荘厳なる少女マグロ と 運動会
歌手が
絵を
描く。
その絵の出来は
最高ではない。
そして
絵描きが
絵を
描く。
<歌手の
描く事が
出来ない事>を…
――詳細に……
示した。
その
絵描きの描いた
絵の出来は、
歌手の描くものより
上位である。
そこに
ファンAが
現れる。
ファンAは、
歌手の絵を
褒め、
絵描きの絵を
褒めない。
これは
当たり前であり、
<合理的選択>
なのだ。
歌手が
好きなのだから。
ファンAは、
歌手が
何をしようと
歌手を
褒める。
歌う以外、
絵を描こうが、
逆立ちしようが、
ファンAは
歌手を
褒める。
歌おうが
歌うまいが
歌手を
褒める。
何もしなくても
褒める。
ファンAは、
歌手を
他より
上げる
”様に”
見せかける為なら
何でもするし、
それを
下げるものならば
何であろうと
貶す。
それは、
ファンAによる
<合理的選択>
なのだ。
上の
”様な”時、
#論理学に
精通した者#は
<絵を描く事>
を論点に
設定しようと
する。
それは
正しいが………――
間違っている。
ファンAにとって
重要な点は
<絵を描く事>
ではなく、
<歌手>
である。
実際に
<歌手>が
<絵を描く事>
から離れると、
ファンAも
離れる。
それは
絵を描こうが
何をしようが
関係が
無いのだ。
それは
絵描きが
絵を描く事を
尊重など
していないのだ。
<歌手>……――
「ζ」
――が問題であり
それは
代替可能である。
その時…――
<絵を描く事>は
論点では
ない。
相手は
”同じ”
”様に”
立っていない。
絵を描く者が
絵を描く時、
歌手のファンの意見を
尊重する
必要は
無い。
それらは
どれだけ
優遇しようと……――
「ζ」
――が
見えなくなると
離れる。
それらは
何かをしながら
何もしなかったし………――
何もしない。
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他でも
”同じ”。
”劣る者”が
野球に関して
感想を
述べたとする。
この時、
”劣っていない者”が
自身の経験を
通じて得た
野球に関する
詳細な……
――より上位の…
意見を
返した。
この時、
”劣る者”は
以下の
”様な”
反応を
示す。
”劣る者”:
「お前
何様だ!?」
”劣る者”:
「誰もが
最初は
初心者だ!!」
”劣る者”:
「お前 [”劣っていない者”] も
最初は
初心者だった」
”劣る者”:
「だからこそ、
”同じ”
である」
”劣る者”:
「だからこそ、
<初心者である
わたし [”劣る者”]
の意見>を、
<元は
初心者であった
お前 [”劣っていない者”]
の意見>と
”同じ”
”様に”
尊重しろ!!!」
そして、
<”悪”
のヒューマニズム>
による……――
「平等化」
――が………
――過激に……
働き出す。
”劣る者”:
「ちょっと
経験したからって
偉くない!!」
”劣る者”:
「経験した者は
経験しない者と
”同じ”だ!」
”劣る者”:
「平等だ!!」
”劣る者”:
「経験していない
みんなが
楽しめる為には
玄人は
要らない!!!」
”劣る者”:
「批評家は
要らない!!」
こうして、
”上”
の者を
無為化する。
野球経験者の
経験を
無視する。
「消そう」
――と
画策する。
そして
次のフェーズでは、
#より
”劣った者”#が
”劣った者”に
”同じ”事を
繰り返す。
そして
その先に
ある展開は…――
「”低レベル”
だけが
跋扈する
”悪”の
”場”」。
「最低」
――なのだ。
それらは
尊重など
しなかったし……――
しない。
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