、働きに出ることができない。
教会から支給される僅かな給金で、食事や生活用品、薬代などを賄っている状態だ。
幸い、死去した父が小さな家を遺してくれたため、住む場所に困ることはなかった。
「さて、帰ろう。お母さんに夕食を作らないと」
日没後は外出が禁止されている。
マリアンヌは日が沈む前に、急ぎ足で家路に着いた。
「ただいま」
この王都では一般的な、石造りの小さな家。
マリアンヌが帰宅すると、老いた母親が出迎える。
「おかえり、マリアンヌ」
「お母さん、居間でゆっくりしてていいのに」
母親の小さな背に手を添えて、一緒に居間まで戻る。
「今日はどうだったかい?」
「いつも通りよ。すぐにご飯を作るから、待っててね」
「マリアンヌ、いつも済まないねえ……」
「何を言っているの。お母さんは何も心配しないで」
夕食も質素な野菜のスープだ。
マリアンヌに不満はなかったが、母にはもっと栄養のつくものを食べさせたいと思っていた。
「お母さん、ごめんね。もっとお肉とか手に入れば……」
「私よりマリアンヌのことが心配だよ。もっとたくさん食べないと」
「私はいいの。お母さんが早く元気になってくれることが、一番なんだから」
「マリアンヌ……」
我が子ながら心の綺麗な子に育った。
そう思い、母親は目を潤ませた。
そして自分が働きに出られないせいで、マリアンヌに苦労させていることが不憫でならなかった。
年頃は少し過ぎてしまったかもしれないが、マリアンヌは贔屓目に見ても美人だ。
せめて幸せな結婚をさせてやりたいと、母親は常々思っていた。
「それでね、お母さん。今日はみんなに算数を教えていたんだけれど……」
マリアンヌは、身体が弱い母親が罪悪感を抱えていることを知っていた。
しかし、自分のためにそんな罪悪感など感じてほしくはなかった。
だから居間でのんびり会話をしているときも、努めて明るく振舞うようにしていた。
せめて母親の存在が、自分にとって迷惑ではないと思ってもらえるように。
ふと、風を感じてマリアンヌは顔を上げた。
ここは室内で、窓は閉まっている。
「おかしいな。戸締りはきちんとしたはずなのに……」
居間の入り口に視線を向けるマリアンヌ。
今しがたまで、誰もいなかったはずのその場所。
そこに、黒い覆面の男が立っていた――。




