第四十話 王妃になるはずだった
恐ろしい事に。
たった紙切れ一枚なのに、じわじわとそれはイセリにとって真実になった。
つまり、自分はダンと結婚してしまったのだと、自分で納得していくのだ。
イセリは自分の気持ちに戸惑った。
セリ=エレットで暮らしていくので良いのじゃないだろうかと、確実に思っていると自覚したからだ。
それに、もう戻れない。
自分がダンと結婚したのは未だに信じられないし、反発を覚える。
なのに、その反発すら分かってもらえるダンに安心感を抱いていたりする。
ダンはイセリを力技で囲い込むようなことをしておきながら、一方でイセリに酷く優しい。
本来は手に入らなかったものが手に入ってきたと、ダンは分かっているのだろうと思う。
我儘だって言っても良い。怒られるけど、基本的にダンは優しい。
馬車でのんびり、美しい景色や珍しい建物などを見て回りながら、元の町に戻った。
戻った時に、イセリはハッキリと自覚した。
自分は、イセリ=オーディオと言う名前を、捨てたのだ。
私は、もう、セリ=エレット。いや、結婚したから、セリ=ノイチェ。
***
第二王子オーギュットが、第一王子ルドルフ様ご夫妻に謝罪をした、臣下に下った、という話は、たぶん随分遅れてセリが暮らす町にも届いた。
イセリは苛立った。ダンと二人っきりの時に荒れた。
慣れてきたらしいダンは、イセリがダンに向かって、当たっても問題はなさそうなクッションだのふわふわした小物だのを投げつけるのを、少し面倒くさそうに避けていた。
「悔しい、悔しい、なんで、臣下に、下っちゃうの・・・!」
「そりゃ、相応しくないと思われたから」
「酷い、どうして、どうして?」
「別にオーギュット様なんてセリどころかイセリ=オーディオにももう何のかかわりも無い」
「そういう話じゃない!」
「きみ、仕方ないけど面倒くさい」
「だって、だって、聞いてよ、ダン」
イセリはダンに詰め寄り、訴える。ダンは心底面倒くさそうに視線を逸らすが、イセリはそれでもダンを捕まえる。
ダンにしか言えない事なのだ。
「王子様、だったのに!」
「残念」
「だって、酷い、私の思い出なのに、」
涙ぐみさえして悔しがるイセリの姿に、ダンがあれ、と気がついてイセリを見た。
「・・・イセリ=オーディオは、オーギュット様が王子様じゃなければ、好きにならなかったのか」
「・・・え」
イセリはきょとんとしてダンを見た。
ダンはイセリの様子を首を傾げたようにじっと見ている。
「・・・違うよ」
と、セリ=ノイチェとなった女は答えた。
「あの人は、王子様だったんだから」
ダン=ノイチェが呆れたような諦めたような、それでいて受け入れるようなわずかな笑みを浮かべた。
***
王子様だったから、憧れた。
王子様だったから、平民のイセリにも優しくしてくれた。
だから、ますます、好きになって、本気になった。
王子様だったから、イセリを一生懸命守ってくれた。他の人から庇ってくれた。
オーギュットが王子様だったからできたことが、たくさんある。
そうかもしれない。
王子様でなかったら、あんなに好きにならなかった。
あれほど好きになる前に、きっと、どこかで諦めてた。
***
悔しい。
私は、結局ユフィエル様に負けたのだ。
***
王都から随分離れたところにある町に、夫に先立たれて一人で暮らす老婆がいたという。
昔は美しかったらしいけれど面影は無くなり、難しい性格だから皆から呆れられるような人物だったらしい。
ただし、奇妙な言動は夫が亡くなってからだったから、「きっとあの婆さんはさみしさのあまり皆の注目を集めたいだけだ」と、周囲は密やかに理解し見守っていたのだけれど。
子宝に恵まれた国王夫婦を羨んだのか、老婆は酷く王妃ユフィエルを妬むような発言を頻繁にした。
あの人が王妃になるなんて。
あの人がなれたのなら、私もなれた。
元々若い時から虚言癖があったらしいその老婆は、自分が王妃になるはずだったなどと、周囲に言いまわっていたのだという。
不敬もはなはだしい発言だが、おかしな老婆のいう事だからと、周囲は憐みを持って見守り、聞き流した。
墓は、その町の教会に。夫と眠る。
もうどの墓かは分からないけれど。
「王妃になるはずだった」終わり
※別の人物からの話が少し続きます。




