第10話 貴族の世界
「マルク=フレイユ。平民ながら、学校で首席とは目を見張る優秀さだ」
オーギュット様の通る声での褒め言葉が急に来て、隣のマルクが慌てて頭を下げる。
すぐに言葉が出せなかったらしく、二拍も遅れてから、
「私に、勿体なき、お言葉でございます・・・」
と語尾が消えていくような弱々しさながら、なんとかマルクが返事した。
オーギュット様の声の張りが消えて、音量も下がる。
「だが、敬語の使い方が少し堅苦しい。目指す仕事がすでにあるのかもしれないが、女性なのだから言い回しはもう少し馴染みやすい柔らかいものの方が好まれるだろう」
驚いたのか、マルクがとっさに返事ができないでいる。
マルクの言葉が出てくる前に、オーギュット様がまた声を張る。
「私はもう王族では無い身分だが、優秀な学生の華やかな前途を願っている」
「・・・ありがとう、ございます・・・」
やはり語尾が消えていくように、マルクが動揺しているとわかる揺らいだ声で返事をした。
「顔を上げろ」
マルクも顔を上げる。
オーギュット様が、マルクを見て告げた。
「兄ルドルフ様の治世に能力を活かしてよく貢献するように」
「勿体なきお言葉でございます」
体勢をたてなおしたらしいマルクに、オーギュット様が少し申し訳なさそうな顔をした。わざとだろうか。
あぁ、理解ができない。
「広く告げる。皆、共によく学ぶように」
オーギュット様が再び周囲を見回し明らかに聞かせるように声を張る。
そしてオーギュット様は二人の前から立ち去って行った。
やっとその姿が消えた時、ケルネとマルクは無意識に互いの両手を掴み合い、ヘナヘナとその場に座り込んだ。
どっと疲れた。
加えて、マルクが泣きだして、二人して抱き合って泣いてしまった。
怖かった。本当に怖かった。
身分の違いを、その怖さを、今まで全然わかっていなかったと思い知った。
***
授業開始のチャイムが鳴ったが、とても授業にいける状態ではなった。
だが、優等生というよりガリ勉二人組の授業不参加に、教師が心配して使いの者を派遣してきた。
迎えが来たので、二人は道すがら涙と鼻水でドロドロの顔を拭きながら、俯きながら教室に行くハメになった。
遅刻した二人に、教室中は静まり返っていた。
いつも陣取っていた、最前列ど真ん前の席が空いている。今日だけは端っこの隅っこにいたかった。
『いつも通り』という善意が今は辛い。
「早く座れ。皆待っているぞ」
教師が言う。迷惑をかけている事に頭を下げて「申し訳ありません」と謝り、二人はしぶしぶ着席した。
***
授業はつつがなく終わった。
二人はのろのろと後片付けをしていた。機敏に動く元気がなかったし、これから放課後だから、他の皆が立ち去ってくれれば教室に二人だけになれる。二人だけの打ち明け話がしたかった。
ケルネとマルクの前に、影が落ちた。
気付いて見上げると、貴族のご令息だった。二人いた。
「他意はない。使えば良い」
それぞれから、大判のハンカチを渡された。
「受け取り使ってくれた方が良い。善意を返されるのは堪えるからな」
差し出す一人が少し冗談めかして言った。
ケルネとマルクはお互いの顔を見た。酷い顔をしていた。自分のハンカチでふいたのに、泣いていたと分かる顔だ。
差し出された善意に、大丈夫だろうかと戸惑いながら、二人でハンカチをそれぞれ受け取った。
「ありがとう、ございます」
「構わない。ただし、また返してくれ。貸したのだから」
「はい。それは勿論」
「ついでに礼として、少しノートを見せてくれ」
「・・・はぁ」
二人の令息はおかしそうに笑って去って行った。なんだったのだ。ノート欲しさからくる善意だったのか。
ガタン! と誰かが勢いよく立ち上がる音がした。
ツカツカツカ、とケルネとマルクに足音が近寄る。
絶対こちらにくる、しまった、やはりハンカチを受け取るべきでは無かったのだ。身の程を忘れていたのだ!
傍に、顔を真っ赤にして怒っている様子のご令嬢が立っていた。
「早く氷水でお冷やしなさい! みっともなく腫れてしまいますよ!」
「・・・ぇ?」
「チェリシュ様・・・?」
「もぅ! 勉強はできるくせに鈍くさいこと! 良いから早く冷やすのですわっ、もぅ、ダリア、フローリア、お願い、頼めますこと?」
事態についていけない。
理解が及ばないうちに、二人は指示されるままに促されて、いつのまにか医務室で氷を貰い作った冷水に浸した清潔な布を顔に押し当てている事になった。
茫然、としか表現できない。
ケルネたちを医務室に連れてきたグループのリーダーであるチェリシュ様が、イライラしてケルネたちを眺めている。
「・・・ケルネ=オーディオ。マルク=フレイユ。あなたがた、ちゃんと学校来ますわよね!?」
「え?」
「・・・はい」
思わずそれぞれ答えたが、明日のことなど全く今考えも及ばないぐらいだ。
「ですわよね。良かったですわ」
全くですわ、と他のご令嬢も賛同している。
忌々しさを感じられるが、それはケルネとマルクには向けられていない。
二人で顔を見合わせる。
・・・という事は。
このご令嬢たちは、オーギュット様に腹を立てている・・・?
立場があって、口にださないだけで。
どうして、この人たちが腹を立てているのだろう。ケルネはやはり分からなくなった。
今日はもう何もかも理解できない。
自分は色々と馬鹿だったのだ。それが良く分かった。
あぁ、でもこのチェリシュ様の言う通りだ。明日といわず、これからどうしていけばいいのだろう。
「色々と、ご迷惑をおかけして、申し訳ありません・・・」
ケルネの口から自然とお詫びの言葉が出た。
沈黙が降りた。俯いていた顔を上げると、この場にいる全員が何とも言えない、苦虫をかみつぶした様な表情をそれぞれしていた。
「・・・あなた方二人、進路は決まっていらっしゃるの・・・?」
チェリシュ様が顔をしかめたまま、そう尋ねてきた。
「いえ、希望はありますが、まだ打診などなにも・・・」
とマルクが答える。
「分かりました。良い事。明日! 紙に希望をまとめて持ってくるのよ!」
他のご令嬢たちも少し驚いたが、納得したようにして、
「それが良いですわ。ご名案ですわ!」
などと言っている。
「それから、良い事、ケルネ=オーディオ!」
「はい」
きょとんとしながらも、ケルネは答えた。
「ご家族の希望も全て書いていらっしゃい! 書けばすべての願いが叶うなど思わない事ね!」
隣のマルクが、
「ツンデレ・・・」
とわずかにうっとり呟いたが、ケルネには意味が分からない。
いやそれより、急に、いろんな人たちが、ケルネたちに好意的に関わろうとしている。
生きてきて初めての事態に、状況がよく理解できなかった。
裏がある? この後、騙される? 徹底的に嫌がらせされる?
なにも、分からない。
けれどマルクが
「有難うございます」
と頭を深く下げて礼をとるので、状況に理解が追いついていないながら、ケルネも急いで礼をとった。




