無信仰でも教会には入れる
「……カラス」
「知らなかったのよ」
クロネコの責めるような口調に、カラスが弱々しく反論する。
「だが見ろ。奴め、どう見てもこの店の常連だぞ」
「……そうね」
「むしろお前、奴の顔を知っているんだな?」
「有名人だもの」
2人の視線の先に、金髪碧眼の美男子がすらりと立っていた。
給仕の娘に笑顔を向けている。
先日クロネコとやり合った、上級騎士リィンハルト・ディーライオンだった。
「……どうするの?」
「奴は俺の顔を知らない。だから目立たないように、普通に店を出る」
「ここでバレたら最悪ね」
クロネコとカラスは小声でやり取りをする。
リィンハルトは、給仕の娘に案内されて店内を歩く。
カラスは素早く店内を見渡した。
他に兵隊の姿がないことを確認し、安堵の息を漏らす。
「リィンハルト様」
「こんにちは、リィンハルト様」
客の女性に声をかけられるたび、リィンハルトは立ち止まり、笑顔を向けている。
王都の住民に人気があるというカラスの情報は、正しいようだ。
リィンハルトはそのまま、クロネコたちが着くテーブルを通り過ぎようとし――。
ふと立ち止まった。
「やあ、こんにちは」
「……こんにちは」
挨拶を向けられ、カラスは引きつった笑顔で対応する。
クロネコは無言で会釈をした。
「綺麗なお嬢さん。この店では、あまり見ない顔だね?」
「……ええ。住まいは商業地区にあるものですから、普段はあまり」
「そう。今日はこちらの男性とデートかい?」
「そうなんです」
カラスはにこやかに応対しているが、首筋に冷や汗をかいているのを、クロネコは見逃さなかった。
次にリィンハルトは、クロネコに目を遣った。
クロネコは、向けられる視線に観察の色が含まれていることを感じ取ったが、平然とした表情を変えずにいた。
「この店はどうだい?」
「いい店です。料理も美味いし、店内の雰囲気もいい」
「そうだろう。私もよく来るんだが、デートにも適した料理屋だと思う」
「そうですね」
クロネコとも二、三言交わしてから、リィンハルトは何事もなく2人のテーブルから離れる。
「知っていると思うが、今日から夜間は外出禁止だ。くれぐれも日が落ちる前に帰るんだよ」
そう言ってリィンハルトは、給仕の娘に案内された席に着いた。
「……唐突すぎて焦ったわ」
「お前、顔が引きつっていたぞ」
「あなたほど心臓が強くないのよ」
「しかしまあ、別段、怪しまれる要素はなかったはずだ」
「それならよかったわ」
2人は小声でやり取りをし、それから席を立つ。
「ご馳走様。美味しかったわ」
「美味かった」
2人は胸中で安堵しながら、支払いを済ませて退店した。
◆ ◆ ◆
大通りをずっと歩くと、地区と地区の継ぎ目に出る。
そこにひっそりと古びた教会が建っていた。
クロネコが視線を向けたのを見て、カラスが提案する。
「寄っていく?」
「神にでも祈れと?」
「落ち着いて休めそうだと思って」
「……そうだな。気まぐれも悪くないか」
両扉を押し開けて協会に立ち入ると、予想に反してそれなりに人がいた。
長椅子に座って、あるいは祭壇の前で、各々が手を組んで祈りを捧げている。
「教会って、こんなに賑わっているものなのか?」
「さあ……」
2人が小声で話していると、シスター服を着た女性が近づいてきた。
静かな雰囲気の、まだ若い女性だ。
「ごきげんよう。今日はお祈りですか?」
「いや。落ち着ける場所はないかと思って」
クロネコが正直に答えると、シスターは眉を下げた。
「そうでしたか。昨今、物騒ですので、ここはご覧の通り……」
「……なるほど」
クロネコとカラスは合点がいった。
敬虔さとは程遠い2人には思いつかなかったが、教会とは悩みを持つ者が訪れる場所なのだ。
物騒だからと教会に足を向ける人々が、一定数いてもおかしくはない。
「ですが静かなことは静かです。もしお急ぎでなければ、どうぞ休まれていってください」
特別、拒否する理由もない。
2人はシスターに促されるまま、隅の長椅子へ腰を下ろした。
「シスターは、ここに勤めて長いのですか?」
「マリアンヌと申します。5年以上、ここで奉仕させていただいております」
マリアンヌと名乗ったシスターは、カラスとクロネコへ、それぞれ丁寧に頭を下げる。
「奉仕とは、具体的にはどのような?」
「そうですね……」
マリアンヌは、名乗りを返さない2人を取り立てて気にするでもなく、カラスの質問に答える。
「清掃や食事の準備など。また、悩みを持つ方々のお話を伺ったりですとか、孤児たちに読み書きを教えたりですとか」
「読み書きを?」
クロネコが反応する。
「はい。孤児たちが成長したとき、衣食に困ることのないよう、最低限の読み書きを教えることも、奉仕の一環としております」
「金を取らず?」
「もちろんです」
マリアンヌは自然に頷く。
無償であることに、何の疑問も抱いていない様子だ。
クロネコはそんなマリアンヌを見て、目を細めた。
「しかし孤児でなくとも、読み書きが必要な者は多くいると思うが」
「そうですね……。神ならぬ我々の手は、全ての人々に差し伸べることができません。己の未熟さを恥じるばかりです」
「その神こそが、全ての人々に手を差し伸べるべきでは?」
「……いいえ」
マリアンヌは胸の前で手を組み、ゆっくりと首を振る。
「神は、自らを助くる者をこそ助く。始めから神に頼る者に、神はご加護をくださいません」
「なら、あなたには神の加護があると?」
「私はまだ未熟な身ですが……。それでも日々の衣食住が揃っております。これは神のご加護の賜物であると、私は考えます」
「……なるほど」
敬虔であるとは、マリアンヌのような者にこそ相応しい言葉だろう。
そして神の加護とやらが孤児たちにもあらんと、日々、奉仕作業をしているのだ。
クロネコは、己とはまったく別の人種であるマリアンヌの姿勢に感心していた。
日々、手を血に染めているクロネコとは、あらゆる面で逆でありながら、彼女はクロネコがやろうとしていることをささやかでも実行しているのだ。
「あ。すみません、少し失礼いたします。どうぞ、ゆっくりなさってください」
マリアンヌは他の信者に呼ばれ、2人に会釈をして、前方の長椅子へ移動していった。
カラスがぽつりと呟いた。
「彼女……。一度も私たちに、神を信じてくださいとか、祈ってくださいとか、言わなかったわね」
「ああ。あれは善人だ」
クロネコは、他の信者と話をしているマリアンヌの背中を眺めた。
「俺たちとは根本的に違うが、ああいう人間は、きっと世の中に必要なのだろうな」
「あら、改心する気になった?」
「抜かせ」
冗談っぽく言うカラスに、クロネコは肩を竦めて見せた。
「だがまあ、悪くない時間を過ごせた。立ち寄って儲け物だったな」
「それならよかったわ」
他の信者の祈りを邪魔しないよう、2人は静かに教会を後にした。




