第十三話 涙
オーギュットは、イセリの目に新しく浮かんだ涙を愛しそうにぬぐってくれてから、安心させるように笑んだ。
「嫌がらせをしている者に、厳重な注意をしようと思っている。貴族にあるまじき行いをしているのだから、非難を受けるべきだ」
イセリは涙目でオーギュットを見る。
「力及ばず、きみにたくさん嫌な思いをさせてしまった事、心から苦しく思っている。でも、もう私の方も限界だよ。向こうには、いい加減にしてもらわなければ」
「・・・向こう」
呟くと、オーギュットが眉をしかめて答えた。
「・・・私の婚約者殿だ・・・」
「・・・」
あの人。
そう、あの人のせいだと、イセリも知っている。
日々の中で、何度もその名前を聞いた。『ユフィエル様を敵にするからよ』などと。
でも。もう、イセリは、限界をすでに超えていた。もう、保てない。これ以上は、もう進めない。
「・・・あのね」
イセリは、告げた。教師からの言葉が、きっと、正しいのだ。それが、普通に戻る方法なのだから。
「私は、平民で、オーギュットといると、通学の権利も取り消しされてしまうかもしれないって、先生が。それに、オーギュットは王子様で、国を支えていく人だから、ちゃんとした貴族の人でないとダメだって。・・・だから」
言いながらイセリは顔をクシャクシャにして泣きだした。
「私、は、だから、じゃあ、私、どうせいつかは捨てられるよ、だって・・・!」
愛しているという言葉だけで、自分は満足するべきだ。
ここで、お別れを告げよう。それしか、無い。
イセリは両手で顔を覆った。
「・・・お願いだ、落ち着いて。お願いだから」
オーギュットがイセリを抱きしめる。
「私にはきみしかいない」
必死の声だった。
イセリはそれでも、首を横に振った。
オーギュットはイセリに訴えた。
「どうして。私を信じてほしい。イセリ。私は、イセリを幸せにする。約束する。お願いだから、私を信じて」
それでも、イセリは首を横に振り続けた。もう、このままの日々を送る事は、無理。
イセリは立ち上がり、泣きはらした顔のまま、オーギュットに向けて、礼をとり退出した。
こんな風に会うのは、きっと最後。
扉を閉じきる前に、オーギュットの取り残されたような声が、届いた。
「諦めないで」
閉じた扉を後ろに、さらに涙が出た。
次の授業は、とても出席できない。
***
本来なら授業中の時間に、トイレの手洗い場で、冷水でイセリは何度も顔を洗った。
なんども鏡を見て、ようやく、よし、これで戻ろう、と、判断する。
顔を伏せていれば・・・目の赤みもそんなに目立たないはず。
次の休憩時間を待って、イセリは静かに教室に戻った。
なぜか、机の上に真新しい教科書などが置かれていた。筆記具が見覚えなくボロボロで、一本だけ自分のではないものが入っている。それらは、綺麗に整えて置いてあった。
誰かが嫌がらせを行い、誰かが直してくれた。教科書があるから、先生かもしれない。
イセリはまた涙が溢れそうになった。
我慢。せっかく、目と顔を冷やしてきたから。
これから、頑張らなくちゃ、とイセリは思った。
元々自分が楽しみにしていた、学校生活に、戻るのだ。
***
授業は全て、何事もなく過ぎた。
イセリが黙々と鞄に物を片付け、校舎を出た時だった。
華やかな集団とかちあった。
イセリは、集団の中心に、オーギュットの婚約者殿がいる事に気が付いた。
婚約者のユフィエルは、表情の無い顔で、イセリを嫌なものを見るような目で一瞥し、目をそらした。
瞬間、イセリは悔しくなった。顔に血が集まる。両手を握りしめた。
ダメ、我慢しなくちゃ。訴えたい。ダメだ、平静でいられない。我慢しなくちゃいけないんだ。
身分。貴族。これが自分が生きている社会なのだ。
口を引き結んで、一礼して去ろう。けれど、身体が動かない。
「目障りですわ。さっさと姿を消してくださいな」
一人が言った。
「・・・あなたがいるだけで気分が悪くなります。ご自分の立場を自覚なさったら?」
穏やかそうな口調で、けれど酷く冷たい眼差しで他の人が言った。
「あなたの言葉など耳にしたくもありませんけど、言うべき事があるのではなくって!?」
と、別の人が言った。
先に動いた方が負けと言わんばかりに、彼女らは立ち止り、口々にイセリに言葉を投げかけ、睨んでいる。
イセリは、オーギュットの婚約者を凝視した。目を伏せて黙ったままの、ユフィエル様。
グッと黒々しい気持ちが沸き上がってきた。