第三十九話 ダン
顔を強張らせ黙ったイセリに、ダンはどこか機嫌よく再び馬車を動かした。
昼に訪れた一つ目の町でダンは馬車を泊めて、イセリを食堂に連れて行く。
そして、注文を取りに来た気さくな店員に向かってこう聞いた。
「イセリ=オーディオって、本当にそんなに悪女?」
「ははっ、お客さん面白い事聞くねぇ!」
とびきりの冗談でも聞いたかのように店員が笑う。
ダンが笑う。
「今頃どこにいるんだろう」
「そんなの、人目を忍んで生きるしかないでしょ」
「え・・・」
店員の答えに思わずイセリが言葉を零す。店員は興味をしめしたのかイセリを見た。
イセリがたじろぐ。ダンがその様子に目を細めて、聞いた。
「噂のイセリ=オーディオと、彼女とどっちが美人かな」
「えっ、ちょ・・・と、ダン!」
「はは、のろけかい? ・・・でも・・・」
途中で、ふと何かに気づいたのか、店員が真顔になった。
その変化に気づいてイセリの喉が詰まったようになる。
ダンがおかしそうに笑った。
「まぁ、俺の彼女の方が何倍も可愛い」
その言葉に正気を取り戻したように、店員がふっと雰囲気を柔らかくして笑った。
「なんだ、のろけかい。お幸せに!」
店員が注文を確認し直してから離れていった。
「ちょっと・・・ダン! 止めて」
ダンはおかしそうにおどけたように首を少し傾げてみせた。
それから、隣のテーブルにいる夫婦に声をかけた。
「田舎から出てきたんだけど、イセリ=オーディオって、そんなに酷い?」
食堂にいる間だけでも、ダンは気さくに周囲に声をかけて、イセリ=オーディオについてを尋ねた。
イセリの顔色は明らかに悪いはずなのに、ダンは全く気にしない。
そうした中で運ばれた食事をとり、
「うまい」
と舌鼓をうって上機嫌だった。
一方のイセリは、生きた心地がしなかった。
ダンは、イセリの悪口をイセリに聞かせたいのだろうか。
でも確実に分かったのは、イセリ=オーディオに戻るのはとても難しい、という事だった。
ダンはそれをイセリに分からせようとしているのかもしれない。
でも。私は、イセリ=オーディオで。
貴族の学校に通ったのも、オーギュットに会ったのも、イセリ=オーディオなのに。
悔しい。涙が滲んだ。
でも、それを悟られてイセリ=オーディオだとばれたくも無い。
ぐっと我慢して、食事をとった。
今日はこの町に泊まるつもりらしいダンは、イセリを連れて、景色が良いと食堂の人に教えてもらった湖に行く。
「セリ=エレット」
「・・・」
黙り込んでいるイセリに、逃げないようにと思うのか、イセリの手首を掴んで連れて歩くダンの方はのんびりとしている。
「イセリ=オーディオは、生きていけなさそうだ」
「・・・」
そんなわけない、と思うけれど喉が詰まったように反論できない。
ダンは手首を握っていたのをずらし、イセリの手を勝手に握った。
ぐっと持ち上げて、イセリに見えるようにする。
「イセリ=オーディオはプライドがものすごく高い」
「・・・!」
「俺は、セリが好きだ。イセリ=オーディオが悪女でも。・・・そんなヤツ、俺ぐらいだ」
「・・・」
まるで湖面のように、ダンの表情は穏やかだ。
でも、どこか恐ろしい。
グィ、とダンがイセリの手を引いた。突然でバランスを崩したイセリは、そのままダンに引き寄せられた。
ぶつかるようにダンに抱き留められる。
「誓え。秘密を洩らされたくないなら」
「え・・・」
「誓え。結婚しよう。セリ」
ダンの表情はあまりにも凪いでいて、だから、もしここでイセリが嫌だと言えば、このまま皆にイセリがイセリ=オーディオだと叫んで周りそうな危機感を持った。
「誓う?」
ダンが尋ねて来るので、イセリは思わず頷いた。
「じゃあ、言葉に」
「ち、誓う」
ダンは笑った。
「良かった」
***
ダンの行動は早かった。その町の役場にイセリを連れ、誓いをすませたとして結婚証明書をもらいうけた。
イセリも署名しなくてはならず、ペンを持つ手が震えた。
でも、自分が書く名前は『セリ=エレット』だ。偽名だ。だから、大丈夫・・・。
イセリが自分を落ち着かせて名前を書くと、その場に偶然立ち会っていた人たちから拍手が起こり、祝福の声がかけられたので驚いた。
「お幸せに」
周囲の人たちから暖かい言葉を送られる。
イセリは戸惑った。暖かい笑顔、優しい言葉。歓迎される雰囲気。
それは、ここ数年、イセリの周りから消えていたものだった。ずっと、ずっと、忘れていたもの。
ダンは、イセリが戸惑うのをじっと見ていた。
***
「セリは、イセリ=オーディオだってプライドを持ってる」
ダンがイセリに囁くように告げる。
「でも、イセリ=オーディオには居場所なんてなくなってる」
恐ろしい言葉なのに、ダンの表情はあくまで優し気だ。
「俺だけが、セリ=エレットが、イセリ=オーディオだって知ってるから。俺だけには、どっちでいてくれても、良い」
「・・・」
パクリ、と食べられるようなキスをされた。




